自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

★「地デジ」以降‐下‐

2011年07月28日 | ⇒メディア時評

 アナログ停波の日(7月24日)に総務省テレビ受信者支援センター(通称「デジサポ」)への電話相談は12万4000件(0時~24時)と発表された。電話内容の多くは地デジ対応テレビやチューナーの接続方法などで、中には「チューナを買いたいが売っていなかった」といった苦情もあった。NHKのコールセンターには同日4万9千件、停波が延期された東北3県を除く44都道府県の地上民放テレビ115社に寄せられた電話での問い合わせは、24日の業務開始から25日14時の時点で2万1000件と発表されている。相談内容の分析はおそらくこれからされるだろうが、件数でいえばざっと19万余件が寄せられたことになる。この件数をどう見るか。

          アメリカに比べ混乱は少なかったが…

 先のブログで紹介したミラー・ジェームス弁護士によると、アメリカの「2009年6月12日」では当日31万7000件の問い合わせがコールセンターに寄せられたという。地上波をアンテナで直接受信する世帯はアメリカで15%、およそ4500万人。日本では76%(2009年統計)が直接受信なので、およそ9600万人となり、アメリカの2倍以上となる。相談件数で見る限り、少なくとも日本はアメリカより混乱は少なかったといえる。

 相談内容では、アメリカの場合、受信機の使用についてが28%ともっとも多かった。これは日本と同じだ。ただ、日本と違った点は「特定のチャンネルの映りが悪い」26%もあったことだ。これは送信するテレビ局側の技術的な問題だった。

 24日に記者会見した片山善博総務大臣は「想定の範囲内の件数」と述べた。言い換えれば、やれやれと何とかうまくいったとの意味だろう。しかし。問題はこれからだろう。先に述べたように、80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれ、文句も言わないサイレント層がいる。未対応世帯は大都市圏に多いという観測もある。この層をどうケアするのか。

 テレビ局自身もこれからが大変だ。アメリカでは景気後退でテレビ局の経営が行き詰まり、身売りや合併が相次ぐ。記憶に新しいところでは、ことし1月、ケーブルテレビの最大手コムキャストがNBCユニバーサルの経営権を取得したことがニュースで流れた。NBCはアメリカ3大ネットワークの一つである。従来のCMを中心とした地上テレビ局のビジネスモデルだけでは成り立たなくなっている。さらに、アメリカではこうした買収などによるメディア集中の問題が浮上しており、メディアの多様性、市場原理、地域コンテンツをどう確保していくか、「地デジ」以降の問題が山積する。日本も同じだ。地デジが終わったのではなく、始まったのである。

⇒28日(木)朝・金沢の天気    あめ

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☆「地デジ」以降‐中‐

2011年07月26日 | ⇒メディア時評

 2009年6月12日、アメリカは日本よりひと足早く地上デジタル放送(DTV)への移行を終えた。アメリカの地デジ移行はさほど混乱はなかったというのが定評となっているが、果たしてそうだったのか、その後、どうなっているのか。また、日本とアメリカの地デジを比較して何がどう違うのかについて話をしてもらうため、きょう26日、アメリカ連邦通信委員会(FCC)工学技術部の法律顧問であるミラー・ジェームス弁護士を金沢大学に招き、メディアの授業に話してもらった。以下、講義内容を要約して紹介する。

        アメリカの「2009年6月12日」

 アメリカではケーブルテレビやBS放送の加入者が多く、アンテナを立てて地上波を直接受信している家庭は全体の15%とされていた。人口でいえば4500万人の市場規模となる。そのアメリカでは「2009年2月17日」がハードデイト(固い約束の日)として無条件に地デジへ移行する日と決められていた。これに合わせ、2008年元旦から、商務省電気通信情報局(NTIA)がデジタルからアナログへの専用コンバーター購入用クーポン券の申請受付を始めた。政府は40ドルのクーポンを1世帯2枚まで補助することにした。2009年に入り、クーポン配布プログラムの予算が上限に達してしまい、230万世帯(410万枚分)のクーポン申請者が待機リストに残こされるという事態が起きた。

 オバマ大統領(当時は政権移行チーム)は連邦議会に対して、DTV移行完了期日の延期案を可決するように要請した。同時にDTV移行完了によって空くことになる周波数オークションの落札者だったAT&Tとベライゾンの同意を得て、4ヵ月間延期して「6月12日」とする法案が審議、可決された。FCCの定めた手続きでは、「2月17日」の期限を待たずにアナログ放送を打ち切ることができるため、この時点ですでにアメリカの1759の放送局(フル出力局)の36%にあたる641局がアナログ放送を停止していた。

 オバマの「チェンジ!」の掛け声はFCCにも及び、スタッフ部門1900人のうち300人ほどが地域に派遣され、視聴者へのサポートに入った。ミラー氏は2008年11月から地デジ移行後の7月中旬まで、カリフォニア州北部、シアトル、ポートランドに派遣された。その目的は「コミュニティー・アウトリーチ」と呼ばれた。アウトリーチは、援助を求めている人のところに援助者の方から出向くこと。つまり、地域社会に入り、連携して支援することだ。

 ミラー氏自身が地元のテレビ局に出演して、地デジをPRしたり、家電量販店に出向いて、コンバーターの在庫は何個あるのか確認した。また、ボーイスカウトや工業高校の学生が高齢者世帯でUHFアンテナを手作りで設置するボランティアをしたり、NGOや電機メーカーの社員がコンバーターの取り付けや説明に行ったりと、行政ではカバーしきれないことを地域が連携してサポートした。そうした行政以外の支援を活用するコーディネーションも現地で行った。

 ボーイスカウトや高校生、メーカー社員も参加して「地デジボランティア」が繰り広げられた。アメリカの場合は移民が多く、多言語である。英語以外の言語(スペイン語、ロシア語、中国語など)に堪能な大学生たちはコールセンターで待機し、移民の人々から相談対応に当たったという。アメリカではアメリカなりのさまざま対応があった。

 2009年6月12日以降、アメリカで地デジ未対応は貧困層を中心にあったものの、同年7月いっぱいでクーポンの配布も終了した。では、アメリカでアナログ放送は完全に視聴できなくなったかというとそうではない。宗教団体や自治体が独自に電波を出す低出力テレビ(LPTV)がある。このLPTVも2015年9月1日に停波が決まっていて、この日がアメリカにおける「地デジ完全移行」となる。

※写真は、移民者への地デジ説明の様子(ミラー氏提供)

⇒26日(火)夜・金沢の天気   はれ

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★「地デジ」以降‐上‐

2011年07月25日 | ⇒メディア時評
 7月24日、アナログ停波の日。東北の被災3県(岩手、宮城、福島)を除く44都道府県で、NHKと民放115社、BSアナログ放送(NHKとWOWOW)のアナログ放送での番組が正午12時でブルーバックに切り替わり、午後11時59分に地上アナログ放送の電波、その1分前にBSアナログ放送の電波のスイッチがオフになった。後は砂嵐状態に。

        サイレント層へのケア
 25日付の新聞報道によると、24日未明から同日午後6時までに総務省のコールセンターには9万8千件の電話相談や苦情があった。NHKには午後8時までに3万1千件、民放各社には午後7時までに1万6千件、まとめると14万5千件に上る。

 24日午後4時からNHK・民間放送連盟(民放連)による記者会見があった。月刊ニューメディアの吉井勇編集長からのメールレターによると、「12時以降に電話が殺到しましたが、時間を経るに従い、通常の範囲のコールになった」(松本NHK会長)、「心配していた混乱もなく、しっかりとした対応をいただいた」(廣瀬民放連会長)とメディア側は、地デジに向けた最大の転換であるアナログ停波が無事に成し遂げたということに安どの表情を浮かべた。

 問題は、電話をかける人ではなく、電話をかけないサイレント層である。目に浮かぶのは、「テレビはついているだけでいい」という独り暮らしのお年寄り世帯だ。たとえば、能登地方の夜道を歩くと、玄関や居間の電気は消され、テレビの画面だけがまるでホタルの光のようにポツンとついている様子が窓越しにうかがえる。80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれている。文句も言わず、細々と生きている。気がかりなのはこうした層である。民生委員の手でチューナーは届けられているかもしれないが、はたしてうまく設置させているだろうか。特に都市部は「無縁社会」という言葉もあるように、お年寄りの死すら気づかれないほどに人々の関係性が希薄である。

 テレビは単に電波政策上ではなく、お年寄りの福祉という観点でとらえる必要がある。このブログで何度か書いたが、昨年7月24日に全国に先駆けてアロナグを停波した能登半島・珠洲地区ではこうしたお年寄りの単身世帯を中心に街の電器屋がローラーをかけてチューナーを取り付け、リモコンの操作説明をした。4回も通ってようやくリモコン操作が可能になったお宅があった、との話も聞いた。このような手厚いケアが全国でなされたのだろうか。

⇒25日(月)夜・金沢の天気 くもり
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☆アナログ停波の日に

2011年07月24日 | ⇒メディア時評
 きょう24日正午にアナログ放送が終わった。深夜零時には停波する。NHKも民放も正午を期して一斉に「ご覧のアナログ放送の番組は本日正午に終了しました」のテロップをブルーバックで掲載している。アナログ放送終了の瞬間を家族で見守った。そして、ブルーバックになったのを見届けて、ワインで乾杯した。新しいデジタルの夜明けにではなく、ちょっとノスタルジックに「アナログ放送お疲れさま」と。

 私が生まれた1954年の1年前に日本のテレビ放送は開始した。1926年に高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を映すことに成功し、日本のテレビ映像の黎明期が始まった。1929年、すでに開始されいたNHKラジオの子供向けテキストに「未来のテレビ」をテーマにしたイラストが描かれた。当時、完成するであろうブラウン管は丸いカタチで想像されていた。東京オリンピック(1940年に予定していたが日本が返上)を目指してテレビ開発は急ピッチで進んだが、戦時体制に入り中断した。高柳博士の成功から28年かかってテレビ放送は開始されたことになる。

 テレビ放送は開始されたが、国産テレビはシャープ製(14インチ)で当時17万5000円もした。大卒の初任給が5000円の時代で、庶民には高根の花だった。そこで、テレビは街頭に出た。ちょっとした街の広場にテレビが置かれ、帰宅途中のサラリーマンがプロレス中継など観戦した。テレビが急激に普及したのはミッチーブームのおかげだろう。現天皇皇后両陛下のご成婚である。美智子さまは当時、ミッチーと庶民から愛され、当時の皇太子は「語らいを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」と和歌をよみ、お二人のラブロマンスが共感を呼んだ。このころ日本経済は高度成長期と称され、テレビが爆発的に売れる。1962年には1000万台(普及率50%)の大台に乗った。

 かつてのテレビ映像でいまも脳裏に焼き付いているは、1964年の東京オリンピック、とくに東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールである。当時、スローVTRが挿入され、その活躍ぶりには心を躍らされた。先般の女子サッカー「なでしこジャパン」の活躍とイメージがだぶる。1969年、アポロ11号のアームストロング船長が月面に第一歩を記したとき、私は中学3年生だった。テレビは38万キロ先の月面の画像をリアルタイムに映し出していた。今年いっぱいで番組が終了する水戸黄門が始まったのも1969年だった。1983年にNHKで放送された「おしん」のストーリーは60ヵ国以上で放送されているという。山形の寒村に生まれたヒロインが、明治から昭和まで80余年を懸命に生きるた人間ドラマ。外国人も涙を流すという、人類の共通の涙腺はとは何か。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロも、テレビ朝日「ニュースステーション」の途中ライブ映像で見た。一機目の衝突は事故だろうと思った。二機目が衝突して身震いした。これがテロか、と。

 日本や世界の出来事の断片をテレビで知り、そして脳裏に現代という歴史を刻んできた。それぞれの感性は異なるだろうが、テレビ映像は同時代の共通の話題やアイデンティティになった。そして私もかつて「テレビ屋」で14年間業界に籍を置いた。アナログ放送が終わりワインで乾杯したのも、ドラマ、スポーツ中継、ニュース、情報番組、バラエティ番組を通じてさまざまな情報(映像)を届けてくれたアナログ映像の向こう側にいるテレビスタッフの姿に感謝したかったからだ。

⇒24日(日)夜・金沢の天気   はれ
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