ことしもクマが出没する季節になりました。クマは雑食性の猛獣ですので、人間とは共存できませんが、棲み分けがきるよい知恵がないものかといつも思います。去年の話ですが、クマに関するエピソードをいくつか見聞きしました。
去年10月、金沢市の山のふもとの集落で柿の木に登っているクマが発見され、行政から射殺の依頼を受けた猟友会のメンバーが駆けつけました。メンバーから聞いた話です。クマは見るからに痩せていて、一心不乱に柿の実を食べていました。すぐ撃ってもよかったのですが、「せめて腹いっぱい柿を食べさせてから」と思い待ちました。お腹がいっぱいになり、木から降りてきたところでズドンと銃声が響きました。死んだクマに駆け寄ってみると、クマの目に涙がにじんでいました。
クマが里に出没すると人の対応もさまざまです。去年の秋、富山県はクマに襲われ負傷した人が22人(去年10月時点)にもなりました。同じ北陸でも石川と福井は負傷者が一ケタに止まりました。クマに追いかけられて取っ組み合いとなったり、棒やカマで反撃したりとなかなか気丈な人が多いのが富山県です。私が新聞で見た限り、クマと「格闘」した最高齢は富山県上市町の77歳のおばあさんでした。
ちなみに、金沢大学のオフィスで机を並べている女性は北海道でヒグマの調査をしてきた人です。彼女によると、北海道のヒグマは北陸のツキノワグマより体が大きい分、人の「死亡率」も高いとか。クマと出合ったら反撃せずに逃げるのが一番だそうです。
何年か前、軍事ジャーナリストの田岡俊次さんの講演が金沢であり、「今の日本は江戸幕府時代の加賀藩と同じだ」との言葉が印象的でした。講演の要旨はこうです。東西の冷戦に終止符が打たれ、西側の代表アメリカが名実ともに世界のナンバー1となりました。これは、天下分け目の戦いといわれた関が原で東軍が勝って、徳川家康が幕府という統治機構を築いたことと重なります。加賀の前田利家は豊臣側にくみし、しかも、病床の利家は、見舞いに来る家康を「暗殺せよ」と家臣に言い残し亡くなるのです。遺言は実行されませんでしたが、「謀反の意あり」と見抜かれ、利家の妻・まつは江戸で人質となり、その後も加賀藩は百万石の大藩でありながら外様大名の悲哀を味わいます。日本も太平洋戦争でアメリカに宣戦布告して、4年後に占領統治されます。いまだに国連憲章の「旧敵国条項」は生きています。
前田家は、徳川家の警戒心を解くことに腐心しました。このため、自らの金沢城に臨戦時の司令塔となる天守閣は造りませんでした。また、三代藩主の利常は、江戸城の殿中でわざと鼻毛を伸ばし、立ち居振舞いをコミカルに演じたことは地元石川ではよく知られています。ここまでやって加賀藩は300年続いた幕藩体制を生き抜いたのです。田岡さんの「日本は加賀藩と同じ」という論拠は、地元では実に理解しやすい話なのです。
ODAをせっせと貢ぎ、ゴールデンウィークも返上で各国を根回しに歴訪する小泉さんの姿はまさに、かつての加賀藩主の姿に思えてなりません。
業務提携を望む流れがテレビ局側にあるというのは、地上波のデジタル化で経営サイドあるいは制作現場にはある種の閉塞感があるからだ。ハイビジョン、高音質、データ放送、携帯電話向け放送などデジタル放送の機能は多様であるが、「視聴者は果たしてデジタル化を望んでいるのか」「技術的には可能でも、莫大な投資が将来の重荷になるのではないか」などデジタル化の先が見通せない。2006年までに終えなければならないデジタル化のその後のビジネスモデルや番組モデルをどのように構築するか、これはテレビ業界が等しく悩んでいることなのである。ましてや、2004年の日本の広告費で、インターネットとラジオが並んだ(電通調べ)となると、ラジオを兼営しているテレビ局にとっては死活問題ともなっている。テレビ業界がインターネット業界と業務提携し、デジタル化後の活路を見いだすというのは自然の流れなのである。
すでに、IT企業が配信するブロードバンド(高速大容量)放送に、著作権などをクリアした上で番組を提供したり、携帯電話インターネットのコンテンツ制作会社に出資したりと、着々と手を打っているテレビ局もある。フジテレビとライブドアの業務提携が本格的に進めば、ほかの系列局も雪崩を打ったようにパートナー探しを始めるに違いない。株式の買収劇に目を奪わたが、本筋はテレビメディアの業態を大きく変えるエポックメーキングと捉えたい。
埴原氏は、古人骨の研究に基づいた日本人の起源論が専門。とくに、弥生人は縄文人が進化したものではなく、南方系の縄文人がいた日本列島に北方系の弥生人が渡来、混血したことによって、日本人が成立したとする「二重構造モデル」を打ち立てたことで知られます。
話はここからです。私は、埴原氏から指摘された話をこれまで何度となく宴席で使わせてもらいました。顔や骨格からルーツを探る話は、結構受けるのです。話の締めに「DNAを調べもらって、同じ遺伝子を持つシベリアの遠い先祖の村々を訪ねてみたいと本気で考えています。ところで、あなたも私と体や顔の骨格が似ているから、いっしょにどうですか」とダメ押しすると笑いも取れます。これで30分ぐらいは楽に座持ちがするのです。しかも、これで、「目が細く、耳が寝ている」私の顔も随分と覚えてもらいました。
そのキャンパスの中で私が気に入っているのは、「角間渓谷」と勝手に名付けている石積みの滝です。これは自然の滝ではなく、人造の滝ですが、おそらくキャンパスを造成した時、当時の関係者は「滝が流れる大学」を意識したと思います。それほど力が入っている(=経費がかかっている)造形なのです。この滝を眺めながらバーベキューをすると格別かも知れません。
築280年のオフィス、そして渓谷の眺望、広がる自然林。このような環境の中で、大学の持てる知的な財産を地域社会にどう還流させていくを考える…。これは人生に二度とないチャンスだと実感しています。
そこで、きょうはこの古民家の説明を簡単にします。旧白峰村(現・石川県白山市)の地元に伝わる話として、家は記録されているだけで築280年なのですが、それ以前は越前(福井県)にあったそうです。間口14間(25㍍)・奥行き6間(11㍍)、建面積83坪のどっしりとした造り。特に、家に入るとむき出しになった黒光りする棟木に家の風格というものを感じます。かつて養蚕農家だったこの家は3層構造でしたが、大学では2層にし、2階部分を一部吹き抜けにしました。
写真は客間に当たり、さらにこの奥が仏間でした。これらのスペースを大学ではセミナー室などに利用することにし、すでに法学部や経済学部のゼミなどに使われています。この仏間ですが、白峰地方では浄土真宗が盛んで、大きな仏間のことを「道場(どうじょう)」と呼んでいたそうです。ここに人々が集い、仏教を学ぶ拠点としたのです。ですから、この家はもともと学び舎としての「宿命」を背負っていた、と私は思いをめぐらせています。
何しろ、白山ろくの風雪に耐えて280年、手取ダムの水底に沈む危機にさらされたとき、地元の村の文化財として移築、残りました。そして金沢大学のキャンパスに今年4月に再度移築しました。幾度も蘇生する丈夫さ、危機を乗り超える運の強さは「国宝級」ではないかと、この家を眺めながら思うのです。
コーディネーターの誘いがあり、この古民家を初めて見たとき、「やってみよう」と決断しました。圧倒的なその存在感に心がぐらりと揺れたのです。今この家を実際にオフィスとして使って、あと100年ぐらいは風格を保ちながら耐えるのではないか思っています。しかし、六本木ヒルズがあと100年持つかどうか、私には分かりません。
ことし1月にテレビ局を退職し、4月から金沢大学の「地域連携コーディネーター」という仕事をしています。大学にはさまざまな「知的な財産」があって、それを社会に還流させていこうというのがその趣旨です。一口に「知的な財産」と言っても、それこそ人材や特許など有形無形の財産ですから、それを社会のニーズに役立てようとすると、そのマッチング(組み合わせ)は絡まった細い糸をほぐすような作業である場合もあります。この事例については差し支えない範囲で紹介していきます。
ところで、「よくテレビ局を辞めたね。もったいない」とテレビ業界の仲間や友人から言われます。私自身、以前から「50歳になったら人生を見直す」と公言してきましたので「想定の範囲」なのですが、周囲からは奇異に見えるかもしれません。まず、性格的に言って、一つの仕事を最後まで務め上げて云々というタイプではありません。幼いころから寄り道や道草、よそ見が好きでよく親に心配をかけました。
それともう一つ、50歳という年齢です。人生の折り返し点で、ニワトリのように強制換羽(きょうせいかんう)が必要なのです。ニワトリは卵を産み始めてから8ヶ月ほどで卵の質が落ちてきます。この時点で、絶食させられます。毛が抜け、衰弱したところでエサを豊富に与えると、また、良質の卵を産むようになるのです。人もまた同じ仕事を続けているといつか周囲が見えなくなったり、アイデアが枯渇したり、その延長線上に嫉妬、やっかみが出てくるのです。それは人生の劣化の始まりです。その年齢が50なのです。そのとき、「家族が大切…」と言いながら現状を続けるのか、収入減を家族に理解してもらい別の道を歩むのか、それぞれの選択です。私の場合、後者を選んだというわけです。