悲報に慣れるな、ニュースに流されるな、希望をつなごう
その年から29年たった2011年は、東日本大震災による被災や外国為替市場での歴史的な円高水準の定着、世界的な景気後退など、日本の経済を圧迫する不安材料がいくつも重なった。当然、投資家の心理も冷え込み、株価を押し下げた。欧州の財政危機の長期化懸念も広がっている。
先月(11月)15日、担当するジャーナリズム論で、北陸銀行の高木繁雄頭取に講義をいただいた。題して「私の新聞の読み方」。その中で印象に残るシーンがあった。経済学者アダム・スミスの『道徳感情論』(1759年、グラスゴー大学の講義録)を引き合いに出して、一文(日本語訳文)を頭取が読み上げたのだった。
「いま中国の大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。そして、かかる地球の一角になんら関係のないヨーロッパの人道の士が、この恐るべき災害の報に接してどのように感ずるかを考察してみよう。ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難にたいして強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。さて、すべてこうした哲学がひと段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、今宵は寝もやられぬであろう」
この一文に耳を傾け、「中国の大帝国」を「日本」に置き換えれば現代でも通用する、実に分かりやすいたとえとなる。人類というのは災害など悲報に接し、哀悼し自らのこととして麗しく道徳的な感情になる。ただ、それはいったん語り終えられると、その道徳的な感情は長続きはしない。私の身の回りでも、2007年3月に能登半島地震があり多くの家屋が倒壊し海外ニュースにもなった。ただ、今はそのことすら思い出せない人々が多い。高木頭取が言いたかったのは、ニュースに流されるなということなのだ。「報道されなくなったからと言って、危機が去ったわけではない。より大きなニュースや事件があれば、結果として報道は偏ってしまう」と。道徳的な感情は流されやすい。だから、自らで手でニュースを探究せよと学生たちに呼びかけたのだ。
我々日本人は悲報に慣れきっているのではないか。これが当たり前だ、と。経済が29年前と同じ水準に戻っても、仕方ないとあきらめるのか。悲報に接してもあすを、来年を良い日、良い年にしようというモチベ-ションを持たねばはあすが続かない。シリーズ「2011ミサ・ソレニムス」をこれで終える。
⇒30日(木)夜・金沢の天気 くもり