自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆備忘録・猿鬼の伝説

2010年12月31日 | ⇒トピック往来
 前回のコラムで紹介した輪島市西山町大西山は能登町柳田(旧・柳田村)は互いに山を背にした隣の集落地域である。ここにサルにまつわる有名な伝説がある。能登では知られる「猿鬼伝説」である。集落における、人々の関係性、精神的な相克が見えて興味深い。以下、伝説の概略である。

 昔々、大西山に善重郎というその名の通り善良なサルがいた。善重郎は大西山のサルたちの頭領だったが、配下に一匹の荒くれ者のサルがいた。そのサルは善重郎の目を盗み、近辺の民家に悪さをしていた。ある日それが善重郎の知るところとなり、大西山を追い出された。あわてて逃げたサルが踏みつけた岩が三つに割れた。現在その岩は、「三つ岩」と呼ばれている。

 大西山を逃げ出したサルは、柳田の岩井戸という在所の岩穴をねぐらとするようになり、何時しか化け物になっていく。それから配下のサルたちをひきつれて、能登の農作物や馬や牛を食い荒らし、人をさらうなどして、人々に「猿鬼」と呼ばれ、恐れられるようになった。耐え切れなくなった村人たちは、大幡神社の杉神姫に助けを求めた。杉神姫は願いを聞き入れ、弓矢を準備しつつ、猿鬼たちの隙をうかがっていた。

 ある日、猿鬼が病にかかったという噂を聞いた杉神姫は、岩井戸の岩穴の近くで猿鬼の様子をうかがっていた。岩穴からは猿鬼のうめき声が聞こえてきた。そのうち岩穴から病身の猿鬼が出てきたので、杉神姫は猿鬼に向かって矢を放ったが、なぜか命中しない。さらに杉神姫は剣で猿鬼に切りつけたが、剣は真二つに折れてしまった。仕方なく杉神姫は大幡神社に逃げ帰り、神無月に出雲へ行った際に他の神々に相談しようと思いました。

 神無月となり、出雲で猿鬼退治の話し合いがなされた。その中で能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍、杉神姫を副将軍として、能登の神々で協力し猿鬼を退治することが決まった。作戦会議をする中で、村人が猿鬼に矢が当たらない理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていることを神々に知らせまた。それを聞いた杉神姫は、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙うことを思いつきました。村人たちは毒草を集め、それを煮詰めて毒を抽出し、矢に塗りつけた。そしてその矢を携え、気多大明神をはじめとする神々は猿鬼の住む岩井戸の岩穴に向かった。

 岩穴から猿鬼たちをおびき出すため、杉神姫は、村人が作った白い布を身にまとい、神々が囲むなかで踊りった。この挑発にのって猿鬼が配下のサルたちを従え岩穴から出てきた。神々と猿鬼たちの戦いが始まり、神々が一斉に毒矢を猿鬼たちに向けて放った。しかし、猿鬼は矢をはたき落とし、なかなか目に命中しなかった。少し離れた所から猿鬼を狙っていた杉神姫が、猿鬼の目に狙いを定め、矢を放つと、見事、猿鬼の目を射抜いた。猿鬼は叫び声をあげて逃げ出しました。それを神々が追いかけた。そして杉神姫がもつ名刀・鬼切丸によって猿鬼の首は切られた。ドス黒い血が近くの川を流れ、川は黒々と汚れた。以来この川を黒川(くろがわ)と呼ぶようになった。退治された猿鬼は神々によって葬られ、現在その地は鬼塚と呼ばれている。その塚を荒らすと大雨が降るといういわれがある。猿鬼退治の軍を興した気多大明神は猿鬼が根城とした岩穴の前に祀られ、岩井戸神社と呼ばれている=写真=。

 この猿鬼伝説と、大西山が猿回しの終焉の地であることと直接は関係性はない。が、何か因縁めいて面白い。この話は、『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている。

⇒31日(金)夜・金沢の天気  くもり
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★備忘録・トキと猿回し

2010年12月30日 | ⇒キャンパス見聞
 奥能登・珠洲市の旧家で、江戸時代から伝わるという「猿回しの翁(おきな)」の置き物=写真=を見せていただいたことがある。チョンマゲの翁は太鼓を抱えて切り株に座り、その左肩に子ザルがのっている。陶器でできていて、なかなか味わい深い。古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。能登もため池による水田稲作が盛んで、猿使いたちの巡り先だった。猿使いたちは神社の境内などで演じ、老若男女の笑いや好奇心を誘ったことだろう。代々床の間に飾られるこの猿回しの翁の置き物は、その時代の農村の風景を彷彿(ほうふつ)させる。

 以下は、ことし金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムで講義(5月29日)いただいた村崎修二さんから聞いた話である。村崎さんは途絶えていた周防の猿回し芸を1982年に復活させた人である。かつて猿回し師たちが根拠としていた周防高森(現・山口県岩国市周東町)に居を構え、息子で跡継ぎの耕平さんと全国を旅する。村崎さんの芸は「本仕込み」と呼ばれるもの。サルと仲間的関係になって芸を行わせる手法で、仕込んだサルは「花猿(はなざる)」と呼ばれる。毛並みにつやがある。同じ猿回し芸でも、芸能のプロに徹してサルを調教する手法とは一線を画し、「里めぐり」という伝統的な猿回し芸にこだわっている。

 村崎さんは、民俗学者の宮本常一(故人)に師事し、また京都大学霊長類研究所を設立した今西錦司(同)と知遇を得て、1978年から10年の間、霊長類研究所の研究員として猿回しに関する調査活動も行っている。講義の中で、意外な話が飛び出した。「江戸時代から連綿と続いた周防の猿回しが途絶えたのは昭和42年(1967)でした。佐々木組という一座がいて、最後に演じた場所が能登半島の輪島市大西山町です。ここで解散し、途絶えたのです」と。ではなぜ能登が終焉の地となったのか。「かつて、猿回しの旅の一座を無料で泊めてくれる家を善根宿(ぜんこんやど)と呼んでいました。泊める方の家も、泊めるとご利益があると思っていたようです。しかし、戦後の高度成長期、そのような善根宿は全国的に少なくなった。時代は変わったのです。でも能登は猿回しの旅芸人を快く迎えてくれ、最後まで残ったのだと思います」と。

 ことし8月、その輪島市西山町大西山=写真=を訪ねた。山間地の斜面に古民家が点在する、『日本昔話』のような里山だ。能登で有名な猿鬼伝説の発祥の地でもある。曲がりくねった路上で老婆と会うと、向こうから会釈する。能登も随分と様変わりしつつあるが、この地は原風景のままという感じがした。

 直接関連はないが、能登に生息した本州最後の一羽のトキ(愛称「能里=のり、オス」)が捕獲されたのは昭和45年(1970)だ。佐渡のトキ保護センターに繁殖のため送られ、翌年死んで、本州のトキは絶滅した。解剖された能里からは有機水銀が検出され、繁殖障害を起こしていたとされる。昭和40年代というのは、芸にとっても、種にとっても一つの転換期だったのだろうか。それにしても、猿回しの解散と本州最後のトキが能登というのも偶然だろうか。

⇒30日(木)朝・金沢の天気  くもり
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☆備忘録・japan=漆器

2010年12月29日 | ⇒キャンパス見聞
  地域の自然や文化、歴史を学ぶ「いしかわ新情報書府学」という科目を金沢大学で担当している。石川県が「石川新情報書府」という事業でDVDを制作した。輪島塗や山中漆器、九谷焼、加賀友禅に代表される伝統工芸、能楽や邦楽、舞踊といった伝統芸能など世界に誇れる文化資産をデジタル情報化したものだ。石川新情報書府のネーミングは、江戸時代の儒学者である新井白石が「加賀は天下の書府なり」と蔵書の多さや、多彩な芸能文化を評価したことにちなむ。そのDVDを学生たちに視聴してもらい、続いて関係者に講義をしてもらうという授業内容だ。

 先日(12月8日、15日)、輪島塗についての講義を大向稔氏(大向高洲堂社長)からいただいた。「和食という文化の特徴は、食器を持つことなんです」。漆器と言うのは持つことを前提にその手触り、器としてのカタチの丸みが計算されている。さらに、手から落ちることを前提に器のエッジ(縁)が欠けないような、堅さの工夫がされている。たとえば、輪島塗は椀の縁を「布着せ」といって、布を被せて漆を塗ることで、落下の衝撃で欠けないようにしてある。話の一つ一つに人の知恵と言うものが感じられる。伝統知、あるいは文化とはこうした知恵と工夫の結晶なのだろうと今さらながら感じ入る。「日本人はちょっとでも欠けた器を極端に嫌うでしょう。そんな器は危ない、唇や手が切れる、と本能的に判断しているのです」

 授業では、学生たちに、一つ70万円の器(煮物椀)を実際に手にしてもらった=写真=。学生たちは恐る恐る。金蒔(まき)絵で伝統の図柄(花鳥風月)をあしらったいかにも高価という器である。そこで大向氏は学生に「器に爪を立ててごらん」と。学生からはエエッと驚きの声が。試した学生の爪は器では滑るだけだ。それもそのはず。鉛筆の硬さで表した「鉛筆硬度」でいえば、爪は2Hぐらい。漆器は堅いもので30Hにも。学生が手にした器は15Hぐらいという。漆は年代を重ねればそれだけ堅くなる性質がある。丸木舟が出土したことで知られる福井県若狭町の鳥浜貝塚遺跡からは、縄文前期(6000-5000年前)ごろの朱色の漆(うるし)が塗られた祭祀用の櫛(くし)が出土している。大向氏はその実物の写真を学生に見せた。朱の色は何千年を経ても鮮明である。堅さも。漆が持つ特性は計り知れない。それを器に活用した人の知恵の見事さではある。それを縄文人が証明してくれている。

 「では、いつごろから輪島塗なのか」と授業の締めに入った。2007年にブランド総合研究所(東京)が発表した地域ブランド産品によると、非食品分野でブランドものと想起されるものに「輪島塗」が1位、有田焼が2位という順位がついた。1805年に輪島で「大黒講」という組織がつくられた。このときに、製造方法の基準、価格の統一、販売エリアの割り振りなどが決められた。販売エリアは北海道の松前から琉球まで101に分割された。それを105軒の塗師屋(製造と販売)が担当した。いわゆる品質保証、競争による価格下落の防止などの製造と販売のル-ルが確立された。200年以上も前に今でいうマーケティング戦略が練られ、輪島塗のブランド化を確立した。同時に、曹洞宗の修行僧が総持寺(輪島市門前町)に集まり、全国の末寺に散ったことも、葬儀の膳に輪島塗を使うことの普及になつがった、という。

 いま輪島塗の技術は器のほか、家具や美術といった異業種への転用が盛んだ。コンサートホールでの音響効果や、カメラのボディにも使われている。時空を超えて語られるjapan=漆器の世界に興味は尽きなかった。

⇒29日(水)朝・金沢の天気  ゆき
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★ジョグラフ氏のこと

2010年12月21日 | ⇒トピック往来
 12月18日開幕した国際生物多様性年クロージングイベントは、参加者による20日の能登オプショナルツアーで終了した。ツアーバスには朝7時半から8ヵ国の駐日大使や環境問題の担当者18人が乗り込んで、七尾湾のカキ養殖場や野鳥公園を見学し、輪島市では輪島塗工房、酒蔵などを見学した。野鳥公園では、双眼鏡をのぞいていた参加者が渡り鳥のタゲリを見つけ、「Pee Weeがいる」と喜んでいた。ネコのような鳴き方するので、ヨーロッパでも親しまれている鳥なのだ。

 ところで、今回の国際生物多様性年クロージングイベントがなぜ石川県で開催されたのか、なぜ東京や生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の開催地、名古屋ではなかったのか。これが一番のナゾだと、開催期間中に県内外の参加者から聞かれた。そのナゾを、生物多様性条約事務局長のアフメド・ジョグラ氏と石川県のかかわりを振り返りながら解いてみたい。

 実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲・石川県知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット)である。2008年5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。谷本知事は「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。さらに、あん所長は通訳という立場だったが、知事以上に身振り手振りで話し、右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちるほどだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。トップセールスの手ごたえをつかんだのである。

 その3日後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。ジョグラフ氏の石川県・能登半島の訪問はその4ヵ月後に実現した。

 2008年9月13日と14日にジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、輪島市金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 2009年5月23日、ジョグラフ氏が金沢大学を訪れ、小学生や学生たちと「グリーン・ウェイブの日」を記念して植樹をした。5月22日は国連の「生物多様性の日」と定められ、ジョグラフ氏は東京での催しに参加し、翌日金沢大学を訪れた。中村信一学長のほか谷本知事、あん所長、中村教授、環境省生物多様性地球戦略企画室の徳丸久衛室長(当時)、学生と近隣の小学生50人余りがコナラとクヌギの苗木を植えた。その際のジョグラフ氏は記念スピーチで、「植樹活動は運動というより教育活動と考えており、大学が積極的に関わる意義は大きい」「平和を築くことは自然保護を抜きにしては考えられない」と話した。

 2009年6月ごろ、生物多様性条約事務局(モントリオール)は190余りの加盟国に対し、2010年国際生物多様性年に関連するスケジュールを通知している。1月11日・キックオフイベント(ベルリン)、1月21日、22日・キックオフイベント(パリ)、9月・国連総会(ニューヨーク)、10月11日-29日・MOP5とCOP10(名古屋)、12月18日、19日・クロージングイベント(金沢)

 国際生物多様性年の2010年。2月6日、金沢市で開催された「にほんの里から世界の里へ」と題したシンポジウム(総合地球環境学研究所、金沢大学など主催)に、ジョグラフ氏からビデオ・メッセージをいただいた。その中で語ったことは哲学的だった。Born and raised in Kanazawa, the great Japanese thinker Daisetsu Teitaro Suzuki said that life ought to be lived as a bird flies through the air, or as a fish swims in the water. Suzuki was encouraging us to live as naturally as possible, which, at a different level, is one of the themes of the International Year of Biodiversity in 2010. (金沢に生まれ育った偉大な思想家・鈴木大拙は、「(禅においては)鳥が空を飛び、魚が水に游(およ)ぐように生活されねばならない」と言っています。鈴木大拙は人々に、「できるだけ自然に生きなさい」と奨めているのですが、それは、見方を変えれば、2010年の国際生物多様性年のテーマの一つでもあります)

 こうしたジョグラフ氏と石川県とのかかわりの中から、国際生物多様性年クロージングイベントの石川開催が実現した。12月19日の記念シンポジウムで、ジョグラフ氏は谷本知事に対し、生物多様性年に貢献したとしてアワード(功労賞)を贈呈した。そして、「2008年5月に彼(知事)と始めて会った。里山や里海が生物多様性の保全にどれだけ役立つか熱っぽく語ってくれた。本来、政治家だったらクロージングイベントではなく、キックオフイベントの誘致を望んだろう。しかし、彼はCOP10を機に世界の流れが生物多様性に大きく動き出すことを読んで、今回のクロージングイベントこそが生物多様性の新たな時代へのキックオフだと快く引き受けてくれた。感謝する」と言葉を添えた。

⇒21日(火)朝・金沢の天気  くもり
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☆生態系サービスのこと

2010年12月20日 | ⇒トピック往来
 19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」(石川県立音楽堂)で、新鮮だったのは、スタンフォード大学(アメリカ)のグレッチェン・カーラ・デイリー(Gretchen C. Daily)教授=写真=の言葉だった。「中国政府はこれまでに1000億㌦を投じて生態補償を行っています。生態系サービスの供給を強化するとともに、貧困の軽減を目指しているのです。・・・日本にはすでに人と自然が調和するシステムを里山で実現していますね」。今回の記念シンポジウムでは、パネル討論の参加で、7、8分ほどのスピーチながら、それでも生物多様性の新たな可能性を切り開く示唆に満ちた語りだった。

 デイリー氏の業績は、われわれがよく言葉にする「自然の恵み」を経済に、政策的に組み込むことなのだ。「市場を使って自然を守る」と言ったほうがよいかもしれない。1997年の著書『生態系サービス(Nature's Services)』で生態系の恩恵を体系的に整理し、過小評価されてきた価値を明らかにした。これにより、生態系や生物多様性の保全の必要性がより鮮明になったのだ。

 生態系と生態系サービスの変化が人間生活に与える影響を評価するため、国連の呼び掛けで実施された「ミレニアム生態系評価」(2001-2005年)では、生態系サービスの概念構築と定量的評価に重要な役割を果たした。この結果、ミレニアム生態系評価では、水の供給や気候の調整など24項目の生態系サービスのうち半数以上で質が低下していると指摘されたのだ。2006年から国連大学高等研究所などが中心となって取り組んだ日本の里山・里海評価(JSSA)はその国内版でもある。

 デイリー氏は短いスピーチの中で、時間を惜しむように話を続けた。生態学と経済学を統合し、自然を保全することが利益をもたらす「自然資本プロジェクト」を立ち上げた。ハワイ・オアフ島でのプロジェクトでは、105平方㎞におよぶ地域を「インベスト(InVEST:Integrated Valuation of Ecosystem Services & Tradeoffs)」と呼ぶソフトウエアを用い、生態系サービスのマッピングと評価を行い、その科学的データをもとに政策を立案した。土壌改良による生産性の高い農地をつくることや、風力・ソーラー発電、環境教育といった事業が同時に進められた。そしてさらに巨費投じているのが、冒頭で紹介した中国プロジェクトである。

 生態系サービス、そして自然資本という概念を実践することで定着させた偉大な科学者といえるかもしれない。生態学と経済学を統合するという壮大なプランは実証の裏付けがされれば、「ノーベル賞級」とも評される。

⇒20日(月)朝・金沢の天気  くもり
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★GIAHSのこと

2010年12月19日 | ⇒トピック往来

 きょう19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」で、石川県の取り組みを発表した谷本正憲知事は聞き慣れない言葉を打ち上げた。「ジアス(GIAHS)に能登の里山里海を登録したい」と。参加者はきょとんした表情だった。それもそのはず、登録が実現すれば日本では第1号であり、おそらく日本のほとんどの人は初耳だろう。

 GIAHSって何だろう。正式には、Globally lmportant Agricultural Heritage Systems、世界重要農業資産システムと呼ばれる。これでも理解が進まないので、分かりやすく「世界農業遺産」や「農業の世界遺産」と呼ばれたりする。国連食糧農業機関(FAO)が認定するもので、2002年に創設された。未来に引き継ぐに値する伝統的な農法や景観、文化(農耕儀礼など)に加え、生物多様性の保全と活用が重視される。能登半島の農耕儀礼「あえのこと」が昨年9月、ユネスコの無形文化遺産に指定され文化面で、人と農業にかかわる「資産」を持っている。また、輪島の千枚田=写真=に代表されるように、リアス式海岸が連なる条件不利地のため、ため池をつくり、谷あいに棚田を形成して里山里海が独特の景観を醸し出している。また、ため池農業による生物多様性は、二次的自然の上に成立していることから、農業の継続が生物多様性存続の基盤となっている。

 知事と同じく記念シンポジウムで生物多様性の成果報告をした武内和彦国連大学副学長(東大教授)によると、能登と同時に、新潟県佐渡市も「トキを育む農業」をGIAHSに登録申請した。また、これまでGIAHSに登録されてる地域は、チリのチロエ諸島で200種のイモを栽培する「チロエ農業」や、イタリアのソレント海岸で栽培されている「レモン園」、フィリピンのルソン島イフガオの傾斜地に展開する棚田(1995年・ユネスコ世界遺産)など8ヵ所である。

 申請主体は、羽咋以北の4市4町(七尾市、輪島市、羽咋市、珠洲市、能登町、穴水町、志賀町、中能登町)となる。では、登録されることでどのようなメリットがあるのか。正直、これは申請主体の活動次第だ。農産物の付加価値やグリーン・ツーリズム、国際的なネットワークでの情報発信など多様な活用方法があるだろう。

 正式な登録は来年夏ごろであり、登録が決まった訳ではない。が、動き出した。類(たぐい)希なる農業資産を祖先から受け継ぐ能登半島は「過疎・高齢化のトップランナー」でもある。このまま座して死を待つのか、あるいは世界とリンクしながら、生物多様性を育む農業を現代に生かす努力を重ね新たなステージを切り拓いていくのか、その岐路に立っている。

⇒19日(日)午後・金沢の天気  はれ

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☆生物多様性年のこと

2010年12月18日 | ⇒トピック往来
 国連が定めた国際生物多様性年の総括と、来年の国際森林年への橋渡しをするイベントがきょう18日、石川県立音楽堂邦楽ホール(金沢市)で開幕した。国連の関係者、2人の大臣を招いての国際会議はどのようなイベントであったのか、発言者の言葉を拾って紹介する。

 アフメド・ジョグラフ生物多様性条約事務局長:生物多様性条約第10回締約国(COP10・名古屋市)では、遺伝子資源の利用と利益をめぐる配分(ABS)の国際ルール「名古屋議定書」と生態系保全の目標「愛知ターゲット」が採択された。これは条約参加国が生物と人が共生する世界を築きたいと心をそろえたから実現できたこと。(パン・ギムン国連事務総長のメッセージを紹介して)今年、名古屋で築いた絆を大切にしていきたい。そしてこの機運を生かして、今後10年の取り組みを成功させたい

 松本龍環境大臣:国際生物多様性年の機運が世界を駆け巡り、緑の波が会場に押し寄せる息吹を感じた。先進国と途上国がABSをめぐる対立を乗り越えたのは、各国がぎりぎりのところで譲歩して、一つ一つ利益を積み重ねたからだ。議長として、私が木槌を振り下ろしたとき、会場が一つになっていた。生物多様性の損失を止めるためには、今後10年の行動が重要になる。人類の英知を集めて、行動を起こしていきましょう

 鹿野道彦農林水産大臣:里山と里海の重要性はCOP10ですでに世界の共通認識となった

 谷本正憲石川県知事:石川の県土の6割が里山であるものの、生活の変化や過疎・高齢化で荒廃が問題となっている。石川はトキが暮らせる自然環境を再生して未来に引き継ぐこと、さらにトキが舞う豊かな里山や里海を再生することが人と自然の共生につながる。そのためには一過性ではなく、永続的な取り組みが必要だ。地球規模の課題テーマである生物多様性の保全にローカルな立場から貢献していきたい

 ジャン・マッカルパイン国連森林フォーラム事務局長:国際生物多様性年のクロージング式典は、森林にとっても、生物多様性にとっても、ビギニングのセレモニーでもある。石川県の知事から里山里海の説明を聞いた。日本人はうまく人と農業、自然の関係を守ってきたと思う。人と森の関係もそうあるべきで、森林年では相互依存の関係を再確認したい

※写真は、国際生物多様性年と国際森林年の国連関係者や日本政府の関係者が集まった式典=石川県立音楽堂
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★未だネット選挙解禁せず

2010年12月14日 | ⇒メディア時評
世界に向かって大声で言えない3つのことがあると個人的に思っている。一つは、自由貿易を目指すべき日本が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)をためらっていること、日米安保条約のもとで巣ごもり状態の日本の防衛のこと、そして日本の選挙ではインターネットの利用が禁止されていること、である。最初と2つめについては世論が割れる。ただ、3つめは有権者なら誰しも不可解に思っているだろう。なぜなら、有権者の間で是非をめぐる論争は聞いたことがない。政治家が決断できずに先送りしているだけなのだ。

 世界から嘲笑が聞こえる。「ネットを政治や選挙に活用できなくて、何がICT(情報通信技術)先進国だ、笑わせるな」と。アメリカでも韓国でも、「YouTube選挙」と言われるくらいに選挙でネット動画が盛んに利用されている。一方、日本の選挙で唯一の動画ツールである政見放送などは視聴率数%の低レベルだ。税金を無駄遣いするなと言いたくなる。

 ネット利用が公職選挙法で違法という意味合いは実に消極的な理由だ。現行法では、選挙期間中に、法定ビラなどを除きチラシやポスターなどの図画の頒布が制限されているからだ。公選法第142条(文書図画の頒布)では、衆院選(小選挙区)で使える選挙ツールは候補者1人につき、通常葉書35000枚と選管に届け出た2種類以内のビラ7万枚と決まっている。これ以外は選挙期間中使えないのだ。ネットが出始めた平成8年(1996)に総務省は「パソコン画面上の文字や写真は文書図画に該当」との見解を出し、今でも選挙期間中にホームページやブログを更新することや、電子メールを送信することを「不特定多数への文書図画の頒布」とみなして禁止している。選管などがチェックしている。

 ネットの選挙利用に政治家が消極的な理由として、政党や候補者になりすましたメールが出回ったり、ネットで政党や候補者の誹謗中傷が想定されるからだ。また、他国の国益に反する公約を掲げた候補が国外からのサーバ攻撃にさらされることを危惧する向きもある。

 とはいえ、ネット選挙は時代の流れであり、ことし7月の参院選前には解禁するよう与野党でガイドラインがまとめられたが、鳩山退陣など政局で混乱があり、公選法改正は先送りとなった。現在の公選法は1950年に制定されたもの。この60年も前の縛りで、当時はテレビやインターネットを使用した選挙活動は視野に入っていなかったが、21世紀に入ってもネットの解禁どころか、「政見放送」(第150条)によって、候補者はテレビ広告すら流せないでいる。

 さる11月28日投開票の金沢市長選の期間中に、初当選を果たした山野之義市長の支持者がツイッターで投票を呼びかけたとして、市選管がこの支持者に削除を求めていたとの記事が14日付の新聞各紙で掲載された。山野氏本人は告示後、ブログ、ツイッターとも更新していない。石川県警は警視庁と相談し、「(ネット利用を解禁する)公選法改正の動きがある微妙な時期なので立件は難しい」と警告などの措置は見送りと判断した。

 アメリカは1996年の大統領選挙が実質的な「ネット解禁」元年だった。アメリカに遅れること14年。さらに日本でのインターネットの利用者数が9408万人、人口普及率が78.0%(総務省「2009年通信利用動向調査」)に達しても、まだ法が現実に追いついていない。問題にすべきはこの点ではないか。

⇒14日(火)夜・金沢の天気   くもり
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☆武士の家計簿

2010年12月13日 | ⇒ランダム書評
 金沢市片町2丁目にかつて老舗の喫茶店があった。朝7時半から営業していて、広い店内には早くから客が入っていた。客の中にはいくつグループがあって、目つきが鋭い人たちがいた。金沢市内の不動産の情報を交わす人たち、あるいは骨董や古美術の会話をするグループもいた。それぞれのプロたちによる朝のミーティングだったのだろう。20年以上も前、「バブル経済」の時代の話だ。その喫茶店の名前は「ぼたん」。2006年の冬だったろうか、創業60年の暦を刻んで店じまいしてしまった。今、その店が営業を続けていれば、おそらく全国から客が訪れていた違いない。幕末、加賀藩の「そろばん侍」といわれた下級武士の暮らしを描いた映画『武士の家計簿』の主人公、猪山直之・成之家が実際にあった場所である。

 原作は磯田道史著『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書)である。2003年に出版された当時読んだ。それこそ今の言葉で表現すれば、政権交代、経済破綻、地価下落、リストラ、教育問題など現代の日本が直面している問題を、140年ほど前に大政奉還後の武士たちや商人が経験していた。江戸時代から明治へと近代日本の姿が一つの家族を通して見えてくる。そんな著書だ。

 ある意味で、そろばん侍の出世物語でもある。参勤交代で加賀藩の2000人もの武士たちが金沢と江戸を往復した。加賀藩の御算用者はその宿泊費、交通費などのロジスティック、軍事用語で「兵站(へいたん)」の会計を担当した。猪山直之の息子・成之はこのロジの緻密な計算力が買われて、海軍主計という職にありついた。薩摩、長州の官軍の武士たちは勇猛で、時代の功績者ではあるものの、それだけでは国家規模の軍隊は動かせない。近代の軍隊へと脱皮するためには、西洋式兵法と並んで、組織を経理面でも動かす実務経験者が必要だったのである。これは時代のニーズだった。

 著書の中で、新しい時代に適応した猪山家とは対照的に、時代に逆らった不平士族たちがいた。金沢で三光寺派と呼ばれたグループで、リーダー格は元加賀藩士の島田一郎だった。明治11年(1878年)5月、大久保利通を東京・紀尾井坂で暗殺した。島田らは自首し、同年7月に斬首刑に処される。その島田の遺骸を引き取りに赴いたのは成之だった。著書の中で、私が一番注目したのはこの下りだった。明治維新の元勲を殺害した逆賊の遺骸を引き取りにいくだけでも、帝国の軍人としてリスクは伴ったことは想像に難くない。が、誹(そし)りを受けるのを覚悟で、本懐を遂げた島田の最期を、同郷の侍の一人としてと弔った。人生の損得のそろばん勘定を超えた、人間的な眼差しを評価するのである。

⇒13日(月)朝・金沢の天気  くもり
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★清張、荒波の情景

2010年12月10日 | ⇒トピック往来
 景勝地の能登金剛は、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台となった場所だ。清張生誕100年を記念し、昨年(2009年)11月に広末涼子らが出演して再映画化された。この地には、清張の歌碑がある。「雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅」。歌碑は昭和36年(1961)に建てられた。

 この短歌の意味は、現場に立てばイメージがわいてくる。『ゼロの焦点』のシーンにある冬の日本海の荒波。その波は大きくうねり、そして岩に砕け散る。その砕け方は一瞬の飛び散りだ。この荒海の様子をじっと眺めていると、「人間と同じだ」と思えてくる。人は出世欲、金銭欲、さまざまは欲望をうねらせて突き進むが、最後には自らの矛盾や人間関係、社会制度に突き当たって一瞬にして砕け散る。清張が能登金剛を取材に訪れたとき、日本海の荒波はそのような情景に映ったのではないか。そして「かなしと思へり」と感じた。清張の小説を読めば、欲望と矛盾がサスペンスを生んでいる。

 2010年は激動の一年だった。いや、波乱の幕開けなのだろう。住友生命保険が今年の世相を四文字で表現する「創作四字熟語」を発表し、10日付の各紙朝刊で掲載された。優秀作品の「三見立体(さんみりったい)」は、3D映像の映画やテレビがブームになったことを「三位一体」にもじって表現したもの。案外面白いのは、ちょっとスパイスが効いた入選作品だ。鳩山前総理のとき、アメリカ軍普天間飛行場移設問題で「最低でも県外」と言ったのに、それが「知れば知るほど」に海兵隊の重要性がわかり、その後に沖縄県内の「辺野古」にプランが戻った。それを揶揄して「棄想県外(きそうけんがい)」の作品ができた。その混迷の結果が、「菅鳩交代(かんきゅうこうたい)」だった。

 人々の絆が薄れた社会は「無縁社会」と呼ばれている。高齢者の所在不明が相次ぎ、「戸籍騒然(こせきそうぜん)」となった。その後に、年金詐欺問題が続々と出てきた。もう一つ。「熱烈歓元(ねつれつかんげん)」は「熱烈歓迎」をもじったものだが、「歓元」にひねりが効いている。消費欲が盛んな中国人観光客が日本を訪れているが、歓迎しているのは中国の人より、お金という意味だろう。

 再び、清張の「かなしと思へり 能登の初旅」の歌。今の欲望社会を満たし続けるのはもう限界ではないのか。いつかクラッシュがくる。清張のテーマは単なる小説の題材ではなく、社会への警鐘だと感じている。

※写真は、能登半島・珠洲市真浦町の海岸

⇒10日(金)夜・能登の天気 はれ
 
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