自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

★ドイツ黙視録‐2-

2008年05月31日 | ⇒トピック往来

 ドイツを訪れるに際して、ベートーベンのシンフォニー3番、5番、6番、7番、8番がダビングしてある愛用のICレコーダーを携えた。故・岩城宏之が05年12月31日の大晦日に東京芸術劇場で指揮したベートーベン全交響曲のライブ演奏を私的に録画したものだ。ケルンの街には5番が合うなどと思いながら、移動のバスやホテルの窓から街を眺め、そして街を歩きながらイヤホーンを耳に聴いていた。中でも、5月27日に訪れたアイシャーシャイド村は、6番の心象風景にぴったりだった。

     アイシャーシャイド・美しすぎる村

  アイシャーシャイド村は、生け垣の景観を生かした村づくりで、ドイツ連邦が制定している「わが村は美しく~わが村には未来がある」コンクールの金賞を受賞(07年)した、名誉ある村である。景観という視点で地域づくりを積極的に行なっている村の政策や経緯を知りたいというのが知事ミッションがこの村を訪れた理由だ。

  人口1300人ほどの村が一丸となって取り組んだ美しい村づくりとはこんなふうだった。クリ、カシ、ブナなどを利用した「緑のフェンス」が家々にある。高いもので8mほどにもなる。コンクリートや高層住宅はなく、切妻屋根の伝統的な家屋がほどよい距離を置いて並ぶ。村長のギュンター・シャイドさんが語った。昔は周辺の村でも風除けの生け垣があったが、戦後、人工のフェンスなどに取り替わった。ところが、アイシャーシャイドの村人は先祖から受け継いだその生け垣を律儀に守った。そして、人工フェンスにした家には説得を重ね、苗木を無料で配布して生け垣にしてもらった。景観保全の取り組みは生け垣だけでなく、一度アスファルト舗装にした道路を剥がして、石畳にする工事を進めている。こうした地道な村ぐるみの運動が実って、見事グランプリに輝いた。

  おそらくこの村には北ヨーロッパの三圃式農業の伝統があるのだろう。かつて村人は、地力低下を防ぐために冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)とローテーションを組んで農地を区分し、共同で耕作することを基本とした。このため伝統的に共同体意識が強い。案内された集会場にはダンスホールが併設され、バーの施設もある。ここで人々は寄り合い、話し合い、宴席が繰り広げられるのだという。おそらく濃密な人間関係が醸し出されているに違いない。ベートーベンの6番「田園」の情景はアイシャーシャイド村そのものである。第1楽章は「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第2楽章「小川のほとりの情景」、第3楽章「農民達の楽しい集い」・・・。のどかな田園に栄える美しきドイツのコミュミティーなのである。

  しかし、私には「わが村は美しすぎる」と感じた。濃密な人間関係で築かれた美観というのはどこか息苦しさを感じさせる。次元は異なるかもしれないが、金沢の町内会で道路の一斉除雪に参加しないと近所から白い目で見られるような、そんな雰囲気がひょっとしてあるのではないか、と…。

⇒31日(土)夜・金沢の天気  くもり 

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☆ドイツ黙視録‐1‐

2008年05月30日 | ⇒トピック往来

 石川県知事の訪独ミッション(5月22日から30日)に加わり、ドイツの環境政策の現場や大学における環境教育の取り組みを見学させてもらった。28日には生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の関連会議に参加した。「ドイツは環境先進国」と呼ばれるが、どの点が先進なのかつぶさに観察を試みた。題して「ドイツ黙視録」-。

        シュバルツバルトの爪痕

  5月25日、ドイツの南西部に位置するオーバタール村にバスは着いた。ドイツの里山とも言えるシュバルツバルト(黒い森)が広がる。これまで勘違いをしていた。第二次大戦後、スイスやフランスの工業地帯と接しているため、酸性雨の被害によって、多くのシュバルツバルトの木々が枯死した。黒い森とはこうした状況を指しているのかと思っていた。が、黒い森はかつてモミの木が生い茂り山々が黒く見えたことから付いた名称なのである。黒い森と名付けたのはローマ人という説もあるくらい、昔からの呼称だった。

  案内してくれたバーデン=ヴュルテンベルク州森林局長、フロイデンシュタット氏は「昔から森の木々は私たちのパンなんです」とドイツ人と森のかかわりについて話してくれた。ドイツ人はもともと「森に入る民」だった。木を切り、建築材やエネルギー(薪など)を産出した。切った跡には牧草を植え、ヤギやヒツジを飼った。シュバルツバルトは200年ほど前まで牧草地が広がっていた。産業革命の波がヨーロッパにも及び、森にはトウヒ(唐檜)が計画的に植林され、良質の建材、電柱、船のマスト、楽器の素材を産出する一大植林地帯へと変貌していく。現在、山の木の70%が植林によるトウヒだ。かつてシュバツルバツトの語源ともなったモミの木は20%、マツは10%、ブナ3%とすっかり山の様相が変わった。

  「森の木々はパン」のお手本のような森林産業がシュバルツバルトに実現したのだった。ところが、人の手によって、トウヒの森へとモノカルチャー化した山々にはさまざまな問題が生じるようになる。密植により、低木に光が当たらなくなり、保水性が失われた山肌には地滑りが頻発するようになった。そして戦後の経済成長に伴って、酸性雨の問題が生じる。さらに、気候変動によって嵐が襲うようになったのはここ10年ほどのこと。1999年のクリスマスにやってきた「ローター(Lothar)」と呼ばれた大嵐による森林被害の爪痕(つめあと)は1万haにも及んだ。

  その大嵐の被害状況を保存し、記念公園にした「Lothar pfad(ローターの足跡)」をフロイデンシュタット氏に案内してもらった。「根こそぎ」とはこの状態を言うのだろう。直系6mにも広がるトウヒが根ごと倒れている=写真=。トウヒの根はもともと浅い。深く根をはるはモミの木などは途中でボキリと折れた。このときのトウヒやモミの森林被害は3000万立米と推測され、シュバルツバルトの20年分の木材出荷量に相当する損害となった。トウヒは種が取りやすく大規模な植林に適しているものの、根が浅く風に弱い。その盲点を突くかのように大嵐が数年に一度の割で襲ってくる。当然、単一樹林化への反省が生まれ、森林局では複層林へと森林政策の転換を図っている。

  ここで疑問が湧いた。根こそぎ倒れ荒廃した森林を公園として見せる価値はあるのだろうか。まして、キクイムシなどの害虫が異常繁殖すれば2次被害が生じる。この質問にフロイデンシュタット氏はニコリと笑って、我々にこう説明した。「幸いキクイムシの2次被害はいまのところ出ていない。それより、倒れた木の間に若い木が伸びてきているでしょう。私たちは森の自然の治癒力というものを子供たちに学んでほしいと思いこの一角を保存したのです」と。確かに倒木の隙間からトウヒやモミなどの針葉樹のほか、ナナカマドやブナなどの広葉樹の若木が育っている。倒木の根に巣をかけた鳥たちのさえずりもにぎやかだ。

  この「Lothar pfad」には年間5万人の見学者がやってくるという。カタストロフィ(破壊)から再生へ。大嵐の爪痕は生きた環境教育の場として生かされている。

 ⇒30日(金)夜・金沢の天気   くもり

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★「能登の花ヨメ」の完成度

2008年05月11日 | ⇒メディア時評
 「ご当地映画」とでも言おうか、住む土地が主な映画のロケ地になった場合、地元の人たちはそのような表現をする。その言葉には、映画に対する愛着とちょっとした気恥ずかしさがこもっているものだ。全国上映に先駆けて、石川県で先行上映会がきのう10日から始まった、「能登の花ヨメ」もそのご当地映画の一つ。

 この映画制作にはまったく関わりがないが、ちょっとした縁がある。去年秋、私は大学コンソーシアム石川の事業「地域課題ゼミナール」で能登半島の珠洲市をテーマにケーブルテレビ向けの番組をつくった。お祭りのシーンの撮影は同市三崎町小泊地区のキリコ祭り=写真=だった。その撮影が終わった1ヵ月後、今度は、「能登の花ヨメ」の撮影が始まり、小泊地区では映画撮影用のお祭りが行なわれた。小泊の住人のひとたちは「年に2度、まっつり(祭り)が来た。こんなうれしいことはない」ととても喜んでいたのを思い出す。

 先行上映の封切りの日、きのうさっそく「能登の花ヨメ」を鑑賞に行った。そのストーリーを簡単に説明する。映画は女性の人間模様と能登の祭りがテーマ。ヒロイン役の田中美里が演じるのは東京のキャリアウーマン。結婚式を前に、泉ピン子が演じる婚約者の母が交通事故でけがをする。あいにく、海外出張でフィアンセは母がいる能登には行けない。そこで、代わりに看病のために能登へ行くというところから物語は始まる。都会育ちの女性にとって能登は刺激がなく、しかも慣れない人づき合い、大きな田舎造りの家の掃除、ヤギの世話…。しかも、姑(しゅうとめ)となる母親はつっけんどん。でも、能登には震災にもめげず、心根が優しい、自然をいつくしむ人たちがいて、都会にはない豊かさがあると気付く。

 親しくなって、キノコ採りを教わった近所のおばあちゃん(内海桂子)からキリコ祭りを楽しみにしているという話を聞かされた。その数日後、おばあちゃんは急逝する。季節は秋へと移り、お祭りのシーズンがやってくる。地震で仮設住宅の人たちもいるのにお祭りはできるのか…。しかも、キリコは担ぎ手が不足していて、ここ数年は出していない。土地の人たちはキリコ祭りを楽しみにしているのにどこか遠慮している。そこで、都会からきた花嫁がキリコ祭りの復活を呼びかけて立ち上がる。

 監督は白羽弥仁(しらは・みつひと)氏。3年も前から能登に通って、映画の構想を温めてきたという。そして撮影を始めようとする矢先に能登半島地震(07年3月25日)が起きた。神戸出身で自ら被災経験がある白羽監督はその2日後に被災地に駆けつけた。そして、映画づくりを続行すべきかどうか迷っていたときに、これまで協力してきた能登の人たちから「こんなときにこそ映画を撮って」と要望され、撮影を決断したという。映画が完成するまでの経緯がまるでストーリー仕立てのようだ。

 冒頭でご当地映画には気恥ずかしさがあると述べた。それは方言のことである。方言は内々の言葉で、ほかの地域の人が聞けば野暮ったいものだ。「能登の花ヨメ」では能登弁を上手にさらけ出している。それが映画の味にもなっているのだが、能登出身者とするとちょっと気恥ずかしい。逆に言えば、能登人の言葉と心の襞(ひだ)までが映像表現されて完成度は高い。

⇒11日(日)朝・金沢の天気   くもり
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☆こいのぼりは絶滅危惧種か

2008年05月05日 | ⇒トピック往来
 この1週間で石川県内の能登、加賀を巡った。能登へはこの秋に予定しているスタディ・ツアーの打ち合わせに、加賀へは連休を利用して「九谷茶碗まつり」(能美市)と「山中漆器祭」(加賀市)に出かけた。乗用車を走らせながらふと気づいたことなのだが、沿道の民家でこいのぼりが泳ぐのを見ることは稀だった。きょうは「こどもの日」、こいのぼりについて考えてみる。

 こいのぼりが揚がらなくなった理由として、住宅が狭くこいのぼりを揚げるスペースがないとよくいわれる。でも、能登や加賀の広々とした家並みでも見かけるのは稀だ。それは少子化で揚がらなくなったのでは、という人もいるだろう。能登地区は確かに少子高齢化だが、地域をつぶさに眺めると、公園などで遊んでいる小さな男の子たちは案外多い。まして、加賀地区で少子高齢化の現象は顕著ではない。でも不思議とこいのぼりを揚げる家は極少ないのだ。

 では、こいのぼりはどこへ行ったのかというと、イベント会場に集められ、群れをなして泳いでいる。写真は、珠洲市大谷川で毎年開催されるこいのぼりの川渡し。実に350本のこいのぼりが泳ぐ。いまやGWのイベント会場のディスプレーとして、こいのぼりの存在感があるよう。

 過日、能登のお宅を訪ねると、五月人形(鎧)が早々と飾ってあった。家人に聞くと、かつては端午の節句にこいのぼりも揚げていた。ところが、その家の男の子が中学生なったころに「こいのぼりはガキっぽいからやめてれ」と言い出し、五月人形を飾るだけにしたという。確かに子どもたちが抱くこいのぼりのイメージには「お父さん、お母さんといっしょ」という、どちらかというと幼稚くささが付きまとう。中学生ともなるとこの幼稚くささを外に向かってアピールするというのは耐えられない、というわけだ。それに比べ、武者人形はいかめしさがあり、許容範囲なのかもしれない。ただし、五月人形が鯉を抱く金太郎ならば、中学生は「もうしまってくれ」と言い出すかもしれない。

 コイの滝登りは立身出世の象徴であり、江戸時代の武家では男の子が生まれると真鯉のこいのぼりを揚げたという。その風習が大衆化したのは戦後、高度成長で人口が増え、こいのぼりもにぎやかにカラフルになった。東レなどの繊維メーカーは新素材を駆使して、軽量で絡まず、風によく泳ぐこいのぼりを市場に出した。イーデス・ハンソンのナレーションによる、「東レの太郎鯉はよく泳ぐ」のテレビCMは今でも耳に残っている。大阪万博(1970年)で太陽の塔をデザインした岡本太郎が監修した目玉の大きな「太郎鯉」はヒット商品となった。でも、このころ住宅は高層化し、せいぜいがベランダ用のこいのぼりが出回った程度。地方の広々とした住宅でも、くだんの中学生のように「もうやめてくれ」となる。家庭でのこいのぼりの寿命は短く、行き場がない。だから、地域のイベントとなると天日干しを兼ねて、年に一度群れをなして出てくる。

 「屋根より高い」と歌われた、家庭用のこいのぼり。「文化・風習のレッドデータブック」があるとすると、おそらく「絶滅危惧種」になるに違いない。

⇒5日(祝)朝・金沢の天気  くもり
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★ベートーベン「熱狂の日」

2008年05月02日 | ⇒トピック往来
 「クラシックの民主化」を掲げたイベントが4月29日から金沢市で始まった。ラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭2008がそれ。5月5日まで、石川県立音楽堂とJR金沢駅周辺で80公演が予定されている。

 どこが「クラシックの民主化」なのかというと、①短時間で聴くクラシック②低料金で聴くクラシック③子どもも参加するクラシック・・・の3点に特徴があるそうだ。民主化というより、クラシックの裾野を広げるための音楽祭ともいえる。1995年にフランスのナント市で始まった音楽祭。この音楽祭の開催は世界で6番目、日本では東京に次いで2番目とか。

 今回のテーマはベートーベン。おやっと思ったのはポスターや看板=写真=に描かれているベートーベンの肖像画だ。広告物のデザインはフランスの音楽プロデューサー、ルネ・マルタン氏の手による。日本人がベートーベンで思い出す肖像は、いかにも神経質でいかめしそうな顔つき。しかし、「民主化」をめざす音楽祭では、参加者の心を解きほぐさなければならない。柔和な顔つきのベートーベンが広告物に描かれた訳はこんなところか。

1日夜、県立音楽堂で開かれた公開マスタークラス&レクチャーコンサートに出かけた。「『月光』の日」と銘打った催し。ピアニストのクレール・デゼールさん(パリ国立高等音楽院教授)が若手のピアニストやピアニストの卵に「月光」をレッスンするというもの。受講者の平野加奈さん(東京芸大2年生)が曲を一通り弾く。その後の通訳つきのレクチャーが面白い。「あなたの1楽章はショパンっぽい感じがした。左と右の手がどちらか遅いとロマンチックになる。でも、ベートーベンは左と右が同時なのよ。するともっと深くなる。ベートーベンらしくなるのよ」「ここはアジダートなの。そうね、怯えるって感じかしら。台風が突然やってきて、心臓がバクバクする。そんな不気味な感じね」

 クレールさんの公開ピアノレッスンを聞きながら、指揮者の岩城宏之さん(06年6月逝去)が生前語った言葉を思い出した。岩城さんはベートーベンのシンフォニー1番から9番を一夜で連続演奏するという「離れ業」を2年連続(04年と05年の大晦日)やってのけた。私はこの2回の番組制作に関わり、東京で「振るマラソン」を聴くことができた。思い出したのは、その時、ステージで語った岩城さんの言葉だ。コンサートのプロデューサーである三枝成彰さんから、岩城さんに「ところで岩城さんが好きなシンフォニーは何番なの」と水が向けられた。すると、岩城さんは「最近は8番かな。5番や7番、9番のように前衛的ではないけれど、コントラストが鮮やか。作曲技法が駆使されていて、4楽章なんかフレーズの入り組みがとても精緻。円熟しきった作曲家ベートーベンの会心の出来が8番なんだね」と。このとき、プロ中のプロのお気に入りは8番なのだ、と印象づけられたものだ。

 ピアニストのクレールさん、指揮者の岩城さんの2人の言葉から伝わってきたものは、演奏する側を介した等身大のベートーベンの姿ではないだろうか。凄みをきかせたベートーベンがほらそこにいるよ見てごらん、という臨場感だ。

⇒2日(金)夜・金沢の天気   はれ
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