自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

★メディアのツボ-52-

2007年05月31日 | ⇒メディア時評

 東京六大学春季リーグ早稲田VS慶応の「早慶戦」(6月2日、3日・神宮球場)が異常な盛り上がりだ。両大学ともすでに2日間の学生チケット1万4千枚が完売したことがニュースとなったほどだ。

       早慶戦と日テレ

  盛り上がりの要因は三つある。一つは、昨夏の甲子園で駒大苫小牧を破り優勝投手となった「ハンカチ王子」こと早稲田のルーキー、斎藤佑樹投手(18)の人気だろう。二つ目が、早稲田はルーキー斎藤の活躍もあり現在、8勝0敗の勝ち点4で首位を走っているので、今週末の早慶戦で1勝すれば2季連続の優勝が決まる。三つ目がこれまで東京六大学野球はNHKが中継してきたが、今季から日本テレビが参入し、早稲田戦を中心にBSなどで放送するなどブームを煽っている。

  ちなみに、試合開始時間は2日、3日とも午後1時からで、地上波ではNHKが教育で2日の早慶1回戦を午後1時から、3日の2回戦を午後2時から放送。日本テレビも2回戦を午後2時55分から3時20分までスペシャル番組として生中継する。25分の生中継というのは短い番組枠だが、試合終盤のよいとこ取りを狙っているようだ。斎藤投手の胴上げを期待しているのかもしれない。

  ところで、早慶戦と日テレにはちょっとした因果関係がある。もう50年以上も前のことだ。1953年8月、民放テレビの開局の一番乗りを果たした日テレは最初のバラエティ番組「ほろにがショー 何でもやりまショー」を始めた。タイトルの「ほろにがショー」のネーミングは、朝日麦酒(現・アサヒビール)がスポンサーだったため。

  番組は視聴者参加型で、ゲームに挑戦し優勝者には賞金が渡された。放送開始2ヶ月で1年先まで出演予約があったほどの人気だったが、「事件」が起きた。56年11月3日放送分の番組で、「今度の早慶戦に、早稲田側の応援席で慶応の大旗を振って応援した人に5000円(当時)を進呈」(要約)というお題を出し、これに乗った視聴者の1人が実際にお題を実行、番組ではこの内容を放送し、授与式を行った。ところが、放送終了後に批判や抗議が相次ぎ、六大学野球連盟は日テレでの中継を拒否した。思わぬ展開に日テレは番組内で謝罪し、六大学野球連盟とは和解した。

  しかし、これだけでは済まなかった。辛口のジャーナリストで知られた大宅荘一がこの番組を視聴していて、翌年2月の週刊誌で「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い」とテレビ批判の大論陣を張るのである。

  この一億総白痴化論は、テレビによって受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけだと、人間の想像力や思考力が低下し、愚民化するという論理である。その後、作家の松本清張らも主張し、現代でも鋭い文明批評で知られる月尾嘉男氏は「古代ローマ帝国を滅ぼしたのはパンとサーカス、現代日本のテレビはサーカスである」と同論理でテレビ批判を展開している。

  テレビ批判を招いた元祖がこの51年前の早慶戦と日テレ番組だったとうわけだ。時代はその後どう変わったか、果たして大宅の主張は正しかったのか、別の機会で検証したい。

 ⇒31日(木)朝・金沢の天気  あめ

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☆南極の氷アラカルト

2007年05月30日 | ⇒トピック往来

 この写真は最近学内で貼られた、クールビズ(夏の軽装)を呼びかける金沢大学のオリジナルのポスターだ。気が利いているのは、キャラクターにベンギンを起用しているところ。「氷が恋しい…」とぺンギン君は訴える。

  地球温暖化で極地の氷がどんどん解けているといわれている。写真は地べたに寝そべる皇帝ペンギンだ。タネ明かしをしよう。実はこの写真は、ことし3月帰国した第47次南極観測隊の隊員だった大学の研究者が提供してくれたもの。南極に降り注ぐ宇宙の電磁波を観測していた。でも足元のペンギンもしっかりとウオッチして撮影していた。

  去年6月、その隊員を交えて、南極の昭和基地と金沢大学を衛星回線で結んで子供たちのための「南極教室」を開催した。その折に、国立極地研究所(東京)の厚意で南極の氷をいただいた。実際に子供たちに見て、触ってもうらためである。催しが終了し、解けずに残っていた氷があったので、試しにウイスキーの氷割り(ロック)をつくって飲んでみた。グラスに耳を当ててみると、プチプチと音がした。氷に閉じ込められていた数万年、いや数十万年前の空気が弾けているのである。

    先月20日、評論家の月尾嘉男氏の環境をテーマにした講演を聴いた。海水面の上昇に関して一部誤解があるという。「温暖化による水面上昇は北極南極の氷が溶けるからではなく,水が熱膨張するからである」と。

  地球のグローバリゼーションをたとえて、「人生七掛け、地球八分の一」とよく言われる。空路が発達して、それだけ地球は小さくなった、そして人生は長くなったという意味だが、これに「地球の温度三度増し」を付け加えよう。「人生七掛け、地球八分の一、地球の温度三度増し」。3つのフレーズにすると言葉の走りが実によくなる。そして随分とエコっぽくなる。

  今回のブログにはストーリー性がない。一枚のポスターから連想したアラカルトの話になった。

 ⇒30日(水)朝・金沢の天気  くもり  

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★「午前9時42分」という時間

2007年05月28日 | ⇒トピック往来
 能登半島地震から早いもので2ヵ月がたった。被害が大きかった輪島市門前町では、避難住民は避難所から仮設住宅へと移った。いま振り返り、つぶさに検証してみると、この震災は「奇跡的に・・・」という場面が多い。

 地元の人たちが「有線」と言っているシステムがある(※4月30日付「メディアのツボ-51-」参照)。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内臓された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。

 普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。地震があった日、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで自失茫然としていた住民が我に返って、近所誘い合って避難場所へと駆け出したのである。この有線放送電話が「ミニ放送局」となって、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者が必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年に敷設が始まったローテクともいえる有線放送電話が今回の震災ではしっかりと放送インフラとして役立ったのである。

 震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部の地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。専門家は「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。

 震災が一番大きかった輪島市門前町は300軒が全半壊などの家屋損傷。しかも、65歳以上のお年寄りが47%という高齢化地区である。しかし、命を落とした人はいなかった。学術調査でアンケート(被災者110人)を取ったところ、震災が起きた「午前9時42分」という時間で自宅にいた人は60人(54%)、うち「寝室」にいたという人は5人である。もし1時間早かったら、この数字は大きくなり、結果として逃げ遅れた人は多かったかもしれない。震災から2ヵ月、いろいろと考えることが多い。

⇒28日(月)夜・金沢の天気   はれ
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☆たかが電子データ、されど…

2007年05月25日 | ⇒トピック往来

 パソコン生活で起きた「事件」だった。今月20日、日曜日のこと。急ぎの用事があったので、ノートPCのメディア・プレーヤーを再生途中に強制終了(リブート)をかけた。すると、いつもはプシュという音で終了するのに、パツッという音がした。いやな予感がして、今度は立ち上げようとしたが立ち上がらない。

  そこで、金沢大学近くにあるPCの修理店に持ち込んだ。店員は、OSを再インストールする必要があるという。そして念のために、ハードディスクがどんな状態かみてもらった。すると、反応がない。コツコツと軽くたたいても反応がない。店員は「やられていますね」と。つまり、壊れている。この一言で頭の中が真っ白になった。ファイルなどのデータは全滅。なかには翌日(21日)と次週28日のメディア論の授業で使うパワーポイントも入っていたのだ。

  自失茫然。涙が込み上げてくる。そして、「なんと浅はかなことをしたのだ」と自分自身に対する怒りも。店員から「お客さん、大丈夫ですか。真っ青ですよ」と顔を覗き込まれ、我に返った。PCの修理を依頼して自宅に帰ったが、哀しさや怒りが収まらない。そうは言っても、当面、あすの授業をどうするか。新たにポワーポイントを作成しようにもPCがない。すると今度は手元にPCがないことの恐怖感が襲ってきた。メールの受発信をどうするか、自らが孤立するような不安感である。

  そして、PCが修理されて帰ってきても、これまで使っていたソフトのインストール作業の手まひまとコストを考えるとまた暗澹(あんたん)たる気持ちに陥った。

  ハードディスクが壊れただけで、たかが電子データを失っただけで、失ったことのはかなさと哀しさ、自らへの怒り、ネット環境からはぐれてしまうことへの恐怖を感じてしまう。そして、いま代替機でブログを書いているが、ブログを書こうと気を取り戻すまでに5日間もかかったのである。

  ただ、唯一の救いだったのは先月末に外付けのハードディスクに一部のデータを保存してあったことだった。たかが電子データ、されど電子データの1週間だった。

 ⇒25日(金)朝・金沢の天気  くもり 

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★つゆの世ながら さりながら

2007年05月15日 | ⇒ドキュメント回廊

 お坊さんの話に初めて耳を傾けた。何かと相談に乗っていただいていた金沢大学のS教授が急逝し、昨夜通夜に参列した。57歳。急性心不全だった。

  S教授はインド哲学が専門で、自ら僧籍にもあった。酒を飲み、タバコも手放さなかった。急逝する前夜も知人と楽しく酒を飲んでいた、という。遺族の話では「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」。社会貢献室の室長であり、大学教育開放センター長という学外に開かれたセクションの現場責任者だった。センター長室の机には花が飾られ、「未決」の決済箱には本人が印を押はずだった書類がたまっていた。

  57歳という仕事盛りの年齢が悔やまれる。「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」という健康状態でありながら、なぜ。「その死は理不尽ではないのか」と思ってしまうほどに悔やまれる。肉親ならなお強くそう思うに違いない。

  通夜の読経の後、「身内」であるというお坊さんがあいさつした。誰しもが同じ思いの、割り切れなさに、そのお坊さんは応えようとしていた。話の中に小林一茶の句を紹介した。

     「つゆの世は つゆの世ながら さりながら」  

この句は一茶が幼い娘を亡くしたときに詠んだ句だという。人生を葉の上のつゆにたとえて、そのはかなさを詠むと同時に、それを受け入れることができない人間の本性を伝えていると、お坊さんは説いた。現代風に解釈すれば、「人生というのはね、はかないものなんだけど、わかっているんだけど、でもね…」という感じだろうか。別の言葉で言えば、「人は突然前触れもなく、こんなふうに逝ってしまうことがあるのはわかっているけど、でも…」ということだろうか。

  もっと前向きの解釈もある。職場の同僚の尊父はこう意味付けしたそうだ。「人の人生は露のようにはかないけれども、それでもすばらしい」と。S教授の人生は人より短かったけれども、それでもすばらしい物を私たちに残してくれた。その事を忘れないでおこう。S教授の死を、次に生き抜く私たちへのメッセージとしてとらえたいと思う。

 ⇒15日(火)夜・金沢の天気  はれ

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☆値千金の「ナンセンス」

2007年05月12日 | ⇒ドキュメント回廊

 もう36年もたつのに、その時の記憶はいまも鮮明だ。生まれて初めて浴びた報道カメラのフラッシュ。いまにして思えば、あのフラッシュの感激がその後の私自身の進路を大きく左右したのかもしれない。

  能登で生まれ、金沢で高校時代を過ごした。1年生の冬、クラブはESSに所属していて、県英語弁論大会に出場する幸運に恵まれた。高校は同大会で4連勝を果たしていて、5度目の栄誉がかかっていた。このため、前年度優勝者の先輩からイントネーションや発音の厳しいチェックを受けたことを覚えている。また、当時貴重だったテープレコーダーをESSの仲間から借りて、下宿で練習したものだ。

  私が選んだスピーチのテーマは「学生運動について」だった。入学した年には大阪万博が華やかに開催され、南沙織の「17才」がヒット曲となっていた。世の中が芳しくカラフルに彩られた時代の始まりでもあった。その一方で、赤軍派による「よど号」のハイジャック事件があり、連合赤軍による浅間山荘事件もその後に起きた。金沢大学でも学生運動が盛んで、新聞紙面をにぎわせていた。そんな闘争の時代の残影に私は違和感や憤りを感じていた。

  英語弁論大会でのスピーチはその気持ちをストレートに表現したものだった。金沢市本多町の県社会教育センター分館で開かれた第7回石川県英語弁論大会は大学の部もあり、金大生も多く客席にいた。私のスピーチが余りにもストレートな表現だったせいか、大学生数人から「ナンセンス」と大声のヤジが飛び、会場は一時騒然となった。

  高校の部では、私を含め4人が参加した。審査委員の講評はいまでもよく覚えている。「これだけ会場をにぎわせた高校生のスピーチはこれまでなかった」と。自分自身それほど英語の発音が上手ではないと分かっていた。詰まるところ、大学生からヤジを浴びせられた分、ほかの3人より目立ったことがどうやら優勝の理由だった。この講評のあと、冒頭に記した新聞社の写真撮影となる。その後、後輩たちも優勝を重ねた。が、その後次第に弁論大会から英語劇へと表現方法がシフトしていった。

  私はと言うと、スピーチコンテストでの優勝経験が忘れられず、東京の大学では日本語の弁論部に入った。そこで、調査と統計、そして憲法の精神に裏打ちされた弁論の手法を徹底的にたたき込まれた。マスコミをこころざし、Uターンして地元の新聞社に入社、その後、テレビ局へとマスメディアの世界を渡り歩いた。こうして振り返ると、あの英語弁論大会が私の人生を方向づけたのだと思う。

  後日談がある。新聞社時代によき先輩に恵まれ、居酒屋に誘われた。先輩はかつて学生運動でならした人だったと別の先輩から聞いていた。その彼が「君は○○高校の出身か。そう言えば、5年か6年前に英語で学生運動を批判した生意気そうなヤツがいたぞ」と言う。私はピンときて「それは私です」と告白した。その時の先輩のびっくりした様子は今でも思い出す。話のつじつまから、ヤジを飛ばした一人がどうやら先輩だということが分かった。彼はその後退社、音信はない。ただ、優勝に導いてくれたあの「ナンセンス」のヤジに私は今でも感謝している。

 ⇒12日(土)夜・金沢の天気   くもり

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★能登のオキャン

2007年05月08日 | ⇒トピック往来

 このゴールデンウイークで行われた石川県七尾市の青柏祭(せいはくさい)を見物してきた(5月4日)。この祭りの山車(だし)の大きさが半端ではない。高さ12㍍だ。ビルにして4階建ての高さになる。車輪の直径が2㍍もある。民家の屋根より高い。通称「でか山」がのっそりと街を練る様はまさに怪獣映画に出てきそうなモンスターではある。

  でか山を出すのは、「山町(やまちょう)」と呼ぶ府中・鍛冶・魚町の3つの町内会。それぞれ1台の山車が神社に奉納される。山車の形は、末広形とも北前船を模したものとも言われる。先述したように、山車の高さは12㍍、上部の開きは13㍍、車輪の直径2㍍あり、山車としては日本最大級。上段に歌舞伎の名場面をしつらえるのが特徴だ。

  この山車を通すためにルートを横切る区間の電柱が極めて高く設置されている。電線を地中へ埋設する計画もあったが、この高い電柱のために祭りの存在を知る旅行客も多い、とか。

  このでか山を引っ張りまわす元気な女性グループがいた。粋なスタイルで、なんと表現しようか、オキャンなのである。つまり「おてんば」。祭りを楽しんでいるという感じだ。彼女たちの存在が、この祭りをとてもあか抜けしたイメージにしている。

  七尾市も能登半島地震(3月25日)では被害を受けた。とくに和倉温泉だけで6万余りのキャンセルがあったといわれる。震災による風評被害でもある。でも、今回の祭りを見て、七尾の人たちは震災にめげず、乗り切っていくのではないか、そんな元気を感じた。あのオキャンたちがいれば…。

 ⇒8日(火)夜・金沢の天気  はれ 

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☆被災地でツバメが巣づくり

2007年05月03日 | ⇒トピック往来
4月29日に能登半島地震の被災地、輪島市門前町を訪れた。被災家屋の軒下でツバメが巣づくりをしていた。帰巣本能で飛来したツバメは家屋の様相が一変しているのに戸惑ったに違いない。ツバメは3月25日の能登の震災を知らない。季節は移ろっているのだ。

 門前を訪れたのは、金沢大学の震災に関する学術調査で、私の研究テーマ「震災とメディア」の被災者アンケートがその目的だった。当日は日曜日ということもあって、調査に訪ねた諸岡公民館(避難所)では見舞い客が大勢訪れていた。被災者の世話をしている災害ボランティアのコーディネーター、岡本紀雄さん(52)から「あす(30日)から仮設住宅への引越しが始まるので、みんな(被災者)はその準備で忙しい。アンケートも手短に」とアドバイスを受けた。

 岡本さんは以前、「自在コラム」で紹介したように、阪神淡路大震災(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自ら「13.5の人」と称している。新潟県中越地震(2004年10月)で被災地の支援活動をした経験を生かし、今回も震災当日(3月25日)から避難所やボランティアセンターで活動を続けた。途中、過労でドクターストップがかかり、兵庫県宝塚市の自宅で数日静養し、また能登に戻ってきた。岡本さんにとっては、被災者が仮設住宅に移るというのは、これまでの活動の一つの区切りになるはず。

 その岡本さんから5月1日にメールが届いた。ひと区切りをつけたボランティア活動家の心情吐露とでも言おうか、被災地で汗まみれになった人間の生き様が見えて、すがすがしい。能登出身者の一人として、「お疲れさま」と感謝したい。岡本さんの許可を得て、その文面を紹介する。

               ◇

みなさんへ

ごぶさたしています 2週間ほったらかしでしたね 私の体調は大丈夫です 血圧は132/80と正常に戻っています でも頭はダメです 地震関係以外のことはまだ長時間考えられません 何を考えていてもそっちに戻ってしまいます

昨日 諸岡公民館避難所は終わりました 避難所から公民館に戻りました 夕方6時に前を通るとカーテンが閉まり、消し忘れのトイレの電気だけがさびしそうに灯っているだけでした 最後までいた約40名は最後の朝食を食べて朝の6:30過ぎには挨拶をして順番に出て行かれました ほとんどが仮設住宅に移られました

多くの皆さんに感謝です 「ありがとネ」です こんな私を受け入れてくれた道下・諸岡の方々、こんな私を助けてくれたボランティアの方々、こんな私を取り上げてくれたマスコミの皆様、私の呼びかけに応えて各集落宛に義援金を送ってくれた方々 こんな私を許してくれた妻と子どもたち・親戚、そして能登を応援して頂いている皆様 本当にありがとうございます

でもこれからです 住宅問題です 地域再生です 仮設は終の住家ではありません 2年限定です 昨日も能登や金沢の有志とそのことの打合せもしました 自力建て替え・公共住宅・老人住宅・ケアハウス・グループハウス/町並み保全・子どもたちからの「こっちへ来んかえ」の声・出て行く人出て行けない人・限界集落・お仕事などなど 今までは言葉だけの世界だったものがドット目の前に一気に迫ってきています これからは皆さんの知恵のボランティアをお願いしなければなりません

今日から仕事 ソフトボールの子どもたちを預かります その後宝塚に戻り東京へも行きます 決算もしなければなりません 補助事業の報告書作成も でも…

門前は非日常から日常へ 田植えも始まっています 観光客も帰ってきています マスコミは帰りました 私もいつまでも非日常でいられません 働きます

今日も長い駄文付き合っていただき「ありがとネ」

のと 岡本 紀雄



⇒3日(木)午前・金沢の天気  はれ
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