自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

★メディアのツボ-56-

2007年06月30日 | ⇒メディア時評

 3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートなどの調査を行った。総じて、メディアの記者やカメラマンを見つめる被災者の目線は厳しいものがあることは前述した(6月24日付「震災とメディア・その3」)。今回の「震災とメディア・その4」では私自身の体験を紹介したい。

          震災とメディア・その4 

 震災の翌日(26日)に輪島市門前町の被災地に入った。能登有料道路は一部を除いて通行止めとなった。「下路(したみち)」と呼ぶ県道や市道など車で走って3時間50分かかった。金沢大学から目的地は本来1時間50分ほどの距離だ。被災地をひと回りして、夕方になり、コンビニの看板が見えたので夕食を買いに入った。ところが、弁当の棚、惣菜の棚は売り切れ。ポテトチップスなどスナック類の菓子もない。店員に聞いた。「おそらくテレビ局の方だと思うのですが、まとめて買っていかれましてね」との返事だった。

  震災の当日からテレビ系列が続々と入ってきた。記者とカメラマンだけではない。中継スタッフや撮影した映像を伝送するスタッフ。さらに、新聞社、雑誌社なども入り込み、おそらく何百人という数だったろう。このコンビニは門前地区で唯一のコンビニだ。震災当日は商品が落下したため、片付けのため閉店したが、翌日は再開した。メディアの記者たちも「人の子」、腹が減る。生存権を否定するつもりはない。ただ、「買い占めはなかったのか」と問いたいのである。実は、新潟県中越地震(04年10月)でも同じような現象が起き、住民のひんしゅくを買っているのだ。

  28日に被災者宅の救援ボランティアに入った。学生たちと倒れた家具などの後片付けを手伝った=写真=。割れたガラス片などが散乱していたので、家人の了解を得て、靴のまま上がって作業をしていた。すると、何人かのカメラマンが続いて入ってきて、作業の様子を撮影した。われわれと同じように靴を脱がず取材をしていった。が、「共同通信」の腕章をしたカメラマンが靴を脱いで上がってきたので、「危ないですよ」と声をかけた。すると、「大丈夫、気をつけますから」と脱ごうとしなかった。そして帰り際に、「ボランティアお疲れさまです」と声をかけて、去っていった。それまでのカメラマンとは物腰が異なるので印象に残った。

  後日、共同通信金沢支局のN支局長とある会合で話をする機会があり、この話をすると、さっそく調べてくれて、Iカメラマンと分かった。Iカメラマンに興味がわき、教えてもらった先に後日電話をした。突然の電話の事情を話すと、I氏もわれわれのことを覚えていてくれていた。「あす(6月27日)からアメリカ・大リーグに取材に行く」という。被災地でのボランティア経験があるのかと尋ねると、「ない」といい、ただ、これまで阪神淡路大震災、新潟県中越地震、スリランカの大洪水など災害現場で取材した経験があり、「被災者の気持ちに立った取材を心がけている」という。「私はふてぶてしくないれないタイプかもしれない」と淡々と。

  プロは場数を踏んで「ふてぶてしくなる」のではなく、経験を積んで「謙虚になる」のだ。受話器を置いた後で、そんなことを思った。

※写真:金沢大学の学生ボランティアによる被災住宅の後片付け=輪島市門前町道下・3月28日 

⇒30日(土)午後・金沢の天気  くもり

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☆メディアのツボ-55-

2007年06月24日 | ⇒メディア時評

 あす25日で能登半島地震から丸3ヵ月である。被災地での調査を終えて思うことは、高齢者だけでなく、誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。問題はそうした被災者にどう情報をフィードバックしていく仕組みをつくるか、だ。その中心的な役割をメディアが果たすべきと考えるのだが、実行しているメディアはこれまで述べたようにごく一部である。メディア関係者の中には、「メディアはもともと『社会の公器』だから、日々の業務そのものが社会貢献である。だから特別なことをする必要はない」と考えている人も多いのではないだろうか。

             震災とメディア・その3

  聞き取り調査の中で、輪島市門前町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。

  もちろん、報道の使命は被災者への情報のフィードバックだけではないことは承知しているし、災害状況を全国の視聴者に向けて放送することで国や行政を動かし、復興を後押しする意味があることも否定しない。  今回のアンケート調査で最後に「メディアに対する問題点や要望」を聞いているが、いくつかの声を紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

  ある意味の「メディアスクラム」(集団的過熱取材)を経験した人もいる。同町の区長である星野正光さん(64)は名刹の総持寺祖院近くで10数席のそば屋を営む。4月5日に営業再開にこぎつけた。昼の開店と同時にドッと入ってきたのは客ではなく、テレビメディアの取材クルーたちだった。1クルーはリポーター、カメラマン、アシスタントら3、4人になる。3クルーもやって来たから、それだけで店内はいっぱいになり、客が入れない。そこで1クルーごとに時間を区切って、順番にしてもらったという。「取材はありがたかったが、商売にならないのではどうしようもない」と当時を振り返って苦笑した。

  こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンのみなさんに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。

 ※写真:心の和みになればと被災地の子供たちに切り花をプレゼントする金沢の市民ボランティアのメンバーたち=輪島市門前町・3月28日

 ⇒24日(日)夜・金沢の天気  あめ

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★メディアのツボ-54-

2007年06月23日 | ⇒メディア時評

 震災の翌日(3月26日)から避難所の入り口には新聞各紙がドッサリと積んであった。新聞社の厚意で届けられたものだが、私が訪れた避難所(公民館)では、避難住民が肩を寄せ合うような状態であり、新聞をゆっくり広げるスペースがあるようには見受けられなかった。そんな中で、聞き取り調査をした住民から「かわら版が役に立った」との声を多く聞いた。そのかわら版とは、朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」だった。

             震災とメディア・その2

  タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。

  救援号外の編集長だった記者から発行にいたったいきさつなどについて聞いた。救援号外は、2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行したが、当時は文字ばかりの紙面で「無機質で読み難い」との意見もあり、今回はカラー写真を入れた。だが、1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。「これでは被災者のモチベーションが下がると思い、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた」という。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。

 念のため、「本紙県版の焼き直しを掲載しただけではなかったのか」と質問をしたところ、「その日発表された情報の中から号外編集班(専従2人)が生活情報を集めて、その日の夕方に配った。本紙県版の生活情報は号外の返しだった」という。

  カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、金沢総局で編集したデータを送って「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。

  地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

※写真:避難所の入り口には新聞が積まれてあったが、被災者が新聞を広げるだけのスペースはあったのだろうか=輪島市門前町の避難所・3月26日

 ⇒23日(土)午前・金沢の天気   はれ

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☆メディアのツボ-53-

2007年06月22日 | ⇒メディア時評

 ことし3月25日の能登半島地震は死者1人、300人以上の重軽傷者を出す惨事となった。入梅したものの、今でもまだ青いビニールシートで覆われた屋根が能登のあちこちに見える。被災地の大きな特徴は、メディアとの接触機会が少なく「情報弱者」とされる高齢者が多い過疎地域ということだった。被災者はいかに情報を入手し、情報は的確に到達したのだろうか・・・。そんな思いから金沢大学震災学術調査に加わり、「震災とメディア」をテーマに調査活動を進めてきた。中間報告であるものの、調査から浮かび上がってきたことを述べたい。

           震災とメディア・その1

   震度6強に見舞われ、能登半島全体で避難住民は2100人余りに及んだ。多くの住民は避難所でテレビやラジオのメディアと接触することになる。ここで、注目すべきことは、門前町を含める45ヵ所のすべての避難所にテレビが完備されていたことだ。地震で屋根のテレビアンテナは傾き、壊れたテレビもあったはず。一体誰が。

  この「テレビインフラ」を2日間で整えたのはNHK金沢放送局だった。翌日26日から能登の全避難所45カ所を3班に別れて巡回し、アンテナなどの受信状態を修復し、さらにテレビのない避難所や人数が多い避難所には台数を増やし、合計12台のテレビを設置した。用意周到だったのは、昨年5月に金沢放送局では災害時に指定される予定の避難所にテレビが設置されているかどうか各自治体に対し予備調査を行っていた。このデータをもとにいち早く対応したのである。

  NHKは報道機関では唯一「災害対策基本法」が定める国の指定公共機関であり、災害報道と併せハード面のバックアップは両輪である。が、それだけではない。金沢放送局はこんなアフターフォローも行っている。地震が起きたのは3月の最終週に入る日曜日とあって、被災者から連続テレビ小説「芋たこなんきん」の最終週分を見たいとの要望や、大河ドラマ「風林火山」を見損ねたとの声があり、著作権をクリアにした上で、要望があった13カ所の避難所に収録テープを届け、またビデオの備えがない7カ所にビデオデッキを届けた。こうした被災者のニーズを取り入れた細やかな活動があったことはテレビ画面からは見えにくいが、避難住民を和ませたことは想像に難くない。

  ようやくたどり着いた避難所にテレビがなく、情報が入らなければ余計に不安が増す。この点をNHKがきっちりとカバーしたのである。さまざまな批判がNHKに対してはあるものの、災害対応では評価されてよい。

 ※写真:テレビは避難住民の有力な情報源だった=輪島市門前町の避難所、3月26日

 ⇒22日(金)夕・金沢の天気  あめ

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★続「塩釜のビジネスモデル」

2007年06月17日 | ⇒トピック往来

 加賀藩には徴税能力に長けた知恵者がいた。当時貴重品だった塩釜=写真=は、塩士(しおじ)と呼ばれる能登の製塩業者に13年の分割払いで貸付けられた。つまりリースされたのである。

  1年のリース代は米ベースで5斗(0.5石)だった。13年のリースのうち、藩が6年分を、鋳物師が7年分を分け合った。加賀藩は6年分を徴収する代わりに「諸役免除」と、運転資金となる「仕入銀」を与えた。13年のリース切れのものは塩士に払い下げられた。この「塩釜リース」は江戸時代初期の慶長10年(1605)には塩釜835枚、中期の元文2年(1737)年には塩釜2000枚が貸し付けられたという内容の古文書(複製)も展示されている。膨大な量の塩を独占した加賀藩は余剰となった塩を、相場をにらんで大阪に回した。

  面白いのはこのリースというビジネスモデルを中居の鋳物師たちは独自に応用し、「貸鍋(かしなべ)」という、自作農民を相手にした鍋のリース事業を展開する。「1升鍋」のリース代は米1升(1.8㍑)、2升鍋は米2升で無償修理とした。鍋釜は高根の花だったのである。これが当たってビークで3000枚の鍋リースを事業展開する。鍋だけで中居には100石の米が集まった。いまでいうコピー機の製造メーカーが事業所にメンテナンス付でリースするのとよく似ている。

  塩釜や鍋のリース事業のほか、寺社向けの梵鐘の製造販売、武具や金具の製造など産地形成がなされたものの、ある意味で官業に付随し、安穏と利益を得たツケはいずれ回ってくる。技術イノベーションへの取り組みが遅れるのである。中居が製造していた塩釜は「十鍔釜」(形太釜)と呼ばれ、底が深く、熱伝導が悪いものだった。同じ加賀藩の高岡鋳物で生産された浅釜は直径が長く、平底だったので格段に熱伝道がよかった。そこで、能登の塩釜はこの高岡釜に取って代われる。元文2年(1737)には2000枚を誇った貸付物件は、明治12年(1879)に600枚と激減している。明治以降、中居の鋳物職人たちは高岡産地などに吸収されていく。昭和9年(1934)に300年余り続いた塩釜リース事業を終えたとき、51枚になっていた。

  藩政時代、米1石は武士の1年の生活給の目安だった。加賀百万石というのは100万人の武士を雇える財力ということである。その租税はこうした、加賀藩によってハンドリングされた塩士や鋳物師、農民の労働の結晶でもあった。

  これでコラムを終わっては「中居の鋳物物語」はさみしい。中居の鋳物の伝統は消え去ってしまったのか。いや、いまに生きている。天正9年(1581)、初代の加賀藩主である前田利家は、中居から一人の有能な鋳物師を金沢に呼び寄せ、禄を与えて武具などの鋳造を行わせた。宮崎義綱(みやざき・よしつな)だった。その子・義一(よしかず)は、加賀藩に召し抱えられた茶堂茶具奉行の千宗室仙叟によく師事し、茶の湯釜の制作を学び、多くの名作を残す。仙叟から「寒雉(かんち)」の号をもらい、加賀茶の湯釜の創始者として藩御用釜師のステータスを得る。その技術は現在も代々脈打つ。「寒雉の釜」はいまも茶人の垂涎(すいぜん)の的である。

 ⇒17日(日)午前・

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☆「塩釜のビジネスモデル」

2007年06月16日 | ⇒トピック往来

 鍋(なべ)を枚数でカウントするということを知らなかった。これまで、一つ、二つ数えていたのではないだろうか。先日、ぶらりと訪れた石川県穴水(あなみず)町の「能登中居鋳物館」でそんな小さな発見をした。

   鋳物館に入ると、ちょっと衝撃的な光景を目にすることにもなる。高さ268㌢の鋳物製の一対の灯篭(とうろう)が倒れ、あたりに散乱している=下の写真=。もともと明泉寺という近くのお寺の灯篭で、町指定文化財だ=上のパンフレト写真=。ことし3月25日の能登半島地震は造りがしっかりとしたこの建物を激しく揺さぶった。案内の女性は「痛々しいので早く補修していたのですが・・・」と申し訳なさそうに話した。でも、ある意味で、震災アメモリアルとしてこのまま保存しておいてもよいのではないかと思ったりもした。自然に倒れたのではない。能登の震災の歴史を刻んで倒れているのである。

  穴水町中居(なかい)という集落は江戸時代中ごろ、鋳物の生産が盛んで40軒ほどの鋳物師(いもじ)がいたとされる。この周囲には真言宗など寺など9ヵ寺もあり、それだけの寺社を維持する経済力があった。2003年7月に開港した能登空港の事前調査でおびただしい炭焼き窯の跡が周辺にあったことが確認され、当時、ニュースになったことを思い出した。つまり、鋳造に使う炭の生産拠点が近場で形成されていた。そして原料となる砂鉄や褐鉄鉱などが能登一円から産出され、中居に運ばれた。その技術は14世紀、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し南北朝の動乱に巻き込まれた河内鋳物師が移住したともいわれるが定かではない。

  資料館での展示品でひと際大きい釜が並んでいた。直径1.6㍍ほどで底は浅い。塩釜(しおがま)と呼ばれ、塩づくりに用いられた、と説明が書きがあった。驚くのは、ピーク時には2千枚もの塩釜が生産され出回ったこと。その行き先は。加賀藩は慶長元年(1596)に、農民救済のために「塩手米(しおてまい)制度」をつくり、耕地の少ない能登で農民に玄米1石(※1石は約180㍑)を貸し与え、塩4.5石を納めさせたといわれる。この制度はその後、藩による塩の専売制度(寛永4年=1627)のベースになる。中居の塩釜はこの制度とリンクしていた。(続く)

 ⇒16日(土)午後・金沢の天気   はれ

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★「ホワイトシンドローム」

2007年06月13日 | ⇒キャンパス見聞

 その光景を見て、一瞬、季節はずれの雪かと錯覚した。エゴの木の白い花が一面に落ちていた。通い慣れた道でこれまで気にならなかったのに、今年は異常に花が多かったということか。

  地球温暖化のせいか、沖縄県の石垣島と西表島の間にある日本最大のサンゴ礁「石西礁湖(せきせいしょうこ)」で、「ホワイトシンドローム」と呼ばれる原因不明の病気が急速に広がり、新たな脅威となっているという(6月12日付・読売新聞インターネット版)。水温上昇の影響でサンゴの体から植物プランクトンが逃げ出す「白化現象」がそれ。

  金沢大学角間キャンパスで見た光景は、植物がさしづめ壊(え)死するという白化現象ではない。が、今年は異常に白い花が目立つという意味で、さしずめ「里山のホワイトシンドローム」と仮に名づけてみる。エゴの木ほかに、この季節はノイバラの白い花も例年に比べ異様に目立つ。

  少々ジャンルは異にするが、モリアオガエルのボールのような白い卵塊(らんかい)が今年は例年に比べ多いな気もするが、同僚の研究員の見立ててでは例年と同じくらい。そして、エゴの木も確かに去年は少なかったが、おととしは多かった、とか。ということは「里山のホワイトシンドローム」は気のせいか…。

  ことし3月17日にアル・ゴアの映画「不都合な真実」を見て以来、さして根拠のないことまで、何かにつけ地球温暖化現象と結びつけて考えてしまっているようだ。

 ⇒13日(水)午後・金沢の天気  くもり

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☆「巨大な1曲なんだよ」

2007年06月11日 | ⇒ドキュメント回廊

 6月13日は指揮者、岩城宏之さんの一周忌である。岩城さんのことは昨年の訃報以来、「自在コラム」で何度か書かせいただいた。

  最近、岩城さんが指揮したベートーベンの交響曲3番「エロイカ(英雄)」を聴いている。2005年12月31日にベートーベンの1番から9番までを演奏したチクルス(連続演奏)をCS放送「スカイ・A」が生放送したものを私的録音で時折、視聴している。番組の合間に岩城さんが曲を解説するコーナーがある。「ベートーベンはナポレオンの革命的行為を礼賛して、この曲をつくった。しかし、ナポレオンが皇帝になって、いやけがさして曲名を差し替えた」のがエロイカだと。当初の曲名は「ボナバルト」だったといわれる。

  ベートーベンは体制のイノベーター(改革者)としてのナポレオンに共感していた。共和制の守護者だったナポレオンが打ち出した政策は、キリスト教に対するアンチテーゼでもある「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものだった。ベートーベン自らも師匠のハイドンに教えを請いつつも、独自色を交響曲に取り入れた。3番で音楽史上初めて、シンフォニーのホルンを3本にし、5番でトロンボーンを(最終章)。そしてついに9番に声楽を取り入れる。当時は「禁じ手」だった。音楽史上のイノベーターだった。

  ナポレオンの思想は自ら皇帝になり、1804年の「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典で結実していくのだが、皇帝という権力者になったことに、ベートーベンはナポレオンの野心を見透かしてしまう。そして上記のように改題してしまうのである。ベートーベン、34歳。

  番組では岩城さんはこのように解説をしながら1番から9番を指揮していく。私は当時、経済産業省「コンテンツ配信の実証事業」のコーディネータ-としてかかわった関係で、東京芸術劇場大ホールで演奏を見守っていた。演奏を放送と同時にインターネットで配信していた。解説は収録だったが、演奏はライブである。岩城さんのすさまじいエネルギーは舞台裏でも伝わってきた。

  番組では指揮者を顔を映し出している。ディレクターは朝日放送の菊池正和氏。その菊地氏の手による、1番から9番のカメラ割り(カット)数は2000にも及ぶ。3番では、ホルンの指の動きからデゾルブして、指揮者・岩城さんの顔へとシフトしていくカットは感動的である。ベートーベンの3番におけるイノベーションがホルンであることを熟知していて、ホルンをここで聴かせる意味を存分に見せている。味わい深い番組なのである。

  1番から9番までを指揮者した感想を岩城さんは別の番組でこう述べている。「ベートーベンの1番から9番は個別ではそれぞれ完結しているんだけれど、連続して指揮してみると巨大な1曲なんだよ」(北陸朝日放送「岩城宏之 人生振るマラソン」2006年6月23日放送)。こんな壮大なスケール感のある番組は、「次の岩城さん」を待たなければつくれない。

⇒11日(月)夜・金沢の天気  くもり 

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