自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆名残り雪

2009年03月26日 | ⇒トピック往来

 徐々に暖かくはなるものの、寒の戻りがある。それを繰り返しながら本格的な春になる。北陸に住んでいると、「三寒四温」と「名残り雪」は春を迎える儀式のようでもある。きょう26日朝、名残り雪が降った=写真=。

  自家用車のスノータイヤをノーマルタイヤに履き替えたので、滑らないかとヤキモキした。が、強い降りではなく、30分ほどしたら青空が見えてきたので一気に雪は消えた。ふと庭を見ると、梅の花が咲いていたので、名残り雪とピンクの梅の花の組み合わせは妙に風情があるものだと感じ入った。

  金沢大学で同僚の研究員は別の春の感じ方をしている。春特有の香りが漂っているという。この香りをかぐと、そわそわした落ち着かない気分になるそうだ。それはヒサカキの小さな花の香り。里山を知る人にとって、春の訪れを感じさせる香りという。日当たりのよい場所の株には、その枝に下向きの白い小さな花がびっしりと咲いている様子を見ることが出来きる。ヒサカキは花のつけ方がおもしろく、雄花だけをつけるオス株、雌花をつけるメス株、雄花と両性の花をつける両性株の3つがあることが報告されている。ネットで調べると、伐採や山火事などのストレスで性転換することが知られているとのこと。

  ヒサカキは地域によって「ビシャ」とか「ビシャギ」「ビシャコ」「ヘンダラ」など別名で呼ばれる。「樹木大図説」(上原敬二著)には、60近くの異名が記載されている。神聖な木として取り扱われ、神様や仏様に供えられることもあるヒサカキだが、この異名の多さは身近な里山の木として、いかに人に親しまれてきたかを物語っているのではないか、という。

  名残り雪からヒサカキまでなかなか話は尽きない。すると、別の研究員が入ってきて、話を交ぜ返した。日本の花屋で売られているサカキの8割は中国産だそうだ。神聖な木を外国に委ねるなんて、と憤る。外国を責めているわけではない。里山にふんだんに自生しているのに、それを採取し、市場に出荷しないのは日本人の怠慢ではないのかというのだ。つまり、人々は里山に入らなくなった。経済価値としての里山に魅力を感じる人が少なくなった、ということか。それならば、逆転の発想でビジネスチャンスがあるのはと思ったりもする。

 ⇒26日(木)朝・金沢の天気 ゆき

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★トキは佐渡海峡を超え

2009年03月23日 | ⇒トピック往来
 去年9月25日、人口繁殖のトキ10羽が佐渡で放鳥された。その後、1羽は死んだが3羽が40㌔もある佐渡海峡を越えて本州に飛来したというニュースがあった。専門家の推測では、トキが飛ぶのはワイフライトでせいぜい30㌔だと推測されていたので、佐渡が大きなトキの鳥かごになり、佐渡からは出られないだろうと言われていた。それがやすやすと佐渡海峡を越えた。

 それまで大切に「箱入り娘」のように大切に育てられたあのトキが野生に目覚めて、本州に飛んだのである。最初の1羽は、飛来が新潟県胎内市で確認されたので、もし佐渡の放鳥場所からダイレクトに飛んだとすれば、胎内市まで60キロとなる。このニュースに胸を躍らせているのは能登に人たち。佐渡の南端から能登半島まで70キロなので、ひょっとして能登半島に飛んでくるかもしれないと期待している。それは見当外れでもない。放鳥されたトキは、背中にソーラーバッテリー付き衛星利用測位システム(GPS)機能の発信機を担いでいて、3日に一度位置情報を知らせてくる。データによると、トキは群れていない。放鳥された場所から西へ行っているトキ、東へ行っているトキ、北へ行っているトキとバラバラだ。中でも、2歳のオスは佐渡の南端方面でたむろしている。これが北から南に向かう風にうまく乗っかると、ひょっとして能登に飛来してくるかもしれないというのだ。

 能登半島は本州最後のトキの生息地である。1970年に捕獲され、繁殖のため佐渡のトキ保護センターに移送されたが、翌年死んでしまう。昭和32年(1957)、輪島市三井町の小学校の校長だった岩田秀男さん(故人)は当時、カラーのカメラをわざわざドイツから取り寄せて、能登のトキの撮影に成功した=写真=。白黒写真が普通だった時代に、「トキの写真はカラーで残さなければ意味がない」とこだわった。今では能登のトキを撮影した貴重なカラー写真となった。

 昭和の初めに佐渡で死んだ野生トキの胃の内容物の写真がある。見てみると、トキはどんなものもを食べていたのか分かる。食物連鎖の頂点にトキはサンショウウオ、ドジョウ、サワガニ、ゲンゴロウ、カエルなど多様な水生生物を食べている。ここから逆に類推して、トキが能登で生息するためには、田んぼなどの農村環境にこれだけの生物が住めるような環境にしなければならないということだ。金沢大学里山プロジェクトが進めている生物多様性のテーマがここにある。これまで、金沢大学、新潟大学、総合地球環境学研究所の研究者が一昨年前(07年)の10月に踏査を行ったほか、トキの生息の可能性はどこにあるのか、里山プロジェクトでは調査を続けている。

 トキ1羽が能登で羽ばたけば、いろいろな波及効果があると考えられる。環境に優しい農業、あるいは生物多様性、食の安全性、農産物への付加価値をつけることができる。トキが能登で舞うことにより、新たなツーリズムも生まれる。そうした能登半島にビジネスチャンスや夢を抱いて、あるいは環境配慮の農業をやりたいと志を抱いて若者がやってくる、そんな能登半島のビジョンが描けたらと思う。

⇒23日(月)朝・金沢の天気  はれ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆先端はフロンティア

2009年03月22日 | ⇒トピック往来
 春の嵐のように北陸地方は荒れ模様だ。きょうは思いつくままに書く。金沢大学里山プロジェクトの代表研究者、中村浩二教授は常日頃、「大学らしからぬことをやろう」と周囲に話している。中村教授が先頭に立って、2006年10月に三井物産環境基金を得て、能登半島の最先端に「能登半島 里山里海自然学校」を開設した。これまでの、あるいは今でも、大学の在り方は、学問や勉強をしたい人は大学の門をたたけば入れてあげるというスタンスだ。中村教授の「大学らしからぬこと」は、能登へ出掛けようと言い切って実行したこと。この点がこれまでの大学の流儀と全然違うところだ。


 石川県珠洲市で廃校になっていた「小泊小学校」という学校施設を借りして、研究と交流の拠点をつくった。このとき、地域の人からこんなことを言われた。輪島の人は「奥能登の中心と言ったら輪島やぞ。なんで輪島につくらんがいね」と。そして、珠洲の人は「珠洲の中心は飯田やがいね。なんで辺ぴな小泊みたいなところにつくるのや。なんで飯田につくらんがいね」と。中村教授を始めとして我われは天邪鬼(アマノジェク)でもあり、なるべく過疎地へ行って拠点を構える。そうすることによって、新たな何か発見があると考えたのだ。買い物や人集めに便利だとか考えて中心に拠点を構えて何かをやろうとするのはビジネスの世界だ。研究の世界ではそうはいかない。まず、人気(ひとけ)のいない過疎地で研究拠点を構え、そこでじわじわと地域活性化の糸口をつかんでいく、あるいは大学の研究のネタを探していく。足のつま先を揉み解すと血行がよくなり体の全体がポカポカしてくるのと同じだ。

 いま、能登半島の先端の珠洲市は風力発電やマグロの蓄養など環境を生かした産業づくりに頑張っている。すると、周辺の自治体も負けてはいられないと、木質バイオマスや里海を生かした施策に乗り出してきている。先端が中心を刺激するというスパイラルが我々が理想としていたことだ。

 さらに、先端は研究のフロンティアでもある。珠洲の人が「辺ぴなところ」と呼んだ片田舎の小学校だが、もしこれがテナントビルだったら「満室御礼」だ。1階に「能登半島 里山里海自然学校」。ここでは生物多様性の研究をしている。2階は科学技術振興調整費による「能登里山マイスター」養成プログラム。これは環境人材の養成、いわば社会人教育の拠点。ここで35人の人材を育成している。来月から3期生20人余りが新たに受講にやってくる。5年間で60人を養成する予定。さらに3階には「大気観測・能登スーパーサイト」(三井物産環境基金の支援)が入り、黄砂の研究をしている。

 先端に拠点を構えたから、研究のフロンティアとしての価値が見出され、続々と研究者が集まってくるようになった。「大学らしかぬこと」とは研究のチャンスを冒険的に見出すことと考えると分かり易い。

※廃校だった小学校を研究交流拠点としてリユースし、校庭では黄砂採取の気球が上がる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★福沢諭吉とメディア-下-

2009年03月10日 | ⇒メディア時評

 「福沢諭吉とメディア」のタイトルで連載しているが、福沢のもう一つのメディアが出版だった。明治2年(1869)に「福沢屋諭吉」名義で出版業組合に加入し、「西洋事情」を初出版。アメリカ、イギリスなど当時の先進国の社会や政治経済を紹介した。これが当時、人口3000万人といわれた日本で25万部売れた。明治5年(1872)の「学問のすすめ」もベストセラーとなった。鎖国から文明開花に急転した時代、人々は活字情報に目覚めていたに違いない。福沢のメディア戦略はこの時代の雰囲気を十分に読み取って展開していく。その延長線上で、新聞事業である時事新報が合資会社「慶応義塾出版社」を母体に立ち上がった(明治15年、1882)。

        コンテンツビジネスの元祖

  福沢は新聞事業と出版事業を巧みにメディアミックスしている。時事新報の社説で自らの論説を一つのテーマで連続的に掲載していく。そのテーマの中から読者から手応えがあったものを、今度は出版するという手法だ。「時事大勢論」「帝室論」などのヒット作品が次々生まれた。いまの手法で言えば、コンテンツの二次利用。テレビの連続ドラマの中で視聴率が高かったものを映画化して劇場公開、その後にDVD化、BC放送やCS放送で放送し、最後に「地上波初放送」とPRして自社の映画番組で放送する。一粒で二度も三度もおいしい(利益が出る)コンテンツビジネスの先駆けである。

  ビジネスと順風満帆でスタートした新聞事業だったが、創刊して3ヵ月後の6月8日付が突然、発行停止となる。当時、新聞は「新聞紙条例」(明治8年)で規制されていた。「国安の妨害」の理由に内務大臣が発行禁止あるいは停止にできた。5月1日にスタートさせた連載社説「藩閥寡人政府論」を時の政府は咎(とが)めた。薩摩と長州で主要閣僚が占められるのでは、日本が今後国会を開設する際の妨げになるとの論調だったといわれる。4日後の12日に停止処分は解かれるが、権力側からの警告メッセージだったのだろう。「次は発禁(=廃刊)」との。

  もともと福沢の政府への論調は敵対ではなく、調和である。政府の参議であった大隈重信、伊藤博文、井上馨からイギリス流の議会を開設するので、国民を啓蒙するような新聞をつくってほしいと請われ、議会開設論者だった福沢は3参議に協力を約束し、準備に入る。ところが、大隈、伊藤、井上の不和が表面化し、議会開設のプロモーターだった大隈が明治14年(1881年)10月に突然辞任する。議会開設プランが事実上、頓挫してしまう。機材、人材を用意し新聞発行の準備を整えていた福沢は引くに引けない状態に陥るものの、中上川彦次郎(後に「三井中興の祖」と呼ばれる)の協力を得て、時事新報の創刊に踏み切る。だから、もともと政府権力と敵対する目的で新聞事業を始めたわけではない。議会開設を先導するこそが自らの信念の具現化だった。「藩閥寡人政府論」も議会開設に向けた正論を押し出したものだった。その議会が開設するのは大隈辞任の9年後の明治24年(1891)のことである。

  「独立自尊迎新世紀」の揮毫を最後に一つの時代を駆け抜けた福沢は明治34年(1901)2月3日に脳溢血で亡くなる。時事新報はその後、昭和10年(1935)11月、大阪進出が裏目に出て経営が傾き廃刊に追い込まれる。昭和21年(1946)元旦に復刊するものの、昭和25年(1950)に産経新聞と時事新報が統合するかたちで「産経時事」の題字として再スタート。が、昭和33年(1958)7月にその題字は産経新聞に戻る。新聞としての時事新報はなくなったが、株式会社としての時事新報社はまだ産経新聞社が引き継ぐかたち存続しているという。※写真は、慶応義塾大学三田キャンパスの福澤諭吉像

 <参考文献>「新聞人福澤諭吉に学ぶ」(鈴木隆敏著・産経新聞の本)

⇒10日(火)朝・金沢の天気  くもり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆福沢諭吉とメディア-中-

2009年03月08日 | ⇒メディア時評

 東京国立博物館の「福沢諭吉展」を見終え、売店で絵葉書を5枚買い求めた。葉書の裏の絵は「文明論之概略」の表紙、「慶応義塾之目的」書幅、「学問のすすめ」(初版)、慶応義塾図書館ステンドグラス原画(和田英作)、福沢諭吉ウェーランド経済書講述図(安田靫彦)。絵葉書の裏絵とは言え、それぞれに歴史的あるいは文化的な価値があり、少々重い。ちなみに値段は一枚50円だった。

       政府の提灯は持たぬ  

  「政府の提灯は持たぬが、国家の提灯は持つ」。そう言い切って、福沢は明治15年(1882)3月1日に「時事新報」を発刊した。いまから127年のことだ。紙名もイギリスのタイムズにちなんだといわれる。

  当時、新聞はすでに相次ぎ創刊されていて、2つの系統に分かれていた。自由民権運動のさなかで、「自由新聞」は板垣退助の自由党の機関紙、「郵便報知新聞」は大隈重信がつくった立憲改進党の機関紙だった。これら政党色の強い新聞を当時、大(おお)新聞と呼んだ。一方、娯楽性を強調した大衆紙を小(こ)新聞と呼んで区別した。読売新聞(1874年発刊)、朝日新聞(1879年発刊)のスタートはこの小新聞だった。大新聞は政府の弾圧を受けたりと消長が激しかった。小新聞は徐々に大新聞の要素を吸収して「中新聞」として生き残った。

  明治初期にあって、現在の新聞のポリシーに最も近かったのは時事新報だった。福沢は、大新聞とは違って、財政的な独立なくして言論の独立はないと考え、広告を重視して経営基盤を固めた。どの政党にも属さずに、言論の独立性を高め、タイムズのような高級紙を目指すにはまず経営基盤を高めるというのは自明の理と言える。そして、福沢は門弟たちに、広告の取次業として起業することをすすめる。いわば、明治のニュービジネスである。もちろん、当時の新聞はニューメディアだ。福沢にはこうしたビジネス感覚があったのだ。

  もう一つ、福沢のメディア的な感覚が見て取れるのは「漫画」である。文字ばかりの紙面では当然読みづらい。そこで、視覚的な要素を紙面に取り込んだ。アメリカ帰りの挿し絵作家、今泉秀太郎を時事新報に迎え、腕を振るわせた。今泉の代表作に「北京夢枕」がある。四書五経を枕にアヘンを吸いながら横たわる中国人(ガリバー)の足元で、欧州勢(小人の国の兵隊)が勝手なことをしでかしている錦絵だ。こうなると、現在の漫画のイメージをはるかに超えて、「漫画ジャーナリズム」というタッチである。

  明治29年に、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で鉄道工学を学んだ二男の捨次郎が時事新報の社長に就く。時事新報は発刊から海外ニュースを売りにしていたが、明治30年4月、イギリスのロイターと記事配信の独占契約を結ぶ。他紙は時事新報より一日遅れで海外ニュースを掲載せざるを得なかった。福沢は当時62歳。時事新報は大新聞や小新聞ではなく、高級紙としての地位を次第に確立していく。

※写真は、福沢が明治8年(1875)に創設した三田演説館。英語のスピーチを「演説」、デベートを「討論」と訳したのは福沢だった。社会活動として一般市民向けに演説が行われた。自身は236回、熱弁を振るったといわれる。 

⇒8日(日)夜・金沢の天気 はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★福沢諭吉とメディア-上-

2009年03月06日 | ⇒メディア時評

 東京・上野の東京国立博物館で開催されている「未来をひらく 福沢諭吉展」を鑑賞する機会に恵まれた。訪れた日の関東地方は肌寒く、桜の名所・上野で咲いていたのは早咲きのオオカンザクラ一本だけ。それでも、人々は足を止め、桜に見入っていた。

      「独立自尊迎新世紀」      

  福沢諭吉展のテーマは「異端と先導~文明の進歩は異端から生まれる」。1万円札に描かれている人のどこが異端なのかというと、明治維新後、蘭学を修めたような知識人たちはこぞって官職を求めたが、福沢は生涯を無位無官、一人の民間人で通した。「独立自尊」を身上とし、政党に属さず、民間人の立場から演説をし、言論というものを追求していった。請われても、権力に属さなかった。幕府を打倒し新たな権力構造をつくり上げていった薩摩や長州の「藩閥の群像」とは明らかに異なる。「際立つ個」、明治という時代にあってこれは異端だった。

  このエピソードは有名だ。明治4年(1868)5月15日、上野の彰義隊が寛永寺で新政府軍と衝突した。砲音が響き、火炎が立ち上る中、すでに慶応義塾を主宰していた福沢は時間割通り、塾生たちに経済学の講義(フランシス・ウェーランドの経済学綱要)を行った。福沢は「この慶応義塾は、日本の洋学のためには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があつても変乱があつても、未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ」と、当時の文明であった洋学の吸収と普及に毅然とした。彰義隊を粉砕した新政府軍の指揮官は西郷隆盛だった。

  では、福沢はいわゆる「西洋かぶれ」だったのか。福沢諭吉展で紹介された諭吉の写真のほとんどは和服姿である。「身体」を人間活動の基盤と考え、居合刀を日に千回抜き、杵(きね)と臼(うす)で自ら米かちをした。身を律して、4男5女の子供を育て、家族の団欒(だんらん)という当時新しいライフスタイルを追求した。公費の接待酒を浴びるほど飲んで市中を暴れまわった新政府の官員(役人)たちを横目に、「官尊民卑」と「男尊女卑」に異議を唱えた。明治33年に夫妻そろって撮影した記念写真が会場に展示されている。夫婦ツーショットはひょっとして日本初ではなかったか。

  先のエピソードで紹介した西郷と、福沢は面識がなかった。が、晩年の福沢は西南戦争で没した西郷を称えた。新政府で天下をとり栄華に浸る者たちと一線を画し、下野した西郷の「無私」に共感した。そして、政府官員が西郷を「賊」と決めつけたことに怒りを感じたのだった。  福沢は維新とは一体何だったのかと問うた社説を、自ら興した新聞「時事新報」に「明治十年丁丑公論」のタイトルで連載していく。明治十年は西郷が自刃した年である。記事の連載中だった明治34年2月3日に脳溢血で亡くなる。享年66歳。当時、「24年にも経ってなぜ福沢が西郷をほめるのだ。時代がずれている・・・」といぶかった読者もいたであろうことは想像に難くない。明治34年は1901年。福沢はその年の元旦に「独立自尊迎新世紀」と揮毫した。「明治十年丁丑公論」を連載したのも、20世紀を迎え、維新という時代を自ら総括しておきたいという意図があったに違いない。

  むしろ評価すべきは、この明治の時代に「新世紀」という発想をもった福沢の大局観だろう。世界観をもって在野を貫き、権力を批判する。これは、ジャーナリストの素養でもある。東京都港区元麻布の善福寺に葬られており、法名は「大観院独立自尊居士」。

 ⇒6日(月)夜・金沢の天気  くもり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆抜けた指輪の話

2009年03月02日 | ⇒トピック往来
 来年2010年は国際生物多様性年である。この年の10月には、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が名古屋市を主会場に開催されるが、そのほかの地域でも環境と生態系を世界にアピールする好機ととらえ、COP10の関連会議を誘致する動きが起きている。石川県でも国際生物多様性年を盛り上げようと去年9月、金沢大学に事務局を設け、石川県、奥能登2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット、NPOなどが協働して、「能登エコ・スタジアム2008」を実施した。里山里海国際交流フォーラム(9月13日・金沢市)を手始めに3つのシンポジウム、5つのイベント、2つのツアーを実施し、4日間で延べ540人が参加した。異彩を放ったのは、この期間中に生物多様性条約事務局(カナダ・モントリオール)のアハメド・ジョグラフ事務局長が能登視察に訪れたことだった。
                         
 ジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア、9月13日・14日)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏(同市西部小学校長)から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 ジョグラフ氏がまぶたに焼き付けた能登のSATOYAMAとSATOUMI。このツアーはCOP10の関連会議を石川に誘致する第一歩だった。では、どのようなプロセスを経て、ジョグラフ氏は能登を訪れたのだろうか。実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(オペレーティング・ユニット)である。その年の5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。あん所長は谷本知事の通訳という立場だったが、身を乗り出して「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。このとき、身振り手振りで話すあん所長の右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちたのだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。この後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。能登視察はその4ヵ月後に実現した。

 能登視察はジョグラフ氏にとって印象深かったのだろう。その後、生物多様性に関する国際会議で、「日本では、自然と共生する里山を守ることが、科学への崇拝で失われてしまった伝統を尊重する心、文化的、精神的な価値を守ることにつながっている。そのお手本が能登半島にある」と述べたそうだ。能登のファンになってくれたのかもしれない。

  ※この文は橋本確文堂が発行する季刊誌「自然人」(第20号/春)に寄稿したものを採録したものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする