mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

TVドラマ『徒歩7分』

2015-02-05 10:54:45 | 日記

  NHKBSの短期連続TVドラマ『徒歩7分』が可笑しい。若い独り暮らしの男女のやりとりが、みごとにすれ違う。登場人物の置かれている状況と彼女または彼の発する言葉とが、マッチしない。

 

  出来した「事態」は逼迫しているのに、登場人物は外聞を憚って取り繕うから、外から「事態」をみている視聴者には、彼女の自己中心的な「世界/徒歩7分」が際立つ。彼女の「窮迫する事態」を救おうと登場する彼もまた、彼女の「事態の切迫」と「外聞を憚る」をそれとして受け止めていないから、文言通り(ベタ)にやりとりが進行して、視聴者からすると、頓珍漢な会話に爆笑してしまうというドラマである。

 

 爆笑していていいのか、とふと思う。学生食堂で一人で食事をとることを恥じてトイレで弁当を食べる学生の話などが報道されたときは、やはり爆笑しながら読み飛ばしてしまったりしたが、ひょっとすると(当の学生にとっては)「マジで」深刻な事態なのかもしれない。何が起こっているのだろうか。

 

 「徒歩7分」というのは、当人が「自分の身の周り7分の世界」を感知/関知することしかできないことを指している。当人にとっては「それが精いっぱい」ということも描き出されている。その「それが精いっぱい」の人たちが蝟集してかかわりあうときの〈世間〉がまさに頓珍漢になると、このドラマは言っているようである。となると、これは、笑って済ませる話ではない。私たちの現在が、いままさにこうなっているのではないか。そう切り出して提示して見せているように読める。

 

 私たちは平和な暮らしに慣れ親しんで、すっかり狭い〈世間〉で満たされているようだ。「徒歩7分」で車に乗ることもできれば、バスや電車や新幹線や飛行機に乗って遠方へ飛ぶこともできる。つまり「徒歩7分」は、途中の移動手段や商業的関係によって支えられている社会関係を捨象している、私たちの身体的にかかわりあう日常の「かんけい」なのだ。捨象するというのは気遣わないことを意味する。それらが所与の条件としてかぶさってきていることであるから、(向こうから迫って来た時には)我が身を守るために関知しなくてはならないが、自分からその与件の存立状態をどうにかすることができるとは感じていない。

 

 しかし、与件として(意識外に)捨象してきたものの中に「自分の徒歩7分」を位置づけないと、私たちは「世界」を見て取れない。「世界」をみる「窓」はしかし、「私の感覚や観念」という窓ガラスを通過した〈世間〉からであるから、与件を意識外に捨象してしまうと、自分の世間が「世界」のどこに位置づいているかわからなくなる。私たちは自らの内面においてそのような操作をしてはじめて、「世界」の中に位置づいているという確信を得ているのである。

 

 ところが逆に、「世界」をみていると確信している人たちの多くは、〈自分の窓/自分の世間〉を意識しない。微分したところの「事態」を(意識の外に)捨象して「世界」を構築し、それがすべてだと勘違いする。だから〈世間〉に暮らす人々を頭数としてしか見ていなかったり、数値で表現できることしか「世界」の動きとみることができない性癖をもつ。その人たちの動きが蝟集して動く「世界」が、〈世間〉に暮らす人々を容赦なく襲う。そういう事態におかれて私たちは、いまある。「世界」を語っている産業界の人たちも政治家も、皆「徒歩7分」じゃないのか、そう私には思える。その自意識がないところまで、ドラマの登場人物たちとおんなじでは、やはり嗤ってしまうしかない。

 

 そこまで敷衍して考えると、「徒歩7分」の意味するところは、なかなか奥が深い。
                                                                      


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