自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★長い箸のたとえ

2009年10月16日 | ⇒トピック往来
 「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(「善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから、悪人は言うまでもなく極楽へ行ける」の意味)。高校時代の倫理社会の教科書で初めてこのたんに歎異抄のフレーズを読んだとき、少々違和感があったことを覚えている。なぜ悪人が極楽へ行けるのか、と。ただ、こうした逆説的な言い回しというのはなぜか新鮮に感じるものだ。だから記憶に残っている。いまにして思えば、この言葉を語った親鸞(しんらん)というお坊さんの布教のテクニックではなかったのか。

 1262(弘長2)年11月、90歳の生涯を終えた親鸞の750回忌の法要が2011年に営まれるそうだ。それを記念した「本願寺展」(石川県立歴史博物館、9月19日‐11月3日)が開かれている。先日、その招待券を新聞社関連の仕事をしている知人からもらった。本願寺と言っても西と東があるが、今回は西本願寺の歴史を物語る文化遺産と美の世界を一堂に集めたもの。国宝5件のほか需要文化財26件など150点が展示されている。職場の同僚に僧籍の人がいて、もらった数枚のうち1枚をおすそ分けすると随分と喜ばれた。

 たまたま昼時で、お箸を持っていた。この箸は、売り出し中の能登丼(のとどん)のキャンペーンで、能登の飲食店でその店オリジナルの丼を注文すると箸の持帰りができる。過日、珠洲市の「古民家」レストランでブリ丼を食した折、もらったものを昼食時に時折出しては使っている。きちんとした塗り箸で輪島で製造されたと箸袋に記されている。ただ、この箸が長い。計ってみると28㌢もある。「それにしても何でこんな長い箸を」と眺めていると、僧籍の彼が言った。「坊さんの説教に、極楽の三尺箸というネタがあるんですよ。これにちなんで長くしてあるのでは…」と。

 初めて聞いた「極楽の三尺箸」を簡単に説明すると。地獄でも極楽でも、食卓の内容さほど変わらない。ご馳走が用意され、箸もある。長さは三尺(90㌢余り)だ。この箸を使わなければならないというルールがある。地獄の住人たちは先を争って食べようとするが、長すぎる箸を使いこなせず、そのうちご馳走の分捕りを始める。でも、長い箸では食べることができないのでいつも飢餓感にさいなまれている。ところが、極楽の住人たちは三尺の箸でご馳走をつまむと、食卓で向かい合う相手の口に入れてあげる。自分も相手の箸でご馳走を食する。このようにして極楽では和気あいあいと食が進み、楽しく満ち足りている。つまり、同じ食卓でも風景が違うのである。

 別の話がある。親鸞は弟子の唯円から「極楽浄土に行きたいと思わないのですが」と尋ねられ、「私もそうだ」と答えたという。そして「生きているこの世は煩悩(ぼんのう)の故郷」と付け加えた。生きていればこの世に執着心があるのは当然だ、と解説した。執着心が強すぎれば悪人にもなる。ただ、その悪人でもあの世で三尺箸をどう使うかによっては極楽にもなる。

 能登丼の長いお箸はそこまで意味を込めたものかどうか、定かではない。

⇒16日(金)朝・金沢の天気  はれ
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☆「ハブ化」を言う前に

2009年10月14日 | ⇒トピック往来
 「羽田 国際ハブ空港化」ー。こんな見出しがここ数日紙面をにぎわせている。10月13日の前原誠国土交通大臣の発言を受けてのことだ。しかし、地方に住んでいる者にとって、どの空港を使うかは行き先によって決まっている。たとえば、金沢からだと、ハワイは名古屋、ニュージランドとオーストラリアは関空、ヨーロッパは成田だ。その理由は、出発先からのアクセスと待ち合わせ時間をまず考えるからだ。ハワイは便数だと成田が多いが、小松から成田の乗り継ぎ便が少ない。そこで、JR金沢駅から名古屋駅に向かい、直行バスで名古屋セントレアに行く。夜10時ごろのフライトでホノルルまで6時間だ。ニュージーランドの場合はJR金沢駅から関空に向かう。行き先に応じて組み合わせをする。

 きょうの論点の結論から言えば、「羽田 国際ハブ空港化」は無理だと思うし、その必要もない。また、そうすべきでもないと思う。日本人1億2千万人が使う空港を羽田にバブ化、つまり集中することの困難性は明らかだ。まず、地震や台風など災害が多い日本のような国では集中管理より、リスク分散だろう。次に、激しい建設阻止闘争を押し切って開港した経緯から、成田が午前6時から23時の時間帯しか発着できない約束事があるというのであれば、国土交通大臣が建設中止を明言した八ツ場(やんば)ダムのように成田の住民を説得に現地に赴くべきだ。深夜発着にかかわる騒音対策の問題もあるのでその補償案を提示して説得するのが筋だろう。

 さらに、羽田‐成田間の乗り継ぎの不便さが指摘されている。確かに、京成、都営浅草、京急休耕の各線に乗り入れるかたちで直通列車が運行しているが、最短でも106分かかる上、便数も限られている。これをせめて50分台のアクセスにして、東京駅ともリンクするように国交省が全力を上げれば不便さはかなり解消される。ハブ化を言う前に、成田と羽田の利便性を高めるために打つ手はいろいろある。

 韓国の仁川空港にハブ機能が奪われているという。「国際空港評議会」(本部ジュネーブ)が選出する2004年-2008年の「空港ランキング」総合評価部門で仁川が連続して「世界最優秀空港賞」を受賞し、国際貨物量で2006年に成田を抜いて世界2位になった。前原発言はこれを強く意識したものだろう。

 そもそも西日本の地方空港がなぜ仁川を利用しているかというと、たとえば九州から見れば、成田や羽田はアジアやヨーロッパの方向とは逆方向に位置する。感覚的にあえて逆戻りしてまで成田や羽田を使いたいとは思わないのである。東京の人が北海道に行くのにわざわざ名古屋や関西に行くだろうか。つまり、「羽田 国際ハブ空港化」は東日本の感覚なのだ。日本列島は東西に長いのである。ちなみに、羽田のD滑走路(来年10月運用)を国際線に振り向ければなおさら国内線が窮屈になるのではないか。するとますます地方空港の仁川活用が増えるというパラドックスが生じる。仁川と競い合うハブ空港を日本でつくるとすれば、むしろ関西や福岡の方が東アジアのポジションとすれば地の利があると考える。※写真は羽田空港

⇒14日(水)夜・金沢の天気  はれ 
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★台風とリスク管理

2009年10月08日 | ⇒トピック往来
 1泊2日の東京出張(10月8日-9日)が3週間ほど前から予定され、そこに台風18号がやってきた。なんとか東京にたどりついたものの、移動手段が二転三転、そして綱渡り。こんなことも珍しいので記録に留めておきたい。

 出張は、金沢大学が文部科学省から委託を受けて実施している人材養成プログラムの中間報告のため。当初往復とも小松空港と羽田空港を利用した空の便を予約した。雲行きが怪しくなってきたのは今月5日ごろ。伊勢湾台風並みの大型台風がやってくるという。そのうち、8日に本州直撃との予報が。今風の「リスク管理」の5文字が脳裏に浮かび、「これはいかん」と旅行会社と相談し、台風に強い列車に切り替えた(6日)。行きをJR金沢駅から越後湯沢乗り換え、上越新幹線で東京へ。帰りは東海道新幹線で名古屋乗り換え金沢駅のチケットを手に入れた。航空運賃のキャンセル料(30%)がかかったが、リスク管理は経費がかさむものと自分を納得させていた。しかも、中間報告に出席する3人とともに発表のリハーサルも終え、準備は万全と悦に入っていた。

 ところが、7日午後5時半ごろ、旅行会社から携帯電話に連絡が入った。「台風の影響であすはJRが全面運休となりました」と。「これはいかん」。即、大学の事務スタッフに依頼して、東京での中間報告会が予定通り実施されるのかどうか先方に確認してもらった。その返事は「今のところ予定通り。ただ、変更もありうるので連絡がつくように」と。それしてもなぜ陸路の列車が止まるのか疑問だった。JRは乗客5人が死亡した2005年の山形県内の羽越線の脱線・転覆事故以降、運転を見合わせる風速の規制値をそれまでの秒速30㍍から25㍍に引き下げていた。つまり、安全対策のレベルを上げていたのだ。今回の台風に関しては、JRが航空会社より機敏で、運休の判断も速かった。「少々過敏」と思わないでもなかったが…。

 では、東京行きの移動方法をどうするかと思案していると、くだんの事務スタッフからその夜、電話があった(7日)。「小松発の8日夕方のJAL便がインターネットで予約を受け付けている。私は1278便を取りました。宇野さんはどうしますか」と。即「私の分もお願いします」と。結局、台風が過ぎ去るを待って、空から追いかけるように小松から羽田に向かうことにした。帰りはJRの便をそのまま生かした。

 そして8日午前、能登半島などが暴風域(風速25㍍以上)に入り、最大瞬間風速は輪島で33.5㍍、金沢で27.7㍍に達した。金沢など加賀地方では白山(標高2702㍍)が衝立となったのか、能登方面よりも風の勢いは強くなかったようだ。小松発午後4時20分のフライトを待った。しかし、羽田からの機体到着が遅れ、東京に向けて飛び立ったのは午後7時15分。実に3時間の遅れだった。羽田に着いたとき、雨は上がっていて星がきれいに見えていた。(写真は気象庁)

⇒8日(木)夜・東京の天気  はれ

 
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☆こつなぎ百年物語

2009年10月05日 | ⇒メディア時評

 映像で見るのと、活字で読むのとではまったく別の物語ではないかと感じた。ドキュメンタリー映画「こつなぎ‐山をめぐる百年物語」の上映が4日、金沢市21世紀美術館であった。国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットが主催する「環境映像祭 in 金沢」のプログラムの一つ。入会(いりあい)権をめぐる裁判闘争で有名な小繋(こつなぎ)事件を扱ったドキュメンタリー映画だ。

  出版の世界では、「生きる権利をめぐる半世紀の闘争の裁判記録」となる。ところが、今回の映像では印象として「たくましき山の民の物語」である。映像では、法廷への出入りのシーンがあるだけで、ムシロ旗を掲げての抗議行動などのシーンというものが出てこない。村の生活やお祭りを交えながら淡々と映像は流れて行く。120分。 会場で配布された「あらすじ」からこのドキュメンタリーの流れを引用する。岩手県盛岡市の北、50㌔の山里。二戸郡一戸町小繋。ここへ今から50年前、映像カメラマンの菊池周、写真家の川島浩、ドキュメンタリー作家の篠崎五六の3人が通い、小繋の人々の暮らしの記録を取るようになった。小繋は戸数50戸に満たない山間の農村。村を取り巻く小繋山から燃料の薪や肥料にする草・柴を刈り取って暮らしている。山は暮らしに欠くことのできない入会地だ。入会地とは、一定地域の住民が慣習的な権利によって特定の山林・原野・漁場の薪材・緑肥・魚貝などを採取することを目的に共同で使用することを指す。

  大正3年(1914)、村に大火事があり、家々が焼けた。山から材木を切り出し家を再建しようとする人々に、地主が立ち入りを禁止する。江戸時代は南部藩の所領だったが、その管理を地元の寺の山守に任せていた。入会の山は、明治の地租改正を経て、県外の地主の私有地となっていたのだ。地主と契約を結ぶことで山に入ろうとする住民たち「地主賛成派」と、入会は自分たちの権利だと主張する住民たち「地主反対派」に分かれ、村は二分される。

  反対派は大正6年(1917)、「山に入れなければ生きていけない」と入会権確認の訴訟を起こす。これが、「小繋事件」の始まりだった。人権派弁護士の支援、盛岡地裁、宮城控訴院の棄却判決、地主のよる森の伐採、第2次訴訟と高裁調停など、大正から昭和、戦後にかけて長い裁判闘争の歴史が続く。その間も、村の暮らしは山とともに不自由をしのぎながら続き、カメラはそれを追う。

  そして昭和30年(1955)、反対派住民が「山の木を伐採した」として森林法違反で11人が逮捕され、刑事事件となった。事件は昭和41年(1966)、最高裁で被告の有罪が確定する。「負けたからといって山に入るのはやめられない。入会をやめるのは農民としての暮らしを放棄することだ」と語る被告たち。時は流れ昭和50年(1975)。賛成派と反対派の調停が成立し、住民が顔をそろえて一緒に山仕事をするようになった。

 しかし、今、村は高齢化と過疎化の波に洗われる。最後の方のシーンでは人手不足や化石燃料の依存の生活形態の変化などで薪を使わなくなり、樹木が伸び放題の荒れた山のシーンが描き出される。かつての原告の一人の古老がこうつぶやく。「山でも川でも地球の一部分でしかないでしょう。これが誰のものというのは変なんですよ。…地球があって、はじめて我々が生きているわけだから…」。終盤のシーンは「山は誰のものか」から「この山を今後どう生かす」へとテーマが大きく転換しつつことを暗示しているようにも思える。

 ⇒5日(月)夜・金沢の天気  はれ

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★能登のお寺とアジア

2009年10月03日 | ⇒キャンパス見聞
 アジア太平洋諸国の教育、文化等の分野の学者、専門家を招へいする財団法人ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)のプロジェクトが9月30日から10月2日にかけて金沢と能登で実施され3日間同行した。ASEANを中心とするアジアの5カ国(インドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン、パキスタン)から9人を招いて、日本の専門家を交え環境教育に関する研究交流を行った。移動をともなうツアーでもあるので、受け入れ側の大学では通訳、司会、ロジスティック(設営・支援)などそれぞれが分担して対した。今回ロジを担当して見えてきた「文化の違い」が勉強になった。

 招いた9人のうち女性7人、宗教ではイスラムが多い。それぞれの国の大学や研究機関、シンクタンクの研究者の人たちである。30日午後、金沢大学を訪れた一行はまず学長を訪問した。あいさつは手土産渡しから始まった。彫り物といった民芸品が多いのだが、パキスタンから訪れた女性は綿のマフラーを。しかも、学長の首にまいて差し上げるというのが「決め技」である。手土産としては軽くて旅行バックに収納がしやすく、実に計算されていると感じ入った。この女性は場所を変えるごとに衣装換え、衣装のデザインは自らしたものだという。訪問先への手土産渡しは、アジアの光景である。欧米のプレゼント交換とは違い、なぜか共鳴するシーンではある。ちなみに学長のお返しは輪島塗の写真立て。

 宗教上のこともあり、レセプションの献立には気を使った。イスラム教では牛肉と豚、アルコールはご法度だ。それらを除外した鶏肉、魚介類が中心のメニューだが、手を付けてもらえなかったのがハムサンドだった。仕出し業者にはハムの除外をあらかじめ伝えてあったが、おそらく二次発注の段階で伝わらなかったのだろう。慌てて、その場で取り除くのも不自然だったのでそのままにしておいた。で、案の定、手付かずということになった。ハムのほか、ハンバーグや餃子といった混ぜ物には手を付けない。自分の目で見て、食材が理解できないものは「怪しい」となるのである。この厳格さにはある意味で共感した。宗教上であれ、菜食主義であれ、自分で納得した食材でなければ手を付けない。これは正しい。日本人には食に対する警戒心というものがなさすぎる。得体の知れない冷凍食品や、偽造牛肉が横行していたことが発覚したが、これは一面で食に対する無節操の逆説だ。食の安全性に関しては、「イスラム並み」の厳格さがあってもいい。

 2日目。能登の「古民家レストラン」で昼食を取った。食器は朱塗りの輪島塗なので、興味を示してもらえると思い、あえてこのレストランにしたのだが、読みが浅かった。天婦羅や焼き魚は食してもらえたが、この店自慢の手づくり豆腐が手付かずのまま残っていることに気づいた。そもそも箸は日常的に使わない。さらに器を口に付けて食べるという作法はない。従って、崩れやすい豆腐は食べにくいのである。そこで急きょ、スプーンを用意してもらった。さらに思った。それならここで、「食べにくいのでスプーンを出して」と日本人ならクレームを入れる。ところが、ゲストはそういうたぐいの文句は言わない。ホストに対して礼を失するというわけだ。「声なき客の声」を読むのはホストの役目。これはとてもプレッシャーではある

 3日目。「写真を撮って」と一番人気のスポットは能登のある山のお寺だった。建造物の外観ではない。本堂のきらびやかな仏壇や仏具をバックにしてである。イスラム教徒が多いので、異文化理解に役立てばと思い案内した。古色蒼然とした外観だが、本堂には金箔の耀きがある。このコントラストに一行の目も耀いた=写真=。インドで生まれた仏教が敦煌、朝鮮半島と伝播して、日本の半島の先端でもこうして信仰を集めていると説明をした。写真のフラッシュが飛び交う中、仏教徒のタイの人は静かに手を合わせていた。

⇒3日(土)夜、金沢の天気  はれ
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