自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆大いなる産業実験

2005年07月30日 | ⇒メディア時評

        「あらゆる手段を使って、2011年を乗り切りましょう」。会長の庄山悦彦・日立製作所社長が答申のまとめをこの言葉で締めくくると、庄山氏の左横で麻生総務大臣は大きくうなずいた。きのう29日の総務省情報通信審議会(総務相の諮問機関)での答申は「大いなる産業実験」の最終工程へと大きく踏み出した。この答申が民放ローカル局のあり方を大きく変える劇薬になるのか、あるいは死へと導く毒薬になるのか。

   「自在コラム」では地上デジタル放送(略して「地デジ」)について何度かコメントしてきたが、そのポイントは「2011年問題」に尽きる。全国に地デジを普及させ、2011年7月に現行のアナログ放送を停止する。そして停止されたアナログ放送の電波帯域は民間通信業者に開放するというのが国の計画(国策)だ。問題は、今から6年後には全世帯がデジタル対応テレビに買い換えるか、既存のアナログテレビにSTB(セット・トップ・ボックス=外付けのデジタル放送チューナー)を取り付けなければならない。デジタル対応テレビの普及率は現行8%である。6年後に100%に近づくのか。また、民放各局は中継局をデジタル対応にする設備投資を始めているが、小さなテレビ局でも45億円ほどの投資は必要とされ、放送インフラが遅れる可能性もある。「普及率も伸びない。そもそも地デジの中継局は間に合うのか。アナログ停波を先延ばししてはどうか」との声が高まってくるだろう。これが「2011年問題」なのだ。

        この問題に対する回答の一つが、光ファイバーの通信網を利用する今回の答申だ。それによると、ビルの陰など電波が届きにくい地域を中心に、IP(インターネット・プロトコル)技術を使った光回線で番組を送信する。06年から通常の画質(SD)の放送を認め、08年からはハイビジョン画質(HD)の番組の送信を全国で認める計画だ。また今回、CS(通信衛星)で地上波放送の番組を流すことも認められた。冒頭の「あらゆる手段」とはこのことだ。

        ここで疑問が生じる。いったん光ブロードバンドで送信できるようになれば、原則として県単位になっている放送エリアは意味がなくなる。これに対して、答申でも、光回線での送信も放送対象地域の中でしか視聴できないようにする技術を確立することを条件にしている。果たして、そのような技術開発は可能か。制限なく見えてしまえば、県域が原則になっている放送免許制度の意味がなくなりかねない。民放ローカル局はこの県域を守ることで経営が成り立っている。民放連も神経を使っていて、たとえば7月21日の記者会見でのやり取りで、日枝会長は今回の答申を想定した記者の質問に注意深く答えている。

【記者】:衛星やIPでデジタルソフトをデリバリーすることになると、県域放送の充実を標榜したデジタル化の意義が薄らぐのではないか。
【日枝会長】:総務省は、放送のエリアと同じ県域の視聴者にIPを利用して番組を届けることができるか検証するのであり、同時再送信が前提と考えている。衛星利用についても、技術的に難しい面もあるようだが、県域の再送信が前提である。ただ、中継局を建設した方が低コストになる可能性もあるわけで、今のうちに検討しておこうというのが総務省の考えだろう。

       つまり、日枝会長は、インターネットや衛星放送にエリア制限を加える無理な技術を開発するより、ローカル局が中継局を建設する国の補助を充実した方がコスト的に安い、と言外に滲ませたのである。ところが、この放送免許制度そのものを疑問視する動きも出てきた。政府の規制改革・民間開放推進会議では8月にもまとめる中間報告で放送業界に新規参入を促すための制度の再検討を求めるようだ。新規参入の自由化が実現すると、民放が50年かけて築き上げた県域主義による「集金システム」が総崩れになる可能性もある。

        地デジの成功はデジタル対応テレビなど家電の売れ行きに大きな波及効果を与える。1台30万円のテレビが3千万台売れたとすると9兆円、民放のデジタル化投資が8000億円、これだけでもざっと10兆円ほどになる。国が狙っている「大いなる産業実験」とはこのことなのだ。だから民放がいくら利益を出しても、国の実験に次から次へと付き合わされ利益を吐き出していく。この実験が終了した後、おそらく放送の免許制度は撤廃される。日立製作所社長の庄山氏の横でうなずく麻生大臣の2人の構図を私はそのように読み取った。

 ⇒30日(土)夕・金沢の天気  晴れ

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★不払いの悪循環

2005年07月29日 | ⇒メディア時評
   これでもか、これでもかと問題が噴出してくる。NHKは28日、ビール券購入をめぐり不正があったとして、福井放送局のチーフ・カメラマン(46)を懲戒免職処分にしたと発表した。チーフ・カメラマンは、2000年6月から2004年12月にかけ、取材協力者への謝礼との名目でビール券を局に購入させて4830枚を換金し、354万円をだまし取った。チーフ・カメラマンは「単身赴任などで生活費がかさむと思い、不正を始めた。洋服代などに充てた」と話しているという。カメラマンは全額を弁済している。

    新聞などによると、チーフ・カメラマンは127回にわたり上司の印鑑を勝手に持ち出してビール券の発注伝票に押印していた。おかしな話である。一つには、私文書を偽造したとしても、なぜ個人が4830枚ものビール券を局から引き出せたのか。ちょっとした謝礼なら常識的に言えば1回につき10枚が相当である。すると5年間で483回分の謝礼ということになる。1年で平均97回、月平均で8回も謝礼があるのか。次に、不正で得た金を「洋服代などに充てた」とする理屈である。他のテレビ局のカメラマンがこの話を聞けばせせら笑うだろう。カメラマンは10㌔以上もあるカメラを操作する。移動中もカメラを手放さないものだ。だから常に動きやすい服装で、夏だったら襟付きの半そでポロシャツにスラックスという服装だ。このカメラマンはブランドもののスーツを着込んで仕事をしていたというのか。そうでない限り、「洋服代など」という理屈が理解できない。

   うがった見方をすれば、このカメラマンはビシっとスーツで決めて、夜の繁華街を札ビラを切りながら闊歩していた、ということだろうか。しかも、去年7月に元チーフプロデューサーによる6230万円にも上る番組制作費不正流用が発覚したが、カメラマンはその後も不正行為を続けていたことになる。悪質である。

   こうなるとカメラマンが悪いというより出金する管理業務がなぜチェックできなかったのかと首をかしげたくなる。4830枚ものビール券をなぜ買い与えてしまったのか。一連の不正事件で浮かんでいるのは、管理業務のチェック体制の甘さである。この方が罪が重い。監督責任を問われて、福井放送局長や放送部長ら5人が減給、副部長ら2人が譴責(けんせき)処分、ほか2人を厳重注意を受けているが…。

   NHKは今年度の予算で、受信料の不払いが45万件になると想定して事業計画を立て、受信料収入は前年度比1.1%(72億円)減の6478億円を見込んでいる。ところが次々とさらなる不祥事が発覚し、5月末の受信料不払い件数は当初見込みを上回る97万件に上り、6月末には100万件を突破したとみられる。こうなると「不払いの数が多いから払わない」という悪循環が出てきて、不払いの勢いが止まらなくなる。受信料の不払いが増えれば今度は番組制作費も削減され、番組が「劣化」することにもなりかねない。

   この悪循環を断ち切るにはこれしかない。金品で不正を働いた者は業務上横領の罪で警察に告訴してけじめをつけ、退職金は一切払わない。この2点がなければ国民は納得しないだろう。弁済しているから告訴しないとNHKが言い訳しているのであれば、国民は「カメラマンが『オレよりもっと悪いヤツがいる』と、警察にベラベラしゃべられてはNHKが困るからだろう」とNHK自体を勘ぐってしまう。

⇒29日(金)午前・金沢の天気  曇り時々晴れ
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☆幻影と化した猿

2005年07月27日 | ⇒トピック往来
  ちょっと奇怪な写真を2枚お見せしよう。ブログにつける写真の多くは、ケータイ(携帯電話)のカメラ(100万画素)で撮っている。ケータイはいつも持ち歩いているので、シャッターチャンスには恵まれる。上の写真は7月23日、金沢大学角間キャンパスの創立五十周年記念館「角間の里」で撮影した。金沢市内の保育園がこの記念館で実施した園児のお泊り保育でのこと。その時のおやつにスイカが出た。保母さんたちが器用にスイカの中身をくり抜き、目と鼻と口も抜き、最後にトウモロコシの「頭髪」をかぶせた。実物はちょっと愛嬌のある「スイカくん」なのだが、逆光で撮影した写真はまるでエイリアンの凄みがある。口の中の赤が生物を感じさせ、向かって左の目が光っているので宇宙人のように見える。


  下の写真は24日に「いしかわ動物園」で撮影した2頭のチンパンジーの姿。くもり空で夕方16時50分。遠くにいたのでズームを最高にした。もともと黒毛で覆われているのでまるで影絵のようになった。核戦争で人類が滅亡し、次にサルが地球を支配するという映画「猿の惑星」のシーンとイメージが重なる。しかも、影絵だとそれがなんとなく深層心理の世界を表現するシュールレアリズムの絵画のように思えるから不思議だ。サルバドール・ダリ風にタイトルをつければ「幻影と化した猿」。「もはや誰<ヒト>もいなくなった死の空間に幻影と化した猿が群れる。未来の終わりも始まりをも予感させる奇怪な躍動」とでも説明しようか…。


   写真の技術で言えば完全な失敗作だ。私が写真家のはしくれだったら恥ずかしくて出せない。ただ、テレビや雑誌で見かける奇怪な写真とでも思って楽しんでもらえばいい。それも真夏だからなんとか理由をつけて掲載させてもらった…。

⇒27日(水)午前・金沢の天気 曇り
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★あるカバの夏物語

2005年07月26日 | ⇒トピック往来
水槽にもぐったままのカバと目線が合った。じっとこちらを見つめる大きな眼(まなこ)だ。しかも見つめると人を離さない、眼力がある。この眼で50年余りも人を引きつけてきたのだろう。連日30度を超す真夏日、石川県能美市にある「いしかわ動物園」を先日ぶらりと訪れた。もうすでに夏バテ気味のチンパンジーの「イチロウ」やゾウの「サニー」に比べ、水中でじっとしているカバの「デカ」はなぜか存在感がある。

  いしかわ動物園へは7年ぶりだった。この動物園はもともと昭和33年(1958年)に金沢市卯辰山に開園した民間の娯楽施設だったが、経営不振のため、平成5年(93年)に閉鎖となった。それを石川県が買い取り、財団を設立して、平成11年(99年)に新規に開園した。目が合ったデカは紆(う)余曲折を経た動物園をじっと見続けてきた生き証人であり、その経歴は物語にもなる。

  デカが金沢の動物園にやってきたのは開園からしばらくたった昭和37年(62年)だ。その前は、「カバ子」と言い、キャラメルのメーカー「カバヤ」のキャンペーンで全国めぐりをしていた。昭和28年(53年)に生後1歳でドイツから日本にやってきてずっと全国巡業が続いた。戦後で動物に飢えていた子供たちの間で人気を博し、岡山県のキャラメルメーカーを一躍、全国ブランドに押し上げたのもデカの功績だ。キャラメルメーカー、そして動物園と、デカがもたらしたブランド価値は一体何億円の換算になるのだろう。

  デカが全国ニュースになったことがある。平成11年5月20日、デカが新しくできた「いしかわ動物園」へ引っ越した日だ。デカを乗せたトラックは石川県警のパトカー1台、白バイ8台に先導され、金沢から新動物園までの27ヵ所の信号をノンストップで走った。交通混雑を避けるために動員された警察官は80人にも及んだ。空には取材のヘリコプターが飛び交った。当時、私は地元テレビ局の報道制作部長だった。全国ニュースとして東京キー局に送り込むと、キー局の編集長からさっそく電話があり、「G7の首脳が来日した時のような映像ですね」と言われたの覚えている。

  外国のVIP並みの先導となったのには理由があった。車での揺れがデカに与える心臓への負担が心配され、そこで、ゆっくりとノンストップでトラックを走行させることになった。ところが、移動中のデカは終始落ち着いた様子で、到着後の獣医による診断もまったく問題はなかった。何しろ若いころは9年間も車に揺られて全国行脚をした「ツワモノ」だ、鍛え方が違うのである。
  
  人間にたとえれば百歳を超え「日本一長寿のカバ」というタイトルも持つ。しかし、高齢には勝てず老齢性白内障を患っており目はかなりかすんでいるはずだ。それでも人に愛嬌のある眼を向けるのは、水から伝わってくる振動方向に目を向けるせいだろう。デカが2.5㌧もの巨体を物静かに水槽に浮かべる様はまるで、かつて映画で見た、元銀幕のスターがロッキングチェアでゆっくりと身を揺らす晩年の姿にイメージを重ねてしまう。悲劇もあった。オスの「ゴンタ」(86年死亡)との間に6頭の子をもうけたものの、いずれの子も出産直後にゴンタの虐待を受けて死んでいる。でも、もうそのことは忘却のかなたとなっているに違いない。

  老い先はそう長くない。彼女の最期はおそらく再び全国ニュースになるだろう。「日本一長寿のカバ死ぬ」と新聞社会面の片隅に。カバとは言え、見事な生き様である。(写真提供:いしかわ動物園)

⇒26日(火)午後・金沢の天気  曇り
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☆「クレーム」も集めてみれば…

2005年07月23日 | ⇒キャンパス見聞
  4月に金沢大学に就職して、唯一「民間らしさ」を感じたのは金沢大学生協=写真=のスタッフの応対だった。レジ担当の言葉遣いや対応はまずまず、食堂も整然として清潔感がある。大学の周囲にはJUSCOを始め専門店が軒を連ねており、学生のニーズを取り込むことができなければ破綻してしまうから当然かも知れない。そのことを差し引いても、私の目には「生協は善戦している」と見える。なぜか、クレーム処理が巧みなのだ。食堂には「一言カード」の意見箱が備えられており、意見ごとの答えを「回答カード」にして、掲示板に貼り出す仕組み。さらに問答形式にしてまとめた冊子(「一言カード集」)にもしている。138ページ、1千件を超す膨大なクレーム処理集である。読んでみるとこれが面白い。以下、傑作選。

まずは「食べ物」のクレームからー。
Q:「キャビアとフォアグラを80円ぐらいで食べてみたいです。(工学・教職員)」
A:「ご意見ありがとうございます!トリフ1kg80000円-1人前10g800円、フォワグラ1kg10000円-1人前50g500円、キャビア(ベルーガ)50g6000円-1人前25g3000円。残念ながら無理ですね。僕も80円で食べられるなら家族皆連れて食事に来ますね。夢で食べてくださいね」

Q:「今日、ワサビ味のソフトクリームを罰ゲームで食べました。スゴイまずいです。なんであんなまずい商品をおくんですか?たくさん残ってたよ!!かわりに、ミックス(例えばチョコ+バニラ)を置いて。(法学・1年)」
A:「ご意見ありがとうございます。わさびアイスは、賛否両論ですね。以前出食した時はまずいと言われやめたんですが、再度出してほしいとのご意見で登場しました。食べ物ですので罰ゲームに使われるのは可哀相です(アイスが…)。また別のアイスを置くようにします。ミックスはメーカーにも問い合わせましたが、製造が不可能という回答でした。」

Q:「消費者は串を3本欲しいものです。なので、1本100円は高いです。せめて60~80円がいいですね。(理学・1年院生)」
A:「回答が大変遅くなり申し訳ございません。今回使っている串カツには肉魚以外に野菜も割りと入っているボリュームがある食材を使ったため、若干高めだったかもしれませんが、これでも試験期間のゲンかつぎのための奉仕品として設定した価格です(通常は1本120円の設定です)。ボリュームをかなり落としたものならば80円くらいでご提供できるものがあるかもしれませんので、またフェアをする際には探してみたいと思います」

ちょっとした「人生相談」にもー。
Q:「最近授業が眠いんです。(理学・2年)」
A:「いつもご利用ありがとうございます。自分も学生だった頃(金大出身です)を思いかえすと…そういう時もありましたねえ。特に教養科目で。あの頃はまだ1年~2年前期まで教養学部に所属して、集中的に教養科目だけを履修する時代だったので、集中力を維持するのに苦労した覚えがあります。一時的な解消法ですが、眠気のある時には両方のこめかみを指2本でグッと押さえると取れます。ほんのわずかの間ですが、ぜひ一度お試しあれ。」

手厳しいのは「喫煙問題」ー。
Q:「毒物でもあるタバコを平然と販売することのおろかさを認識された方が良い。生協で販売することは大学にとっても恥でもある。ちなみに医学部では敷地内全面禁煙である。(医学・4年)」
A:「ご意見にあるように、医学部キャンパスは全面禁煙化に伴い販売を中止しました。他のキャンパスや学部では分煙(喫煙スペースを設けている)となっており販売しています。この間、喫煙派・禁煙派双方のご意見を受けて、キャンパス事務局とお話をさせて頂きながらキャンパスや学部毎に対応させていただいています。角間キャンパスでは根強い喫煙派の方も多く、現段階では販売中止に至っていません。基本的には大学の意向に沿って協議をしながら進めさせていただきます。」

  責任の所在を明らかにするため回答文の末尾には実名が記載されているが、「自在コラム」では省かせてもらった。生協利用者のさまざまな声にきちんと文書で対応していて、その表現が対話として成立しているという感じだ。中でも気の利いた回答をする担当者はちょっとした人気者で、ファンレター風に書かれた意見カードもある。柔軟な発想でクレ-ムをうまく処理する達人たちが生協にいるのだ。

  この「一言カード集」は毎年5月に開催される生協の総代会(会社でいう株主総会)で配布されているが、あとイラストを付ければひょっとして出版物として売れるかも知れない。本のタイトルをちょと刺激的に「生協の店長出てこんかい!」といったふうにでもすれば…。

⇒23日(土)夕・金沢の天気 晴れ
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★権利のクリアランス

2005年07月22日 | ⇒メディア時評
  ことし3月、ライブドアがニッポン放送株をめぐって争奪戦を繰り広げたのはフジテレビの番組コンテンツをインターネットに取り込むためだった。この強烈なメッセージはテレビ業界には「ネット業界による乗っ取り」、インターネットのユーザーには「放送と通信の融合」、一部の政治家には「外資に対する警戒」とさまざまなかたちで伝わった。そして今月に入り、テレビ業界が動いた。日本テレビとフジテレビが相次いでインターネットによる動画配信ビジネスに参入すると表明し、フジは女子バレーボール世界大会の番組をきっかけに録画配信を行った。民放キーの3番目の動きとして20日、TBSがテレビ番組のネット配信とDVD化のための新会社を、ソフトレンタル店「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)と共同で設立すると発表した。

  新聞報道によると、記者会見したTBSの取締役は「番組出演者らの権利処理などの課題解決に向けた議論も進んでおり、積極的に展開したい」と述べた(21日付朝日新聞)。TBSはすでに、CMをとって番組を無料でネット配信するUSENの「GyaO」(ギャオ)にニュースの動画コンテンツを提供しており、配信のノウハウを着々と構築してきた。ある意味で満を持しての記者会見だったろう。

  一方でTBS取締役が「権利処理などの課題解決に向けた議論も進んでおり」とわざわざコメントしたのには背景がある。日本経済団体連合会(経団連)=写真=を調整役とした権利処理の動きが急速に進んでいるのだ。ことし3月に音楽、映画、放送など著作権関連団体と、映像コンテンツ関連の9団体で構成している利用者団体協議会が協議し、「最も権利関係が複雑」とされるテレビドラマのブロードバンド配信の際の使用料率を「情報量収入の8.95%」と合意した。配信による収入が100万円だった場合、8万9500円を著作権保有者に払うとの合意である。内訳はドラマのシナリオライターに2.8%、俳優に3.0%、音楽に1.35%、レコードに1.8%だ。ストリーミング配信を前提とした数字で、来年3月までの暫定ルールとなる。経団連はさらに権利関係者の許諾手続きをスムーズに行うためネット上でシステムを構築し来年度から運用を開始すると今月発表した。「権利のクリアランス」に向けた道筋が見えてきた。テレビ業界が堰(せき)を切ったように動画のネット配信ビジネスに参入すると表明したのはこうした理由からだ。

  芸術・文化とは言え、収益にかかわるこうした権利調整となると文化庁など官僚では仕切れない。権利調整という少々生臭い役回りを経団連が買って出たのは、おそらく政府筋から依頼を受けてのことだろう。実は、経団連とメディアの関係は浅くない。前記のニッポン放送の設立(1954年)にかかわったのが経団連で、当時副会長だった植村甲午郎氏がニッポン放送の社長に就く。植村氏は後に日本航空社長になる人である。また、海外メディアの特派員に対し取材のサポートを行っているフォーリン・プレスセンター(FPC)は経団連と日本新聞協会とが共同出資でつくった財団法人(1976年設立)だ。これは意外と知られていない。

  民放の黎明期、海外メディアの窓口、そして放送とインターネットを結ぶための著作権処理と時代のニーズに応じてメディア業界にその存在感を示してきたのが経団連だった。メディアだけではない、産業界の「仕切り役」なのである。

⇒22日(金)朝・金沢の天気   曇り
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☆「メディアと極東ロシア」講義録

2005年07月21日 | ⇒メディア時評
  金沢大学教養課程で講義を行った(7月19日)。テーマは「メディアと極東ロシア」。1992年1月にロシアのウラジオストクが対外開放され、テレビを中心とする日本のメディアが続々と極東ロシアに取材拠点を構えた。ところが、2000年を境に潮が引くように撤収を始めた。このメディアの動きは一体何だったのか、極東ロシアのこの15年の動きとリンクさせながら、その謎解きを行った。以下は90分の授業で講義の要約。テキストはちょっと長い…。

                 ◇

 初めに、日本のマスメディアが極東ロシアに眼を向けるにいたった経緯について、それまでの主な時代の流れについて、簡単におさらいをしておきましょう。1979年から始まります。この年、イスラム原理主義が勢力を伸ばしていたアフガニスタンでは、ソ連のコントロールのもとにあった政権があやしくなってきた。そこでソ連のブレジネフ書記長は政権を支えるために大規模な軍事介入に踏み切ります。いわゆる「アフガン侵攻」です。このアフガン侵攻は西側に衝撃を与え、翌年はモスクワでオリンピックがありましたが、日本を含む西側諸国のボイコットが相次ぎました。1981年にアメリカ大統領となったのは元映画俳優のロナルド・レーガンです。彼は「強いアメリカ」を標榜していました。そして、アフガンに駐留を続けるソ連を「悪の帝国」と名指しで非難したのです。いまのブッシュ大統領は「悪の枢軸」という表現を使っていますが、当時は「悪の帝国」が流行っていたわけです。そして、レーガンはソ連を意識して大規模な軍事拡大路線に走っていきます。その代表的なものが、「スター・ウォーズ計画」と呼ばれたSDI(戦略的防衛構想)です。

  ちなみに、ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」の初めての上映は1977年ですから、アフガン侵攻の2年前です。アメリカ人にとって、おそらくこのSDI計画は映画のように分かりやすかったでしょう。巨大な宇宙ステーションから発するレーザー光線でソ連のミサイルをたたくのだというイメージが真っ先に浮かんだと思います。この意味で、アメリカのペンタゴン、国防総省はこの映画を最大限に政治的に利用したといえるでしょう。

  こうした一連の流れがあった1980年代前半を「新・冷戦の時代」ともいいます。この新しい冷戦の構造が、逆にソ連とアメリカに対話を促すことになります。アメリカの過剰な軍事拡大路線は2兆ドルともいわれた国家財政の累積赤字を生み出すことになります。ここでレーガンは政策転換を余儀なくされ、ソ連との対話を再開することによって軍事費を抑制しようとします。ソ連もまた、アフガン侵攻で膨大な戦費が費やされ、国家財政が破綻寸前に追い込まれていました。こうして、1986年、お互いに困っていたアメリカとソ連の首脳がアイスランドのレイキャビックで会うことになります。アメリカはレーガン、ソ連はあのペレストロイカ(立て直し)を掲げたゴルバチョフでした。会談はうまくいかなかったのですが、両首脳がなんとか顔を合わせた。これだけでも随分と歴史的なこととなりました。そして、1989年11月、東西ドイツのあの「ベルリンの壁」が崩壊します。翌月の12月、地中海のマルタ島で、当時のアメリカのブッシュ、いまのブッシュ大統領のお父さんですが、と、ソ連のゴルバチョフが会談して、「東西の冷戦の終結」を宣言するわけです。このマルタ宣言では、長らく滞っていた戦略兵器削減条約(START)の早期解決が合意され、GATT、いわゆる関税貿易一般協定をはじめとする西側の経済システムにソ連を組み入れることも話し合われました。過去の軍備拡大のツケの清算だけでなく、ソ連の未来まで決めてしまった、そんな意義ある会談だったわけです。

  ゴルバチョフはこのマルタ会談の翌年1990年にノーベル平和賞をもらいます。おそらく有頂天だったと思いますが、それもつかの間、彼の人生とソ連という国、そして歴史が大きく変わります。1991年8月19日、ソ連の大統領となっていたゴルバチョフですが、改革路線に反対して昔ながらの共産党支配の復権をもくろむクーデターが身内から起こります。クリミア半島の別荘にいたゴルバチョフを、副大統領ヤナーエフ、首相パブロフ、国防のヤゾフら側近がゴルバチョフを軟禁して、非常事態国家委員会を宣言したのです。

  これに対し、この年の6月にロシアの大統領に当選していたエリツィンがクーデターへの抵抗を市民に呼びかけます。ロシアの共和国庁舎にたてこもるわけです。そして、クーデターを起こした側は強硬手段をとることができずに、2日後の21日にはあっけなくクーデターは失敗します。この事件をきっかけに、ゴルバチョフの時代が終わり、エリツィンの時代の幕開けやってきます。まず、エリツィンによって、ロシア共産党禁止の措置がとられ、ついで、ゴルバチョフがソ連共産党中央委員会の解散を勧告するわけです。これは、事実上の共産党の解体宣言となります。そして、その年の12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシーの3つの共和国の首脳がベラルーシーのブレストで会談し、ソ連が国際法上、その存在を停止したことを確認するわけです。つまり、ソビエト連邦が消滅し、現代史から消えた瞬間でした。

  ここからが本題です。激動したソ連の中央での動きをウオッチし、極東ロシアへの進出のタイミングをうかがっていたのが日本のマスメディアでした。ソ連が消滅した翌月、つまり1992年1月にウラジオストクが対外開放されます。では、それまではどうだったのかと言いますと、ウラジオストクにはロシア太平洋艦隊の司令部があり、外国人の立ち入りが厳しく制限されていた、いわゆる閉鎖都市だったわけです。隣国であり、地理的に日本に近かった極東ロシアですが、実はベールに包まれていたのです。

  その「ニュースの未開の地」に真っ先に乗り込んだのは日本のメディアではNHKでした。ウラジオストクの開放から4ヵ月後の5月には支局を開設しています。一番乗りというのは、幸運にも恵まれるもので、NHKが支局を開設した途端に、ロシア太平洋艦隊の弾薬庫が爆発するという大きな事故がありました。これをNHKは大々的に流しました。もちろん現地にもロシアのテレビ局はありますが、もし、対外開放されていなければわれわれ日本人が知ることができなかったニュースだったのかもしれません。

  この事故をもうちょっと詳しく説明しますと、ウラジオストクにある弾薬庫が爆発事故を起こしたというニュースはその後3日間も日本を始め、世界を駆け巡りました。極東ロシアの弾薬庫の爆発がなぜ世界的なニュースになったかというと、実は弾薬庫に保管されているであろう化学兵器に爆発が及んだ場合にはとんでもない事態になると予測されたからです。幸いにしてそうはならなかったものの、いくつかの問題を日本に問いかけることになりました。一つには、ロシアが遠い対岸の国ではなく、わずか800㌔の距離、空を飛んで2時間足らずで手が届く隣国であることに日本人がリアリティーを持って気づかされたこと。二番目に、ソビエトの崩壊と同時にロシア極東軍の士気の低下が他人事ではなく、日本の日常も脅かしかねないことが、「環日本海」をめぐる草の根の交流や、ビジネスチャンスの到来という明るい側面が大いに盛り上がっていた時だけに、冷戦時代には見えなかったいわゆる「影の部分」が見事に見えるようになったわけです。われわれは今後、この国とどのように付き合えばよいのかということを、われわれのお茶の間にも問題提起をした。あえて、言うならば、そのようなことを具体的に浮かび上がらせたのがこの爆発事故だったのです。

  では、実際に極東ロシアにどのようなマスメディアが拠点を構えたのでしょうか。テレビから行きます。一番早かったのが先ほどのNHKです。92年5月にウラジオストクに開設しています。次いでテレビ朝日系列のネットワークである北海道テレビ放送がちょっと遅れはしたものの、民間放送では初めてその年の7月にウラジオストクに開設しました。TBS系列の北海道放送は当初、93年にユジノサハリンスクに開設しましたが、95年にウラジオストクに支局を移転しています。移転した理由はあとで説明します。そして、日本テレビ系列のテレビ新潟が94年3月にウラジオストクに支局を開設しています。これだと、日本の民放の4大ネットワークの中でフジ系列がないのですが、ここはフジ系列の北海道文化放送が91年にモスクワに特派員を派遣し、ここから随時、極東ロシアの取材をカバーするという体制を組んでいます。

  今度は新聞ですが、全国紙や通信社で極東ロシアに支局を置いた新聞社はありませんでした。北海道新聞は「ブロック紙」と呼びますが、ユジノサハリンスクとハバロフスクに特派員を置きました。そして、中日新聞北陸本社は現地の通信員と契約し、定期的に記事を送ってもらっています。「います」というのは現在も続いているからです。

  このように見ますと、テレビが新聞より積極的に極東ロシアの取材をしているようにも思えます。これは新聞が消極的、あるいは怠けているということではないのです。実は、メディアの手法の違いです。簡単に言いますと、新聞は活字ですから、映像はなくてもよい。ロシア内部での第一級の情報がほしい、権力闘争にかかわる内部情報がほしい。すると限りなく権力機構に近づこうとします。ですから、権力と情報が集中するモスクワに陣取っていた方が便利となるわけです。そして極東ロシアはその都度、モスクワからカバーすればよいというふうになります。これが、全国紙や通信社のスタンスだったわけです。ただし、同じ新聞でも北海道新聞は極東ロシアは北海道の交流圏であり経済圏であるとの発想で、ユジノサハリンスクとハバロフスクの2ヶ所に特派員を置きました。北海道新聞、現地では「道新」と呼びますが、北海道とロシアは同じ地平線上にある、そんな取材の視点があるのではないでしょうか。

  一方、テレビ局はまず映像がほしい、それもスクープ映像がほしい、これまでどのテレビ局も紹介したことがない人々の暮らしや街の様子をテレビカメラで撮影したい、との欲求があります。しかし、モスクワからウラジオへは9000㌔も離れています。いざ何か事件が発生しても映像が間に合わなくなる可能性がある。そこで、極東ロシアに常駐のカメラマンを置いておこうと発想するわけです。もちろん、系列テレビ局のキー局がそれぞれモスクワに局を構えていますので、ある意味で、地域的にバランスのとれた適正な配置といえます。同じマスメディアでも、活字の新聞と映像のテレビでは、発想にこれだけの違いがあります。その考え方がくっきりと浮かび上がったのが極東ロシアにおける支局の配置でもあるわけです。

  もうひとつ注目したいのは、それでは、極東ロシアにはハバロフスクという都市もあるのに、なぜウラジオストクにテレビ局が支局を設置することにこだわったかというと、実は理由があります。先に紹介したTBS系列の北海道放送は当初、93年にユジノサハリンスクに支局を置いて、2年後の95年にウラジオストクに支局を移しています。その理由は、当時の日本の国際通信会社であるKDDなどが出資して、「ボストーク・テレコム」という会社をウラジオストクにつくります。実際のサービスの運用開始は93年の暮れになります。このおかげで、日本と極東ロシア間の国際電話だけではなく、取材したテレビの映像を通信衛星で伝送することが可能になったのです。

  それでは、極東ロシアではどのようなニュースが発信されたのでしょうか。ウラジオストクは軍隊の規律が緩んでいて、先ほども紹介した爆発事故などさまざま事件が起きていました。その象徴的な出来事が、軍による弾薬の横流しです。犯罪組織だけでなく市民の生活にまで影響が出ていました。たとえば、ナホトカの市場では子供が持っていた手榴弾が爆発して6人が死亡したり、ウラジオストクのバスターミナルで夫婦喧嘩に爆弾が使われたりと、横流しされた爆弾がらみの事件や事故が多く発生しました。

  また、インフレも凄まじいものがありました。91年、モスクワの地下鉄の運賃は5カペイカ、つまり、100分の5ルーブルでした。ところが、その5年後の96年になると1000ルーブル、1500ルーブルと数万倍にもなりました。また、インフレで経済社会が混乱すると、マフィアという犯罪集団がウラジオストクをはじめ各地で幅を利かせ始めます。当時、ウラジオオストクだけで、500ものマフィア集団があり、なかでも有名なのがロシア人による「セントラル」や、中国人系による「キタイスカヤ」といった5つの大きなグループが覇権を争っていました。ちなみに、北海道テレビが支局で使っていたのはトヨタのランドクルーザーですが、当時、地元のマフィアとも同じランドクルーザーを使っていたことから、取材のスタッフは必ず車の床下を覗き込んで爆弾が仕掛けられてないかチェックしたそうです。

  2000年、プーチンが大統領になって、ロシア全体の政治と経済が安定し、極東ロシアの治安や経済も徐々に回復してきます。すると、かつて、「ニュースの未開の地」として日本のマスメディアが一斉に乗り込んだ極東ロシアも、存在感が薄れてきます。すると、こんどは極東ロシアからのメディアの撤退が始まります。2000年4月には日本テレビ系のテレビ新潟、続いて同じく6月にはテレビ朝日系の北海道テレビ、そして、TBS系の北海道放送も翌年の9月にウラジオストクから撤退します。北海道新聞もユジノサハリンスクに取材拠点を一本化します。テレビ局で拠点を構えているのはNHKだけとなりました。

   こう見てみますと、日本のメディアはご都合主義だなと、政治や経済の混乱がなければ、さっさと撤退か、とそう思われる人も多いと思います。しかし、実は、日本のTVメディア側にも大きな問題があったのです。それは、ロシアではなく日本国内の経済的な混乱とでもいいましょうか、足元に火がついた状態になります。それは、97年暮れごろから顕在化した、山一證券や北海道拓殖銀行の破綻に見られる金融不安です。しかし、この時点では、まだ日本のマスメディアはまだ強気でした。金融不安があったにせよ、携帯電話やインターネット関連のあたらしい産業が好調で、テレビ業界の売上は落ちていなかったからです。ところが、翌年98年の夏ごろに、為替相場が急激に円安にぶれてきます。95年の夏には1㌦80円台だった為替相場が98年には140円台にまで円安になってきました。

  私はそのころローカル民放の報道制作部長として、系列全体のニュース基金を検討する立場にありました。その時の論議を振り返ってみますと、ニュース基金が運用難に陥ったのは、ニュース基金の支出の実に47%、半分ぐらいがドル建ての支払いになっていて、円安にぶれた為替相場の影響をまともに受けていました。これは他の系列局のニュース基金も同じ事情でした。そこで、次に出てきた論議が、円安は当面続くだろう、ニュース基金を防衛するために、ドル建て支払いと直結する海外支局のリストラをしようという論議に展開していったのです。そして、2001年までにはシドニー、ベルリン、ウィーン、香港、そしてウラジオストクといった海外支局が次々と統廃合されました。

  では、なぜ、ウラジオストクがリストラの候補上げられたかというと、先ども言いました、ロシア全体が政治的にも経済的にも安定してきた、テロ事件や事故は相変わらず多いものの、弾薬の大爆発といった政情不安に結びつく混乱はなくなった、普通の国になってきたというのがその理由だったと思います。そして、ちょうどその時期とあわせたように、日本における金融不安、円安または日本はこの先どうなるのかという、ニュース全体が内向きの傾向になってきた、そんなタイミングで極東ロシアからメディアが引いていったのではないかと思います。

  私は今回のテーマの冒頭で、極東ロシアにおける日本のマスメディアの動向を探ることによって、極東ロシアと日本のことがよく分かるといいましたが、いま考えてみますと、ひょっとしてテーマは逆だったのかもしれません。「極東ロシアから見えた日本のメディア」と表現してもよかったのかもしれません。

※ 授業後半は、元北海道テレビ放送ウラジオストク支局長の中添眞氏を交えてトーク

⇒21日(木)夕・金沢の天気  晴れ
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★プリンストン大生からの礼状

2005年07月20日 | ⇒キャンパス見聞
  達筆というより丁寧な字である。おそらく日本のペン習字でトレーニングを積んだに違いない。去る6月30日、アメリカのプリンストン大学で日本文化を学ぶ学生45人が金沢大学角間キャンパスの創立五十周年記念館「角間の里」を訪れ、金沢大の学生と交流した。先日、彼らからお礼状をもらった。私あてではない。餅つきやいろいろをお世話をしてくれた里山メイト(市民ボランティア)に対してである。以下、外国人学生が書いた礼状の文面である。


  「拝啓 梅雨に入り、あじさいの花がきれいな季節になりました。先日、私達プリンストン・イン・石川プログラム(PII)の学生四十五人は金沢大学を訪れた間、色々お世話になりまして、どうも有難うございました。現在、我々PIIの学生は日本にまいりまして、日本語を学習したり、日本の社会や伝統的な文化を体験したりしております。皆お漬け物などの日本料理が大好きですけれども、その作り方を教えていただいたり。おもちつきをしたりしたのは金沢大学を訪ねて初めてでした。お陰様で、金沢大学の学生達と交流するのも、日本の文化を一層に深く理解するのも、できるようになりました。皆様のご健康やお幸せをお祈り致しております。 敬具」

   文面通りに書いた。「てにをは」の間違いは許せる。短文ながら何の目的で来日し、日々どのような活動をしているのか、金沢大学での交流はどうだったのか、というポイントをきちんと押さえた文章である。手書きだから、緊張感も伴っただろう。

   想像するに、「お世話になった方々にお礼状を出さなければ日本のルールに反するのではないか」と彼らが話し合い、誰かが叩き台となるテキストを書いて、何人かが精査し、そして一番「達筆な人」が書いた。そのような共同作業のプロセスを経て、この礼状は書かれたのであろう。その証拠に、たとえば、第一人称では「私達」「我々」「学生四十五人」の表現が使われ、言葉の繰り返しを見事に避けている。一人で書いた文面はどうしても言葉の繰り返しがあるものだ。おそらく、「言葉の繰り返し表現は避けよう、日本語の文章表現のルールに反するのではないか」との意見で手直しされた、そのような共同作業の痕跡が文面から読み取れる。だからどうだ、と言うことではもちろんない。

⇒20日(水)午前・金沢の天気 晴れ   
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☆デジタルアーカーブの勃興

2005年07月18日 | ⇒ランダム書評

  ブログが全盛期だ。では、その先、あるいは次に来るものは何か、それはデジタルアーカイブではないか…。そう予感させる本が「デジタルアーカイブの構築と運用」(笠羽晴夫著・水曜社)だ。なぜそう思うかというと、デジタルアーカイブはとても日本人の性格に合ったジャンルだからだ。今回は、それを解きほぐしてみる。

   笠羽氏は財団法人デジタルコンテンツ協会の研究主幹で、著書では日本のデジタルアーカイブの現状を手引書ふうにまとめ、分かりやすく解説している。それによると、アーカイブ(archives)はもともと公文書や古文書保管所、文庫などの意。これが転じて、記録・整理の活動など広意義に使われている。テレビ映像では「NHKアーカイブス」が知られ、過去に放送した番組をストックしておき、タイムリーに再放送する、といったイメージがある。デジタルアーカイブはその記録保存を静止画、動画、音声のデジタル手法で取り込んだものである。

   具体的に言うとデジタルアーカイブとは何か。笠羽氏はこんな分かりやすい例を上げている。週刊「明星」の50年分の表紙601枚をデジタルで保存することはもちろん可能である。それを年代順に並べてみると「芸能の顔」の50年史が読めてくる。つまり、人によってはノスタルジーという感情もさることながら、日本における芸能史、景気循環と芸能の傾向など、学問分野への切り口や発想も生まれてくるのではないか。50年というスパンと601枚の表紙から湧き上がってくるイメージはそれほど奥深い。

   問題点もある。それだったら個人がストックしている「明星」の表紙をアーカイブしようと個人がヤル気になってアップロードしてもこれは著作権や肖像権に引っかかり難しい。芸能人に求める許可と肖像権、それに撮影者・出版社に対する著作権をクリアする時間とコストを勘案すると個人では不可能に近い。しかし、アーカイブの対象が自分で集めた昆虫標本や雲の写真、先祖代々が持っているコレクションなど著作権を離れたものだったら可能性は大いにある。

   私が冒頭で「日本人に性格に合っている」と言ったのは、いろいろなジャンルのコレクターが日本人には多いからだ。ブログのように、アーカイブ用のテンプレートが立ち上がれば、そうした日本のマニアックな土壌とマッチして、ネット上で私設資料館や博物館、ミュージアムのサイトがどんどんと生まれてくるに違いない。その延長線上に、貴重な写真や映像のコピー販売といったビジネスも見えてくるはずである。

   著書では、すでに作家の死後50年を経て著作権がフリーとなった小説などをネット上で公開している電子図書館「青空文庫」などを事例として紹介している。ここを読んだだけでも、多種多様なデジタルアーカイブの可能性が具体的なイメージとして浮かび上がってくる。

⇒19日(火)朝・金沢の天気  くもり      

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★球児の夢、松井のドラマ

2005年07月16日 | ⇒ニュース走査
 季節には風物詩というものがあって、7月の梅雨が上がるか上がらないかの微妙なこの時期は何と言っても、夏の高校野球ローカル大会をイメージする。きのう15日開幕した第87回全国高校野球選手権石川大会は順調に行けば、決勝は27日だが、見どころとすると夏の連覇をめざす遊学館、あるいは春夏連続での甲子園出場をめざす星稜か。

   メイン球場は石川県立野球場。きのうの日中の金沢の最高気温は31.3度、球場のグラウンドはそれより2、3度高い。筋書きのないドラマはいつもこの炎天下で繰り広げられる。ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手は1992年(平成4年)、3年の時にこの球場で満塁ホームランを放ち、星稜は4年連続11度目の甲子園出場を果たす。意気揚々として乗り込んだ甲子園大会の2回戦で物議をかもした「連続5敬遠」(対明徳義塾戦)があり、高校野球ファンでなくても松井選手を知ることになる。松井選手のあのドラマの書き出しは県立野球場で始まっていたのだ。

   53校のトーナメント表(4ブロック)を眺めていると、「この学校はいつもくじ運がいいな、このブロックだとベスト8かも」とか「この学校とこの学校は相性が悪いから、潰し合うな」などと試合展開のイメージが不思議と浮かんでくるものだ。高校野球の面白さは、こうした「読み」が当たるかどうかの醍醐味でもある。

   とは言え、27日に決勝、52校は敗れ去る。中にはボロ負けのコールドゲームもあるだろう。そこで、高校球児に贈る言葉を探した。マリナーズのイチロー選手は「負けている中でも粘りがないと、次の可能性は見えてこない」と口癖のように言うそうだ。最後までチャンスを狙うマインドが大切だ、との意味だろう。そして松井選手の父親、昌雄さんはこう言って息子を育てた。「努力できることが才能なんだ」と。逆説的な言い回しだが、勝者も敗者も励ます温かな表現である。

⇒16日(土)朝・金沢の天気  くもり
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