たまたま見た30日夜のNHK-BSプレミアムの映画は、五社英雄監督の代表作『御用金』(19:30-21:35)だった。1969年作で、小道具に至るまで時代の感覚や仕草など時代考証がしっかりしていて、リアル感がある。たとえば、お歯黒の女性などは、今の時代劇では時代の感覚に合わないなどの理由で出さないだろう。
ストーリーが凝っていた。時代は天保2年(1831年)。越前国鯖井藩(鯖江藩をイメージした架空の地)、雪が降る日本海側の漁村で、村人が一夜のうちに姿を消すという「神隠し」が起きた。それは、御用金を積載した佐渡からの幕府の船が嵐で難破し、その御用金を漁民たちに引き揚げさせ、盗みとりした挙句に漁民たちを皆殺しにするという藩家老・六郷帯刀(丹波哲郎)のシナリオだった。藩の悪行を目撃し、脱藩した脇坂孫兵衛(仲代達矢)は3年後、家老の帯刀が再び神隠しを企てていることを知り、藩に赴き悪に立ち向かうという筋立てだ。幕府の船の難破は偶然ではなく、岬の位置を知らせるかがり火の場所を操作することで、船を座礁させるという手の込んだ仕掛けだった。なぜ2度も藩家老は悪のシナリオを描いたのか。「藩の財政窮乏の折、藩を守るため」と称し、新田開発の資金に充てようとしたのだ。藩を守るため、御用金を略奪して、領民を皆殺しにする。藩の武士たちは「藩のため、忠義」と孫兵衛に斬りかかる。浪人である脇坂は「罪なき人を殺(あや)めるな」と剣を抜く。脇坂が斬ったのは、病巣と化した組織防衛論だった。
けさ新聞を広げて「検察組織の病弊」「組織守るため犯行」「特捜の病巣 断罪」の見出しが目に飛び込んできた=写真=。一瞬、映画のシーンと脳裏でだぶった。昨日(30日)、有罪判決となった大阪地検特捜部のフロッピーディスク(FD)改ざん事件の犯人隠避罪に問われた元特捜部長と元副部長の裁判。けさ各紙が一斉に報じている。前代未聞と称される大阪地検特捜部による改ざん事件が起きた背景について、判決文の中でこう述べられているのだ。
「特捜部の威信や組織防衛を過度に重要視する風潮が検察庁内にあったことを否定できず、特捜部が逮捕した以上は有罪を得なければならいないとの偏った考え方が当時の特捜部内に根付いていたことも見てとれる。犯行は、組織の病弊ともいうべき当時の特捜部の体質が生み出したともいうことができ、被告両名ばかりを責めるのも酷ということができる」(31日付朝日新聞より)
2010年1月30日、FDデータを改ざんした前田恒彦検事(当時)から電話で報告を受けた佐賀元明副部長(当時)は2月1日に大坪弘道部長(当時)に庁内で報告した。ところが、2人は前田検事にデータの改変は過誤(うっかりミス)だとする上申書を作成するように指示し、地検検事正にも虚偽の報告をした。判決では、証拠隠滅罪の犯人である前田検事を捜査することなく隠避した、と事実認定した。
検察の「悪行」はこれだけではない。記憶に新しいところでは、去年12月、小沢一郎民主党元代表の公判で、東京地検特捜部の検事が捜査報告書に架空の記載をしたことが発覚した。こうした一連の検察不祥事で、巨悪に斬りこむ「検察正義」のイメージが変化し、逮捕した以上は何が何でも有罪にしてみせる「むき出しの検察威信」の印象が国民の間でも広がった。ストーリーと事件の構図をきれいに描くから矛盾が噴き出す。そのために改ざんや架空の記載が隠密裏に施される。そして人はなぜ組織とその威信を守るために、人を貶(おとし)めるのか。特捜の落とし穴は広く、深い。
⇒31日(土)昼・金沢の天気 あめ
大阪地検特捜部のフロッピーディスク(FD)改ざん事件を隠したとして、犯人隠避罪に問われた元特捜部長と元副部長の判決が30日午後、大阪地裁であった。裁判長は2人に懲役1年6ヵ月、執行猶予3年を言い渡した。2人は即日控訴した。
政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に捜査するのが地検特捜部だ。東京地検特捜部が発足したのが1947年。10年後の1957年に大阪地検特捜部ができた。さらに39年後の1996年に名古屋地検にも特捜部が置かれ、「3特捜」の態勢となった。
名古屋地検特捜部が発足した翌年、さっそく「手柄」を立てた。1997年10月、当時北國銀行(金沢市)の現役の頭取であった本陣靖司氏(2005年11月無罪確定)と石川県信用保証協会役員3人を背任行為で逮捕したのだった。容疑はこうだった。1993年、北國銀行が同県の機械メーカーに8000万円の融資をしていたが、このメーカーが倒産。信用保証協会は、担保不足などを理由に代位弁済(負債の肩代わり)をいったん拒否したが、後になって応じた。この背景には、頭取が協会に対し、「(信用保証協会への)拠出金の負担に応じない」などと圧力をかけた上で代位弁済をさせ、損害を与えたと特捜部は判断。信用保証協会に対する背任の共同正犯としたのだった。
一審(金沢地裁)では、本陣氏と協会役員らに執行猶予付きの有罪判決。「役員と頭取が共犯関係になって信用保証協会に圧力をかけて不正に肩代わりさせ、8000万円もの損害を出した」と認定した。この判決に対して協会役員3人は有罪判決を受け入れたが、本陣氏のみが控訴した。二審(名古屋高裁)では、協会役員でなく、代位弁済にかかわれる存在でもなかった本陣氏が役員らと共謀する「身分なき共犯」が成り立つかどうかが争われた。判決は一審判決を支持して懲役2年6ヵ月、執行猶予4年の有罪判決。本陣氏側はこの判決を不服として上告した。
裁判の流れは最高裁で逆転する。2004年9月10日、最高裁第二小法廷は、事実誤認があるとして二審への差し戻した。当時の新聞報道によると、(1)石川県内の自治体や金融機関が応分の負担をするなかで、北国銀行だけが拠出金を出さないという態度を実際に取り得たのかどうか疑問がある、(2)協会役員は利害得失を総合的に判断して態度を決定する立場にあり、代位弁済が背任行為だったとは速断できない、(3)代位弁済を拒否するという事務担当者間の決定を役員交渉で覆したことを不当とはいえない―などと指摘。有罪とした二審判決について「事実を誤認し、法律の解釈適用を誤った疑いがある」と検察側が主張する事件の構図そのものに疑問を投げかけたのだった。
2005年10月、差し戻し控訴審となる二審(名古屋高裁)では、「当時頭取が協会役員と背任の共謀を遂げたと認定するには合理的な疑いが残る」と判断して無罪判決を下した。一方、既に有罪判決が確定していた協会役員に対しては、背任罪が成り立つとした。同年11月、名古屋高検は「適法な上告理由を見出せなかった」として上告を断念、本陣氏の無罪が確定した。
逮捕当時、メディアの論調はどうだったのか。「銀行の現職頭取が逮捕されるのは極めて異例のことで、大きな注目を集めたが、この事件は単なる銀行トップの不祥事にとどまらない。事件の背景には、地銀と信用保証協会の間の密接な関係がある…」などと最初から「地域の癒着」を匂わせる論調もあった。ただ、頭取の逮捕直後、名古屋の地検回りの知り合いの記者から「トクソウでは『ちょっと無理があったかも知れない』とささやかれている」との話を聞いた。さらに記者に尋ねると、当時は名古屋地検に特捜部が発足したばかりで、「東証一部の上場企業で、しかも現役の頭取なら大きな手柄になるので、功をあせったのではないか」との解説してくれた。
単純な話だ。特捜部というセクションがあるから、配属された検事は手柄を挙げたいと職業意識をかきたてる。政治家汚職、高級官僚が介在する事件、大型脱税、経済事件…。メディアもこぞって注目する。そこで、特捜は分かりやすく、きれいな事件のストーリーや構図を描こうとする。ただ、現実をすべてストーリーや構図にあてはめようとすれば必ず無理が生じる。しかし、もう後戻りができない。そこで、そのギャップを埋めようと必死になり、大阪のようなFD改ざんや、名古屋のような「身分なき共犯」のこじつけ、となる。人間くさい話だが、構造的な落とし穴かもしれない。もちろん、この落とし穴は「特捜部廃止」で問題の解決などと言っているのではなく、取り調べの可視化(録画・録音)など多様な視点と改革を経なければ改善できないことは言うまでもない。
⇒30日(金)夜・金沢の天気 あめ
「森は海の恋人」運動の提唱者で、気仙沼市在住の畠山重篤さんが、2011年の国際森林年を記念した国連森林フォーラム(UNFF)のフォレストヒーロー(世界で6人)に選ばれ、先月9日、ニューヨークの国連本部で表彰された。畠山さんは20年以上も前から広葉樹の植林を通じて森の環境を育て、川をきれいに保ち、カキ養殖の海を健康にしてきたことで知られる。
震災後、畠山さんとは3回お話をさせていただくチャンスを得た。1回目は震災2ヵ月後の5月12日にJR東京駅でコーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられた。2回目は9月2日、輪島市で開催したシンポジウム「地域再生人材大学サミットin能登」(主催:能登キャンパス構想推進協議会)で。シンポジウムが終わり、居酒屋で地域の人たちと畠山さんを囲んで話し込んだ。3回目はことし2月2日、仙台市でのシンポジウム「市民による東日本大震災からの復興~創造と連携~」(主催:三井物産)の交流会で。9月のシンポジウムのお礼の挨拶をした。すると畠山さんの方から、「内緒なんだけれど、今度ニューヨークに表彰式があるんだ」とうれしそうに話された。UNFFのフォレストヒーローのことが新聞記事になったのはその数日後だった。
しかし、畠山さんの受賞の喜びは半ばだろう、と想像している。輪島での講演でこう述べていた。「戦後の拡大造林計画により雑木林が広がっていたのですが、エネルギー革命により薪炭林が役に立たなくなり、お金になるスギ、ヒノキを植えることになったのです。問題は木の種類ではなく、きちんと管理されているかどうかです。昨夕(9月1日)、飛行機に乗って上空から見ていたら、能登半島でもいかに真っ黒の山が多いかがよく分かります。つまり、貿易の自由化と為替などの問題があり、外材を買った方が安い時代になったため、せっかく植えたスギが伐期を迎えているのに、山に全然手が入らず、枝と枝が重なって日の光が差し込まない、下草が生えない、雨が降れば赤土が一気に流れる。つまり、海にとって良くないことばかりが川の流域にはあるということです」。受賞はしたものの、日本の山林では問題が山積している、と忸怩(じくじ)たる思いがあるのではと察している。5月12日にお会いしたとき、山林をもう一度何とかしたいと語っておられたことと重なる。
「森は海の恋人運動」を続けてきた畠山さん。海の復興、山の復権、地域の再生、どれも重いテーマを訴えて全国各地で講演が続く。来たる4月3日、受賞を記念して畠山さんの「海と共に生きる~よみがえる海の生き物・復興へのメッセージ~」と題した講演が日経ホール(東京)である。(※写真は、2月2日、仙台市でのシンポジウムでパネリストとして意見を述べる畠山重篤氏)
⇒20日(祝)夜・金沢の天気 くもり
昨年5月に実際に訪れた気仙沼市で、津波によって湾岸の陸に打ち上げられた漁船=写真=に目を見張った。この世のものとは思えない光景だった。その船は巨大ながれきと化して今もその姿をさらしているようだ。復旧の道すらまだ遠いのか。
今回の大震災から学んだことが多々ある。その一つが日本は「災害列島」であるということだ。地震だけではない。津波、水害、雪害、火災、落雷などさまざまな災害がある。「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)は現代人への災害に備えよとの戒めの言葉だろう。改めてかみしめる言葉だ。
二つ目は「災害は身の回りで起きる」ということだ。金沢は「加賀百万石」の優雅な伝統と文化の雰囲気が漂う街と思われている。一方で、江戸時代からの防災の街でもある。加賀鳶(とび)に代表される金沢の自主防災組織がある。もともと、加賀藩が江戸本郷の藩邸に出入りの鳶職人で編成した消防夫が始まりで、大名火消し組織の中でも威勢の良さ、火消しの技術で名高かったとされる。また、金沢市内には「広見(ひろみ)」と呼ばれる街中の空間が何ヵ所かある。ここは、江戸時代から火災の延焼を防ぐため火除け地としての役割があったとされる。また、城下町独特の細い路地がある町内会では、「火災のときは家財道具を持ち出すな」というルールが伝えられている。
なぜそこまで、と考える向きもあるだろう。気象庁の雷日数(雷を観測した日の合計)の平年値(1971~2000年)によると、全国で年間の雷日数がもっとも多いは金沢の37.4日となっている。雷が起きれば、落雷も伴う。1602年(慶長7)に金沢城の天守閣が落雷による火災で焼失した。石川県の消防防災年報によると、県内の落雷による火災発生件数は年5、6件だが、多い年で2002年(平成14)に12件発生した。1月や2月の冬場に集中している。雷が人々の恐怖心を煽るのはその音だけではなく、落雷はどこに落ちるか予想がつかないという点だ。
そして、三つ目は「災害の多様性」である。たとえば金沢は落雷だけではない、地震もある。直下型地震を起こすとされる、長さ20㌔ほどの「森本・富樫断層帯」が市内の中心地を走っている。中心地を走っているというのは、かつて断層でずれたくぼ地などを道路として街が形成されたようだ。その市街地を襲った地震が、1799年(寛政11)6月29日の金沢地震だ。この地震の推定マグニチュードは6.0、金沢城下を中心に多くの被害が出た。金沢城でもこのとき一部石垣が崩れ、塀が倒壊した。森本・富樫断層帯は、2001 年からの30 年間に地震が発生する可能性は0~5%で、日本の主な活断層の中でも可能性の高いグループとされている(地震調査研究推進本部地震調査委員会)。
金沢市では、この断層でマグニチュード7.2規模の直下型地震が起きた場合、避難者数19万人、死傷者数1万2千人と想定している。金沢は戦災を免れた分、古い家屋が残る街並みである。決して非現実的な数字ではないだろう。日本人の宿命として、災害とどう向き合うか。
⇒11日(日)夜・金沢の天気 あめ
1月11日から16日にフィリピン・ルソン島のマニラやイフガオの棚田(1995年世界遺産、2005年世界農業遺産)を調査研究に関する交流で訪れた。その折は、気温が30度余りあった。このころから体の調子を少々崩した。帰国してから9日後の25日に北海道の帯広市をシンポジウム参加のため訪れた。この日の夜中、小腹がすいてホテル近くのコンビニに買い物に出かけた。冷気を吸って気管支が縮むのか、ちょっと息苦しい感じがした。翌日のニュースで気温マイナス20度だったことが分かった。フィリピンと帯広の気温差は50度。これが決定的となったのか、その後も京都(1月31日)、仙台(2月2日、3日)などと続いたせいか、熱が出るやら、終日咳き込むやらで調子が悪い。いまも続いている。家族からはマスク(飛沫ウイルスを通さないWブロックの、高機能フィルタータイプの…)の着用令が出ている。
もう一つ。ことし金沢の自宅周辺は雪が多かった。スコップでの除雪は、2月前半は来る日も来る日もだった。そのうち、右肩が上がらなくなってきた。軽い腱鞘炎だと自己判断している。カバンがいつもより重い。テーブルに座って、ワインのボトルを持って、グラスに注ぐのでさえ痛みがある。57歳の身にとって、数日安静にして、休養すればよいのに、不徳のいたすところで、毎日酒は欠かさず、夜中に起きてはPCに向かってもいる。
そんな中、時間を見つけて『公共放送BBCの研究』(原麻里子・柴山哲也編著、ミネルヴァ書房)を読んでいる。まだ読み終えてはいない。イギリスのBBC(英国放送協会)は、メディア論やジャーナリズム論の研究者だったら、ぜひとも調査したいテーマの一つだろう。何しろ、公共放送のモデルとして、ジャーナリズムの姿勢や、知的で教養高い番組は高く評価されている。ただ、BBCは「巨大」であり、さまざま顔を持っている。その一つが、世界に対するリーチ・アウト、つまり手を差し伸べるということだろう。実はこれがこの本を手にするきっかけともなった。
世界の地域おこしを目指す草の根活動を表彰するBBCの番組「ワールドチャレンジ」。世界中から毎年600以上のプロジェクトの応募がある。最優秀賞(1組)には賞金2万ドル、優秀賞には1万ドルが贈られる。2011年のこの企画に私の身近な能登半島の能登町「春蘭の里」が最終選考(12組)に残った。日本の団体が最終選考に残ったのは初めてだった。惜しくも結果は4位だったが、地元は「BBCに認められた」と鼻息が荒い。春蘭の里は30の農家民宿が実行委員会をつくって里山ツアーや体験型の修学旅行の受けれを積極的に行っている。驚いたのは、BBCに取り上げられてからというもの、実行委員会の役員たちの名刺の裏は英語表記に、そして英語に堪能なスタッフも入れて、来るべき「国際化」に備えているのである。そのような心がけに能登の人を導くほどに、BBCの名はインパクトがあったのだ。これがアメリカのCNNであったら、ここまで本気にさせただろうか。
さて、BBCの名を高めたエピソードに、あのサッチャー首相(当時)との確執がある。1982年のフォークランド紛争(諸島をめぐるイギリスとアルゼンチンの武力衝突)の折、BBCはイギリスの軍隊を「イギリス軍」と呼んだ。サッチャーにすればイギリスの公共放送なのだから「自軍」と呼ぶべきではないのか、一体どこの国のテレビ局なのか、とかみついたのだ。さらに北アイルランド問題ではBBCのドキュメンタリーやインタビュー番組が「放映は敵に宣伝のための酸素を与える」として、放送禁止令が発動された(1988年)。こうした露骨な政府介入が、かえって世界では名声を上げることに。
一方で、第二次世界対戦を扱った番組では、日本批判は容赦ない。「日本人は非人道的、残忍、非文明的」だっとという元捕虜のインタビューを印象付ける(2005年『東洋の恐怖』p169)という側面もあるようだ。信頼度の高いBBCがそのように放送すれば、世界の人々の日本への印象もそのように固まる。咳き込みながら冬の終わりに読んでいるこの本は何とも複雑な心境にさせてくれる。
⇒10日(土)夜・金沢の天気 くもり
上勝町に宿泊して一番美味と感じたのは「かみカツ」だった。豚カツではない。地場産品の肉厚のシイタケをカツで揚げたものだ。上勝の地名とひっかけたネーミングなのだが、この「かみカツ丼」=写真=がお吸い物付きで800円。シイタケがかつ丼に化けるのである。こんなアイデアがこの地では次々と生まれている。全国的に上勝町といってもまだ知名度は低いが、「葉っぱビジネス」なら知名度は抜群だ。このビジネスはいろいろ考えさせてくれる。女性や高齢年齢層の住民を組織し、生きがいを与えるということ。「つま物」を農産物と同等扱いで農協を通じて全国に流通するとうこと。ビジネスの仕組みを創り上げたこと。たとえば、注文から出荷までの時間が非常に短い。畑に木を植えて収穫する。山に入って見つけていたのでは時間のロスが多いからだ。ただし、市場原理でいえば、つま物の需要が高くなって価格が跳ね上がることはありえないだろう。
過疎地における公共とは何か、何をしなければならないのか
上勝は葉っぱビジネスだけではない。バイオマスエネルギーにも取り組んでいる。上勝町の面積の89%が森林。この資源を有効利用するため、間伐材などの未利用の木材をチップ化して燃料にしている。町の宿泊施設「月ヶ谷温泉・月の宿」ではこれまでの重油ボイラーに替えて、ドイツ製の木質チップボイラーを導入し、温泉や暖房設備に利用している=写真=。重油ボイラーは補助的に使っている。木質チップは1日約1.2トン使われ、すべて同町産でまかなわれている。チップ製造者の販売価格はチップ1t当たり16,000円。重油を使っていたころに比べ、3分の2程度のコストで済む。町内では薪(まき)燃料の供給システムのほか、都市在住の薪ストーブユーザーへ薪を供給することも試みている。地域内で燃料を供給する仕組みを構築することで、化石燃料の使用削減によるCO2排出抑制を図り、地域経済も好循環するまちづくりを目指している。さらに、森林の管理と整備が進むことになり、イノシシなどの獣害対策にもなる。
上勝ではさらに再生可能エネルギーの開発を進めている。風力、小水力、バイオマスの三本柱。最大の課題は経済性という。風力は初期投資が大きいので、どのように資金調達をし、どう返済していくか。水力は風と違って変動が小さいが、渇水期もあるので、季節による水量と発電量を推測し、そこから収益可能性を考えていくというシュミレーションは今後の課題としてあるようだ。さらに、土石流でこわれた場合にはどうするかなど。風力発電は地権者との話し合い、土地の境界確定も必要となる。小水力についても、地元との水利権の交渉も必要となる。そして、再生可能エネルギーが開発されたとしても、これだけでは上勝の特徴は出ない。エネルギー事業に観光ビジネスをかみ合わせて、多様な雇用・収入源を得ていく。地域が生き残っていくための仕組みづくりをどう構築するか、だ。これが、葉っぱビジネスから再生可能エネルギーへの上勝の次なるステップなのだろう。
上勝町を視察して思うことは、過疎地における公共とは何か、何をしなければならないのかということだ。人々の生きがい、経済の活性化、移住で若者人口を増やすなど取り組むべき課題はいくつもある。これを突き詰めていくと、採算が困難な事業分野で、いかに経済と調整して事業を進めるのかということになる。そうしないと持続可能ではないからだ。その解は、単独ではできないので、他と連携していく、外需へのアプローチということになる。これを横石氏は「ハブとスポークの発想」にたとえた。いかに広げ、域内に人を呼び込むか、共感を得るか、だ。これにまい進する上勝の人々の努力を讃えたい、そして見習いたい。
⇒3日(土)朝・金沢の天気 くもり
葉っぱビジネスは軌道に乗っているものの、平均年齢70歳、高齢化比率49%の上勝町はいまでも危機感を募らせている。が、世の中の風の流れが変化し、3年ほど前から「田舎暮らし」のニーズが強くなってきた。昨年、上勝町での就業や起業、定住を目指す学生・社会人のインターンシップを募集したところ、260人(18-65歳)の参加があった。うち実際に移住したのは16人だった。そのほとんどが社会性や地域性を目的とし、社会に貢献したいという気持ちを持つ若者たちだ。つまり、彼らが来る目的は、自分が何をやりたいというよりも、社会に役にたつ、認められたいというのが動機のように思える。
応援ではなく、共感を得る時代
ところが、彼らには自分が起業するという意識は薄く、自身が会社を立ち上げる、新しく仕事を創るという発想に乏しい。日本全体がチャレンジ性が薄まっている中、受け身型になっていると常々考えている。事業をすることで地域が活性化し、社会貢献の意識があっても事業性がなければ継続しない。しかし、社会貢献をしようという若者を受け入れることは大いにプラスである。それはなぜか、現代は「役割ビジネス」だと思うからだ。
では、「役割ビジネス」とは何か。地域にとって必要なソーシャルビジネスやコミュニティビジネスの担い手は少ないが、それは現在の社会自体が人材養成をする環境にないからだ。リスクを避けている。ただ、あなただったらこの仕事ができるというビジネスだったら、UターンやIターンの人材はその能力を発揮する。ITやデザインなど、個々の若者たちが有する能力は優れている。これが役割ビジネスだ。ただ、「横石知二」の替わりをやってくれと言われたら、皆ここから離れていくだろう。そこが難しいところだ。やはり、ステップバイステップで人間力を高めていく、仕事を教えるのではなく、生活のなかで生きる力をつけてもらうことが肝心なのだ。
役割ビジネスは 一人ひとりの社員に役割を持たせるというもの。横並びではない。また、誰にでもできるというものでは稼げない。横並びは安いコストへの競争となっていくので、横並びから抜け出ていかなければならない。上勝ほど地域を看板に成功しているところは他にない、と確信している。所得も高く、1200万を超える収入の農家もある。要は「個」の力をいかに発揮させるか、持っている力の最大限を追求する、それによって人間は変わってくる。人間の力、10の能力がある人が競争心を失っていくと生産量が落ちるものだ。
モノをつくるところからの発想ではなく、この人だったら何ができるかというところからの発想が必要だ。人と地域と商品が輝く舞台づくりができたのが、上勝の成功要因だと考えている。昔、棚田は荒れていたが、現在はそこの米が高く売れるようになった。そこにはハブとスポークの発想がある。棚田を耕すという発想がまずあるのではなく、棚田で幸せを実現するという目標(ハブ)を置き、そこから棚田のファン、オーナー、研究、ゾーン、インターン等の複数のスポークを作る。いろいろなスポークをつくり、多くの人とつながることによって交流・循環ができてくる。それにはリーダー型プロデューサーが必要だ。
いいモノをつくっても売れない時代でもある。むしろ、共感を得ることで応援団ができ、いいモノが売れるような時代になってきている。「あなたが作ったものだったら買いたい」という共感。そういう時代になってきた。価値が品質以外のところに生まれてきている。共感する人をどれだけ自分の地域に引っ張ってくるか、だ。
⇒2日(金)朝・金沢の天気 はれ
29日朝、徳島県の山間部にある上勝町(かみかつちょう)は雪だった=写真=。28日夜からの寒波のせいで積雪は5㌢ほどだが、まるで水墨画のような光景である。ただ、土地の人達にとって、この寒波は31年前の出来事を思い起こさせたことだろう。1981年2月2月、マイナス13度という異常寒波が谷あいの上勝地区を襲い、ほとんどのミカンの木が枯死した。当時、主な産物であった木材や温州みかんは輸入自由化や産地間競争が激しく、伸び悩んでいた。売上は約半分にまで減少し、上勝の農業は打撃を受けていた。そこへ追い打ちをかけるように強力な寒波が襲ったのだ。主力農産品を失って過疎化に拍車がかかった。若年人口が流出し、1950年に6356人あった上勝町の人口は一気に減り、2011年には1890人にまで低下した。高齢化率は49%となった。人口の半分が65歳以上の超高齢化社会がやってきた。
葉っぱを農産物に、お年寄りにタブレット端末を
上勝町を訪れたのは2月27日から3日間。金沢大学と能登半島の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)でつくる任意団体「能登キャンパス構想推進協議会」(会長は金沢大学社会貢献担当理事・副学長)の共同調査研究事業の一環として、研究者と自治体の若手職員が調査のため視察に訪れた。地場産品をいかにマーケットに乗せて流通させ、シェアをとり、ブランド化するかという「6次化」をテーマとした先進地調査だった。事前に本を読み、話し合い、勉強もた。27日に上勝をバスで訪れて、現地に降りた。ある職員がつぶやいた。「これは厳しいな。能登と比べものにならない」と。谷が深く、平地が少ない。当然日照時間も平地より少ない。農業にとっては明らかに条件不利地である。しかも、労働力人口の半分は65歳以上の高齢者だ。
しかし、上勝には奇跡が起きた。高齢者が主体となって年間で2億6千万円も売り上げる産品を見つけた。多い人で年収1200万円。94歳のおばさんが木に登って採取し、タブレット端末で受注する。そして今年秋には、その高齢者たちが生き生きと働く様子が『人生、いろどり』というタイトル名の映画にもなるという。主演は、吉行和子や富司純子、中尾ミエら。絶望の町に奇跡を起こした産品とは「葉っぱ」である。
「彩(いろどり)」とブランド名がついている。もみじや柿、南天、椿の葉っぱや、梅や桜、桃の花などを料理のつま物として商品化したもの。山あいの村では自生しているが、市場出荷が本格的になるにつれ、栽培も盛んに行われるようになった。採取は掘り起こしたり、機械を用いない。しかも、野菜などと比べて軽くて小さいので高齢者には打ってつけの仕事なのである。懐石料理など日本食には欠かせない、このつま物はこれまで店が近くの農家と契約したり、料理人が山に取りに行ったりすることが多かった。これを市場参入させたのが当時、農協の営農指導担当だった横石知二氏(1958年生)=写真=だった。
つま物を市場参入させるひらめきのきっかけはこうだった。以下、横石氏の講演から抜粋する。1987年ごろ、ミカン栽培に見切るをつけて何を町の特産品にしたらよいか悩んでいた。たまたま大阪の寿司屋で2人の若い女性客が、添え物として皿に飾られていた葉っぱを手にしているのを見た。そしてこんな会話が耳に入ってきた。「きれいね。家に持って帰ろうか」と。横石氏はひらめいた。「つま物で何かできるかもしれない」。山あいの上勝町には、和食に添えられる季節の葉っぱや花はいくらでもある。このひらめきをビジネスに育て上げるまでが大変だった。地元の農家に説明しても、初めの頃は「葉っぱが金に化けるなんて考えられない」といった拒絶反応がほとんどだった。農家を説得して回り、ようやく葉っぱを商品として出荷することにこぎつけたものの売れなかった。横石氏は当時を振り返り、「利用者のニーズを把握できてなかったんです」と。そこで自腹を切って、全国の料亭や料理屋を訪ねて、どんなつまものだったら買ってもらえるのか、ユーザーの声を聞いて回った。
こうした横石氏の地道な努力が実を結び、上勝町の「葉っぱビジネス」は見事に成功。現在は、200の生産農家(70-80歳代)が、320種類のつまものを「彩いろどりブランド」として全国に出荷する。農協で収集した販売単価や出荷数量などのデータを横石氏が社長を務める株式会社いろどりで分析し、農家へ伝達。農家はこれを分析し、翌日の牛産量や品目の選定の目安にしている。また、出荷・受注業務を効率化するため、FAXやパソコン、最近ではNTTドコモとタイップしてタブレット端末を積極的に導入している。農産物史上で葉っぱを商品化し、IT史上で高齢者がビジネスとして使う地域の事例があっただろうか。奇跡なのである。
⇒1日(木)朝・金沢の天気 はれ