自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★文明論としての里山23

2010年04月20日 | ⇒トピック往来

 能登半島の先端にある珠洲市。人口は現在1万7700人、65歳以上の最高齢者率は40%を超えた過疎・高齢化の自治体だ。ここでいま注目を集めているのが、ことし7月24日に全国に先駆けて地上テレビのアナログ波を止めて、デジタル放送へ完全移行するということだ。

           「里の力」と「地デジ」

  夜、能登の農山漁村。玄関の明かりは消えているが、奥の居間でテレビ画面だけがホタルの光りように揺らいでいる家々がある。高齢者の節約は徹底していて、家の明かりをすべて消してテレビだけをつけている。お年寄りにとってテレビは単に寂しさを紛らわせるためだけの存在ではない。喜怒哀楽を織り交ぜながら情報を与えてくれる友なのだ。総務省が2009年度にアナログ停波のリハーサル事業を予算計上しているとの情報を得て、同市は真っ先に手を挙げた。現在、45歳の市長は「2011年7月24日の地デジ完全移行になってお年寄りが困らないように、早めに準備しておきたいという気持ちだった」と言う。

  もともと能登半島は「スイッチを入れればテレビが映る」という状態にはない。北風によるアンテナの倒壊や塩害、山間地による難視聴などさまざまな問題がある。そこへ、今回の地デジである。同市内36地区の区長たちが中心となって、地デジの説明会を開き、地デジ未対応世帯に3800台の簡易チューナーが貸与された。さらに、地区によっては、従来の辺地共聴施設からケーブルテレビへの移行した。また、地デジをアンテナで受信できる世帯とできない世帯が混在する半島最先端の地区は、廃止予定のミニサテの対象地域であることから、区長たちが個別訪問してケーブルテレビへの加入を働きかけた。地デジの普及は個々の家庭だと思われがちだが、もっとも小さなコミュニティー単位、たとえば町内会や集落である。ここが地デジに向けて動かなければ、独居老人宅の地デジ対応や共聴施設のケーブル加入問題などは解決しない。つまり、「地デジ100%移行」は難しいのだ。地デジの現場はここにある。

  本題に入る。行政の指導で地域が積極的に動いたのだろうか。アナログ停波リハーサルに手を挙げ、音頭を取ったのは確かに行政だが、地デジに対して地域がまとまったのは、実は「里の力」(=コミュニティーの強さ)があったからだと考えている。この里の力は祭りのパワーに象徴される。毎年秋になると能登各地の数十世帯の集落で、収穫に感謝して高さ10㍍ほどの奉灯キリコを出す。鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らしながら、このキリコを老いも若きもみんなで担ぎ上げて集落を練る=写真=。この祭りの日には都会に出た若者も帰ってくる。連綿と続いてきた伝統行事である。祭りが人と人の絆(きずな)を紡いでいる。この集落のまとまりのよさが、今回のアナログ停波リハーサルの対応でも発揮されたと思っている。

  そこから見えてくるのは、アナログ停波でむしろネックになるのは人と人の関係性が希薄な都市部ではないのかということだ。集合住宅や受信障害の対策エリアなど複雑な問題解決にリーダーシップを発揮する人々が問題の数だけいるのか、近所の独居老人とは日ごろ誰がコミュニケーションを取っているのか、海外からの移住者はどうか。新たなテレビ文明への移行過程で試されているのはむしろ都会の「里の力」ではないのだろうか。

 ⇒20日(火)夜・金沢の天気  雨

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☆文明論としての里山22

2010年04月17日 | ⇒トピック往来

 「トキ 穴水にきました!」。知り合いの女性からメールが入ったのは16日15時41分だった。電話をすると、「つがい(ペア)で来ていて、地元のケーブルテレビが撮影に成功したらしい」と興奮気味だった。ビッグニュースは地元でまたたく間に広がり、話題が沸騰していたのだろう。ペアで来たというのは事実に反していたが、地元の人がこれだけ興奮するには訳がある。石川県穴水(あなみず)町は本州最後のトキが捕獲された地なのである。

         トキが教えてくれる「里の道」

  1970年1月、能登半島では「能里(のり)」の愛称で呼ばれていたオスが繁殖のため、この地で捕獲された。その後、人工繁殖のため佐渡トキ保護センターに移送された。能里は翌年死んで、本州のトキは絶滅する。当地の人たちにすれば、トキの姿を目にしたのは実に40年ぶりということになる。

  当然、マスメディアのニュースになった。翌日付の紙面からその日の様子を拾ってみる。町役場に知らせた同町曽福の農業Sさん(69)によると、トキは同日午前10時50分ごろ、Sさんの自宅と近い水田でエサをついばんでいた。役場の職員らと一緒に5、6メートルほど近づいたが、怖がる様子は見せず、水田を動き回っていたという。約30分後、カラスの鳴き声に驚いて飛び立ち、独特のトキ色(朱色)の羽を見せて七尾市方面(穴水より南方向)に去っていった。石川県の自然保護課が、環境省に確認したところ、このトキは足輪の色から「個体番号04」のメスの可能性が強い。2008年9月に佐渡で放され、幅40キロメートルの佐渡海峡を越えて、新潟や福島、宮城、山形など広い範囲を移動したあと、富山県黒部市にしばらく滞在していた。3月27日には石川県加賀市にも飛来し話題となった。

  当時の様子からいくつかのことが確認できる。トキは本来、人影を恐れて谷内田、あるいは山田と呼ばれる奥まった田んぼの生き物(カエルやドジョウなど)をついばみにくる、とされていた。ところが、今回、「5、6メートルほど近づいた」が、物怖じしなかったということは、人工繁殖なので野生に復帰しても人影を気にしないということだろうか。もう一つ。カラスの鳴き声に驚いて飛び立ったとある。放鳥以来、トキがカラスに空で追い掛け回されている姿の写真が紙面で掲載されていた(09年1月20日付・新潟日報)。このことからも、トキは適応能力や学習能力が高い鳥だと分かる。

  話はくどくなるが、人影におののかないトキが出現しているというのは、人と生き物の共生という視点で考えるならば、ある意味で歓迎すべきことである。トキはかつて能登半島などで「ドォ」と呼ばれていた。田植えのころに田んぼにやってきて、早苗を踏み荒らすとされ、害鳥として農家から目の敵(かたき)にされていた。ドォは、「ドォ、ドォ」と追っ払うときの威嚇の声からその名が付いた。米一粒を大切にした時代、トキを田に入れることでさえ許さなかったのであろう。昭和30年代の食料増産の掛け声で、農家の人々は収量を競って、化学肥料や農薬、除草剤を田んぼに入れるようになった。人に追われ、田んぼに生き物がいなくなり、トキは絶滅の道をたどった。

  いまその発想は逆転した。トキが舞い降りるような田んぼこそが生き物が育まれていて、安心そして安全な田んぼとして、そこから収穫されるお米は「朱鷺の米」(佐渡)に代表されるように高級米である。人は生き物を上手に使って、食料の安心安全の信頼やブランドを醸し出す時代である。農家も生きる、トキも生きる、そんなパラダイス(楽園)ができないだろうか。

  農薬害について警鐘を発した、レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春~生と死の妙薬~』の中で、このような文がある。「私たちは今、2つの道の分岐点に立っている。・・・私たちが長い間歩んできたのは、偽りの道であって、それは猛スピードで突っ走ることのできるハイウェイのように見えるが、行く手には大惨事が待っている。もう一つの道は、人もあまり通らないが、それを選ぶことによってのみ私たちは、私たちの住んでいる地球の保全をまっとうするという最終の目標に到達できるのである」

  我々が歩むべき道は、化学肥料と農薬にまみれた食料増産という「ハイウェイ」ではない。低価格かもしれないが、そこには「死の妙薬」が仕込まれている。そうではなくて、我々が歩むべきはトキが舞い降りる「里の道」だろう。それは食料問題にとどまらず、自然環境と人との生き方という話にもなってくるからだ。これを言うと、「ハイウェイ」を走る都会の人たちの中には「我々の食料をどうしてくれる」と凄む人もいる。安心安全な食料を得たければ、築地ではなく、どうぞ里に来てください。その目で食料生産の現場を見て、直接仕入れてください。そんなふうに言えばよい。「安全と水と食料はただ同然」という時代はもう終わっている。自己責任で選ぶ時代、生きる道の選択のときがきたのかもしれない。(※写真はトキ、岩田秀男氏撮影=1957年、輪島市三井町洲衛)

 ⇒17日(土)夜・金沢の天気  くもり

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★文明論としての里山21

2010年04月11日 | ⇒トピック往来

 生物多様性、あるいは自然環境の再生、里山と文明論などさまざまな観点から考えてきたこのシリーズを突き詰めれば、「持続可能な社会」とは一体何かということに突き当たる。人が人らしく、地球という自然が自然らしくあり、それを次世代に伝えていく、そんな社会システムとはどんな姿なのだと問いかけている。「未来可能性」と言っていい。

            持続可能社会と「地域主権」

  政権交代で、「地域主権」という言葉がクローズアップしてきた。前政権では「地方分権」という言葉だった。分権という言葉は「分け与える」というお上が権限を払下げるというイメージがあり、現政権では「地域のことは地域で」というという意味合いなのだろう。言葉遊びのような感じもするが、それはどうでもよい。中央政府が「分権だ」「地域主権だ」と言いながら、これほど有権者レベルで上がらない議論もない。なぜか。それはすでに国のミクロなレベルではすでに「自分たちでやっている」という意識があるからだ。つまり、この論議というのは、中央政府と県や市町村との間の権限をめぐる駆け引きの話である。一方で、すでに地域では自治会や町内会で自主的に暮らしにかかわるさまざまな議論をしている。その論議は、「行政に頼ろう」や「国に頼ろう」という論議ではない。いかにしてこの地域をよくしていくか、コミュニケ-ションを絶やさず、お互いを気遣って、どうともに生きていくかの論議である。そんな論議や現場の話し合いの姿をいくつも見てきた。

  能登半島の先端に珠洲(すず)市寺家(じけ)という地区がある。地域振興策として原子力発電所の誘致をめぐって25年余り論議をしてきた。失礼な言い方かもしれないが、実にタフな人たちである。昨年の夏、この地区の伝統のお祭りである、キリコ祭りの「キリコ絵」制作をめぐって、製作者と住民との意見交換の場をつぶさに見せてもらった。長年見慣れてきた伝統的な「キリコ絵」をそのまま制作するのか、あるいは新しいイメージを吹き込んだものにするのかをめぐって繰り広げられてきた話し合いである。原図を担当したのは日展で特選を獲得した日本画のプロである。本来なら、そのような権威のある画家に「お任せ」となると私自身は思っていた。ところが、寺家の住民はキリコ絵に対する思い入れを述べ、伝統的な図柄である観音絵の色使いや線の描き方、背景まで意見を述べる。その言葉に真摯に耳を傾ける画家。地元と画家とやり取りを重ね、ようやくこの4月に完成した。地域の文化を地域が担う、あるいは住民の共同体意識の発露。冒頭に述べた「人が人らしく」とはそういうことなのだろうと思う。

  この能登半島の先端の人たちは記録に残るだけでも万葉の時代から、ずっと地域社会で命を繋いでいる。748年、大伴家持は「珠洲の海に朝開きして・・・」と詠んでいる。持続可能な社会というのは、歴史や伝統文化に裏打ちされ、あるいは新たな歴史や文化を創造していこうとうする「心の遺伝子」が人々に伝えられてこそ可能なのだと考える。それは行政や国家の仕組みとは別次元のものである。

 ⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ

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