mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第一次資料として存在している気分

2024-06-09 09:32:20 | 日記
 一年前(2023-06-08)の記事「バリアの違い」を読んでいて、いま読みはじめた本のオモシロイ指摘を思い出した。モリス・バーマン『神経症的な美しさ――アウトサイダーがみた日本』(慶應義塾大学出版会、2022年)。
 この方、序章でこう紹介する。

《『資本主義に万歳二唱』でアーヴィング・クリストルは、資本主義は二度万歳するほどの価値はあるが、三度ではないと論じている。二度というのは、生活の物資的状況が向上し(一部の人にとってだが)、個人の自由が増大したからだ》

 これは資本主義システムがすでに行き詰まっていることを感知し、そこから離脱するのに文化的なイメージを描いて方向を探ろうとしている。その文化的イメージとして、アウトサイダーがみた「日本」を取り上げる。
 日本人が好む「日本論」は、自画自賛的自己イメージを描き出す作用をしていて、それは日本人の自信のなさを象徴することと評されてきた。だがモリス・バーマンは、道元の「正法眼蔵」や鈴木大拙に触れて、日本文化の核心にあるイメージを「禅」に求める。
 つまり、最大限に人の欲望を開いて利益に結びつける自動運動の資本主義が見せる行き詰まりを、禅が提示する伝統文化のイメージに向け、打開の道を探ろうとしている。
 道元の著書が示す「認識」、鈴木大拙が修行を通じて語り出す禅の「悟り」を《驚きをもって存在それ自体を認識すること、日常生活の具体個別的体験のうちに見いだされるような、あるモノや状況の「如」、すなわち直接的且つ物質的な現前を認識すること》と読み取る。あるいは刀剣をつくる職人の「ものづくり」に込める「精神」に「張り詰めた知覚、何が起きても対応できるという精神の流動性に関するもの」をみてとり、《「意味」がモノそれ自体であるがゆえに、悟りは職人たちに驚異の世界を切り開く》とまとめる。
 これは、資本家社会的システムの中で日々明け暮れる「労働」を、人が生きるために働く「仕事の具体的作法」として捉え直すことへと遡り、そこに、人が自然とどのような向き合い方をしているか、その意味することへと探求する心を、私は感じる。つまり日々、原点に還って我が振る舞いを見つめ直すことから、現代社会の生産と流通と消費のシステムを見直そうではないかと考えている気概を感じる。
 モリス・バーマンは、アーシュラ・ル・グウィンの『言の葉の樹』(ザ・テリング)小説を、こう紹介する。

《企業国家テラによってほぼ一掃されてしまった古い文明がアカである。そこに調査員としてテラから派遣されたサティは、古くからの教え、いにしえの叡智(『語り』ザ・テリング)が少しでも残っていないか見つけ出そうとする。彼女は遠く離れた田園地帯で、企業国家の目を逃れて、昔ながらの生活様式が保存され、営まれていることを発見する。》

 なんとこれは、「風の谷のナウシカ」を彷彿とさせるではないか。オモシロイ。3月に取り上げた安宅和人『シン・ニホン』の未来イメージにも重なる。これを私は、ワタシ自身の身に刻んでいる無意識に、ひょっとするとこの原点が包含されているのではないかと感じている。
「詩人、小説家、エッセイスト、社会批評家、文化史家」と自己紹介するモリス・バーマンは、私より二つ若い。しかし彼の渉猟した日本文化は、私よりはるかに広く深く読み取っていて、さすが、自己紹介の看板に負けない専門家だと、わが身が門前の小僧であることを自覚する。このメキシコ在住のアメリカ人が欧米の目で日本文明を見て、人類史の将来像を描こうということに私は、第一次資料として存在している気分。へへへ。そういう当事者なんだね。

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