自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

★インターネットの巨大隕石論、その後

2019年10月15日 | ⇒ドキュメント回廊

   自宅近くにあった大型書店が閉店し、コンビニエンスストアになった=写真=。これまで利用してきた書店だけに、「長い間のご愛顧に感謝しますとともに、皆様にご不便ご迷惑をおかけしますこと、心よりお詫び申し上げます。」と書かれた貼り紙が心寂しい。76年の老舗デパートの閉店も最近あった。既存の販売システムがインターネット通販などに押されて姿を消す現象が北陸でも顕著になってきた。

   「インターネットの巨大隕石論」は、ソニーの元会長、出井伸之氏が20年も前に述べたたとえだ。6500万年前、メキシコのユカタン半島に落ちた巨大隕石が地球上の恐竜を絶滅させたといわれるように、インターネットを現代の産業社会に落ちた隕石にたとえた。ネットが流通やメディアなど既存産業にも打撃を与え、ネット社会に対応した改革が出来なければ、いずれ絶滅する。出井氏のたとえをそのように解釈している。冒頭で述べた大型書店の閉店はその光景をイメージさせる。    

   新聞・テレビのマスメディアも同じ光景になるのか。アメリカの現状は想像を超える。アメリカではネットへの広告費のシフトが急速に進み、2008年のリーマン・ショック以降、212の新聞が廃刊になっている。新聞記者も激減した。1990年代に5万6千人とされたが2014年には3万8千人に減った(アメリカ連邦通信委員会=FCC)。「取材の空白域」や「メディアの過疎地化」といった現象がアメリカ各地で起きている。2010年7月、カリフォルニア州ベル市の不正給与問題は「空白域」で起きた事例として知られる。新聞だけでなく、ネット動画配信が普及したアメリカでは視聴者によるコードカッティング(Cord Cutting)と呼ばれる「テレビ離れ」が深刻で、テレビ業界の経営が危ぶまれている。

   FCCは2017年7月、地域におけるテレビ局と新聞社の兼業を禁止するメディア法の規制緩和に踏み切った。これによりテレビ局と新聞社のM&A(合併・買収)で、取材網の共通化やネット事業への投資など多様なメディア展開が可能となった。アメリカにおける既存メディアは生き残りへ必死の戦いを繰り広げている。

   日本のメディアの現状はどうか。元毎日新聞役員の河内孝氏が2007年に日本外国特派員協会で講演した「Lonesome Dinosaurs(ロンサム・ダイナソーズ=寂しげな恐竜たち)」をネットで知り、著書『新聞社-破綻したビジネスモデル』(新潮社、2007)を購入した。部数至上主義で走ってきた新聞ビジネスがネットの時代に立ち行かなくなる理由を克明なデータをもとに解析したものだった。12年経って現状はどうか。確かに、新聞各社は広告収入も部数も徐々に落ちてはいるが、宅配によって新聞の販売収入でなんとか経営的には維持している。

   ネットで読むニュースの情報源の多くは新聞とテレビの既存メディアだ。既存のメディアがなくなれば、フェイクニュースがあふれる、まさに暗黒の世界になる。アメリカが先行している、新聞社とテレビ局とのM&Aへの動きを日本でも始めるべきではないだろうか。民放テレビでは、系列のテレビ各局を傘下に入れる放送持株会社があるが、共倒れになる可能性もある。生き残りをかけた取材網の共通化やネット事業への共同参画といった点で、テレビ局と新聞社のM&Aが必要ではないだろうか。

⇒15日(火)夜・金沢の天気     くもり

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☆台風の最中、正常化の偏見

2019年10月12日 | ⇒ドキュメント回廊

    きょうは朝から雨風が絶え間なく吹き寄せている。金沢では午後から相当荒れそうだとTVニュースで報じているので、緊張する。午前中に7都県の140万人以上に避難指示や勧告が出され、9月の台風15号の被害を受けた千葉県市原市では竜巻によって住宅が倒壊するなどの被害が出ているようだ。窓から外庭を見つめていると、ムクゲの花が一輪咲いているのに気がついた。風で花が散ってはもったいないとの衝動にかられ、ハサミをもって風雨の庭に出て、小枝ごと切ってきた。

    ムクゲは、白の一重花に中心が赤い、いわゆる底紅(そこべに)という種類だ。茶道の三千家(表、裏、武者小路)の祖とされる千宗旦が好んだことから、「宗丹木槿(そうたんむくげ)」とも呼ばれる。アカジクミズヒキとともに活け、和室の床の間に飾る=写真=。ムクゲは早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまうことから、花の命は短く、「ムクゲ花、一日の栄」と茶席では言ったりもする。私自身はムクゲはたくましい花だと感心している。花一輪は短命でも、次から次と咲き続け花期が長い。ただ、きょう摘んだ花は最後の一輪かもしれない。

    以下は勝手な解釈だ。千宗旦が好んだとされる底紅はそのたくましさにあるのではないか。宗旦は千利休の孫にあたる。利休が豊臣秀吉から切腹を命ぜられ、利休の先妻の子・道庵と後妻の子・小庵は地方に逃れる。京に戻ったのは数年後で、徳川家康や前田利家らが取りなした。小庵は秀吉から利休の遺品を下賜され、京の千家の後を継ぐ。道庵も京に戻り、利休の出身地である堺の千家を継ぐが、道庵の没後に絶えてしまう。秀吉の没後、小庵は家康に仕えて、その後、小庵の子・宗旦に千家を譲る。それぞれは短命ながら、必死に茶道を継いできた。そうしたファミリー・ヒストリーを宗旦は底紅にイメージを重ねたのかもしれない。

   ブログを綴っているうちに風雨がさらに強くなってきた。ニュースでもよく使われるようになった防災用語に「正常化の偏見」や「正常性バイアス」という言葉がある。目の前に危険が迫ってくるまで、その危険を認めようとしない人間の心理傾向、あるいは危険を無視する心理のことを指すようだ。ということは、台風の最中に庭に出て、花をめでようとする行為はまさに正常化の偏見の極みか。

⇒12日(土)午後・金沢の天気   あめ

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★『人間到る処青山あり 極鮨道』

2019年08月12日 | ⇒ドキュメント回廊

   昨夜(11日)は金沢のすし屋に入った。サザエのつぼ焼きから始まって、藻塩(もじお)を少しふってつまむバイ貝、アジの炙(あぶ)り、甘エビ、マグロ、アナゴと海の幸が彩りよく次々と出てくる。新鮮な素材と、店主のスピード感ある包丁さばきや握りの技術、そして6人掛けの小さなカウンターが絶妙な食の空間を醸し出す。

   カウンター向こうの壁に『粋』と墨書の大額が飾られている。その右下に『人間到る処青山あり 極鮨道』と。店主に、「じんかんいたることろせいざんあり すしどうをきわめる」と読み方を確かめると、「そうです。ほとんどのお客さんは『にんげん』と読まれますが、『じんかん』で正解です」と。世の中どこで死んでも青山(墳墓の地)はあるから、夢を達成するためにあえて郷里を出る。鮨道(すしどう)を極める。店主自らの書である。

   店主はもともと千葉の出身で、東京銀座の寿司店で修業を積んだ。金沢は縁もゆかりもなかったが、旅行で訪れた金沢の近江町市場に並ぶ魚介類の豊富さと鮮度の高さに惚(ほ)れ込んだ。すし屋として独立するなら金沢でと決めて単身で移住した。『人間到る処青山あり 極鮨道』は自らの決意の書でもある。北陸新幹線金沢開業の1年後の2016年3月開店にこぎつけた。しかし、金沢で「鮨道」を極めるには超えなければならない難関が待っていた。開店仕立てのころ、江戸前の銀シャリの味が金沢の食通の人に馴染まず、酢の配合が定まるまで試行錯誤の日々だったという。

   この話を聞いて、人間到る処青山ありの意味は単なる場所の移動ではなく、専門分野の技術革新(イノベーション)と解釈できないだろうかと直感した。専門分野に自らが閉じこもるのではなく、その専門性をベースにして広い視野に立ち、自らの可能性と生き様を追求する。江戸前の技術で北陸の食材を輝かせ、これまで金沢では味わえなかった「すし文化」を醸し出している。

   店主が秋田の日本酒を出してくれた。「美酒の設計」という銘柄で、酒米「山田錦」を55%まで精米した純米吟醸だ。透き通るような香味と洗練された酒質はまさに「上善(じょうぜん)水の如し」をイメージさせてくれる。そしてネーミングがいい

。試行錯誤を繰り返しながら美酒を醸すことに苦心しただろう。それをあえて気取らずに、醸造という科学の成果との意味を込めて「美酒の設計」とした心意気が、この店の雰囲気とも調和する。実に楽しい夜だった。

⇒12日(祝)朝・金沢の天気    はれ

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★松本で国宝二つ、そば一つ

2019年07月08日 | ⇒ドキュメント回廊

   北陸新幹線で長野駅に行き、それから在来線で1時間ほど。松本駅に着いた。松本城をゆっくり見学したいとの思いにかられ、東京出張の折、予定を変更した。

   松本城は400年余りの風雪に耐えた国宝である=写真・上=。黒門をくぐり天守閣に入る。鉄砲蔵で火縄銃など見ながらさらに上階へ。斜度61度の急階段は袴姿の殿様も大変だったろうなどと想像しながら天守6階にたどりついた。ここは周囲を見渡す「望楼」で、さらに天井には城の守り神「二十六夜神」が祀ってあった。権勢を誇る城というより、常在戦場を心得る場だったのだろう。

   それにしても感心したのは天守閣の床や階段が磨き上げられていることだった。ボランティアガイドのシニア男性に尋ねると、市内の中学生や市民が年に10数回集い、床を糠袋を使って磨いているそうだ。市民が誇りに思い、愛される城なのだと実感した。

   もう一つ国宝を訪ねた。松本城の近くにある「開智学校」だ。令和に入り、文化庁が答申した。1876年(明治9年)の建設。漆喰塗りの外壁を持つ2階建ての屋根上に八角形の塔を載せたデザインで、まさに洋風と和風の伝統意匠を織り交ぜた建築物だ=写真・中=。当時の学校建築としては先駆的で画期的だったろう。校舎は1963年(昭和38年)まで、実際に小学校として使われていた。展示品も見学した。この学校では1901年(明治34年)から丁稚奉公や芸妓の稽古などに出て学ぶ時間や機会がない子供たちのための夜間学校や、障害を持った子供たちのための教育など行ってきた。まさに「だれ一人取り残さない」教育の場だった。

   松本見学の締めくくりは信州そばだった。城の近くで50年余りそばを打っているという店に入った。思いが一つあった。出雲そばとの比較だ。昨年11月、国宝・松江城の近くの店で名物「割子そば」を食した折、出雲のそばは松江藩初代の松平直政(徳川家康の孫)が、信州松本から出雲に国替えになって、そば職人を信州から一緒に連れて来たと聞かされていた。出雲そばと信州そばは歴史的なつながりを確かめたかった。

   入った店は黒焼きの壺にビワの青い葉が生けられ、白壁に映えて気品が漂っていた。ただ、店にはメニューがない。黙って座っているだけ。日本酒が運ばれて来る。その後、ざるそばが出てきた=写真・下=。出雲そばと信州そばの歴史的な共通性を食感で得たのか。粗切りされたそばはすするのではなく、噛むそばだった。香りがよい。つゆも醤油味が濃いめで独特の甘みが少々ある。これが双方の共通点といえば、そうなのかもしれないと思いながら店を出た。

⇒8日(月)夜・金沢の天気    はれ

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☆80歳半ば現場に立つチカラ

2019年07月06日 | ⇒ドキュメント回廊

   きのう(5日)金沢市で開かれた「ディナーショー」に参加した。市内のクッキングスク-ルが主催した「七夕 シャンソン 和フレンチ」。そのタイトルに魅かれ予約していた。シャソン歌手が定番の「Que Sera, Sera(ケ・セラ・セラ)」などを披露したが、面白かったのは森山良子が作詞した「Ale Ale Ale(アレアレアレ)」。「ああ あの時のあの Ano Ano Ano あの人の名前がでてこない・・・」。高齢者の表層的な表現をうまく歌にして聴衆の笑いを誘った。超高齢化社会になるとこのようなエンターテイメントが創作できるのかとある意味感心した。

   このディナーショーを仕切ったのは、クッキングスク-ル校長の青木悦子さん、御年80歳半ばである。ディナーショーのチラシからメニューも自ら考案しスタッフに細かく指示したものだ。「百万石パリ祭の一皿」と名付けたメニュー=写真・上=は鮎のから揚げ、鶏ハム、海老とキノコのシンフォニーココットパイ包み。青木さん自身も鮎のから揚げを頭からパリパリと食べ、「だからパリ祭と名を付けたのよ」と笑う。「焼きおにぎり茶漬け」は梅肉、ワサビ、そしてアボガドを入れた茶漬けだ。アボガドのまろみが茶漬けとの親和性を醸し、茶漬けをより異次元の味覚の世界へと誘ってくれる。こんなコメントもあった。「男性の味覚は母の味、女性の味覚は旅の味、気が付けば親はなし、ですよ」。アイデアと人生観に満ちた言葉、そして料理への限りなき愛着、恐るべし80歳半ばである。

    青木さんと初めて出会ったのは私の新聞記者時代。石川県内の食文化をくまなく独自で調査し、まとめたものを『金沢・加賀・能登・四季の郷土料理』 (主婦の友社・1982)として出版した。能登の発酵食の独自性や武家文化と加賀料理の関わりなど、食文化から見えてきた地域の在り様は実に新鮮で画期的だった。80歳を過ぎても青木さんの探求心は揺らいでいない。アボガド茶漬けは周囲からアイデアを聞き、工夫を凝らした新作なのだ。   

   80歳半ばで現場に立つチカラを発揮するもう人物をもう一人知っている。86歳、杜氏として造り酒屋で蔵人たちを指導する農口尚彦さんは国が卓越した技能者と選定している「現代の名工」であり、日本酒ファンからは「酒造りの神様」、地元石川では「能登杜氏の四天王」と尊敬される。昨年1月、小松市にある醸造現場を見学させてもらった。開口一番に「世界に通じる酒を造りたいと思いこの歳になって頑張っておるんです」と。いきなりカウンターパンチを食らった気がした。グローバルに通じる日本酒をつくる、と。そこで「世界に通じる日本酒とはどんな酒ですか」と突っ込んだ。「のど越し。のど越しのキレと含み香、果実味がある軽やかな酒。そんな酒は和食はもとより洋食に合う。食中酒やね」。理路整然とした言葉運びに圧倒されたものだ。農口さんの山廃仕込み無濾過生原酒=写真・下=にはすでに銀座、パリ、ニューヨークなど世界中にファンがいる。

   青木さん、農口さんの二人に共通するのは80歳半ばにして自らの技の領域がさらなる広がりを見せていることだ。シャソンと響きあう和フレンチ、そして洋食に合う酒造り。人としての様々な道のりがあったことは想像に難くない。それを乗り越え現役としてものづくりの現場に立つという人生のモデルがそこにある。

⇒6日(土)夕・金沢の天気    くもり

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☆超高齢化と介護人材不足

2019年06月27日 | ⇒ドキュメント回廊

    先日(24日)能登のある高校から世界農業遺産「能登の里山里海」をテーマにした講演の依頼があり出かけた。探求の時間という総合教育の一環で、生徒たちはグループごとに地域の文化や自然資源を発掘して観光プランを練っていく。地域の将来を担う高校生はフューチャービルダー、未来請負人でもある。生徒たちから「地域を国際評価の目線で見つめ直すことで新たな気づきや発見があった」と感想が寄せられ、こちらの方がうれしくなった。

    講演後、招いてくださった高校の先生方や地域の若い人と懇談した。特養老人ホームで介護士をしている20歳の女性からは現場での話を聞いた。一番の問題は介護の現場で働く人数が足りないことだという。あと数年もたつと、戦後生まれの、いわゆる団塊の世代が後期高齢者になっていく。内閣府の「高齢社会白書」(平成29年版)によれば、2030年には75歳以上は2288万人と推定される。そこで思う。未来請負人の若い人たちをこれ以上介護の現場に「動員」してはいけない、と。少子高齢化で次世代を担う若者たちはもっと担ってほしい産業分野、たとえば製造、医療、IOT、通信、農林水産業など多々ある。 

    酒の勢いもあって、「日本には安楽死法案が必要なのではないか」とつい語ってしまった。いきなりの発言だったので参加者は呆気(あっけ)にとられた顔つきになり、こちらが恐縮した。オランダやスイスは安楽死を合法化している。不治の病に陥った場合に本人の意思で、医師ら第三者が提供した致死薬で自らの死期を早める。似た言葉で尊厳死がある。これも不治の病の延命措置をあえてを断わって自然死を迎える。身内の話だが、92歳で他界した養父は胃がんだった。「90になるまで生きてきた。世間では大往生だろう」と摘出手術を頑なに拒否した。安らかに息を引き取った。今思えば尊厳死だった。

    安楽死にしても尊厳死にしても、自らの人生の質(QOL)を確認して最期を迎えたいという願いがある。日本では尊厳死や安楽死に関する法律はまだない。しかしこれは、憲法が保障する基本的人権の一つ、幸福追求権(第13条)ではないだろうか。もちろんさまざまな議論があることは承知している。

    話が横にそれてしまった。今後問題化するであろう介護人材の不足をどうカバーするか。考えるに、解決策は2つだろう。1つはアジアなど海外からの人材の受け入れだ。ただ、日本での介護士の免許取得は言葉の問題も含めてハードルが高い。介護の制度設計の見直しが必要だろう。もう1つは、逆にインドネシアやフィリピンなど海外の介護施設との提携だろう。親を海外の施設に送るとなると親戚などから「姨捨山に送った」などと白い目で見られるかもしれないが。

⇒27日(木)夜・金沢の天気  はれ

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☆ドキュメント「平成と私」~続々々~

2019年04月17日 | ⇒ドキュメント回廊

   能登半島の観光地、輪島市の中心街から海沿いの細い道を西へ12㌔ほどに、家々を竹垣で間垣で囲った集落がある。集落をぐるりと囲んだ景観は城塞のようにも見える=写真・上=。冬場、日本海から強烈に吹き付ける北風から家を守る間垣(まがき)である。輪島市大沢地区、この間垣集落が一躍脚光を浴びたことがある。平成27年(2015)の連続テレビ小説「まれ」のロケ地だ。

      ロケ地は能登、朝ドラ『まれ』と映画『さいはてにて』   

   50戸ほどの小さな集落には食堂もない。この年3月に放送が始まり、大型連休(4月25日〜5月10日)には観光客7700人(輪島市観光協会まとめ)が訪れた。この年の3月14日に北陸新幹線の「長野-金沢間」が開業した。東京から金沢までの所要時間は最速で2時間26分に。新幹線の利用客は在来線特急が走っていたころに比べて3倍に増えた。輪島の朝市は入込客数が1.3倍にもなった。北陸新幹線の金沢開業とNHK「まれ」の相乗効果は絶大だった。 

   間垣は強風をしなやかに受け止め、風圧を和らげる。先人の知恵だ。使われる竹はニガダケで、茎が数㌢とモソウチクなどと比べて細い。地域の高齢化でニガタケの塀を修復することは大変だった。そこで、2011年から金沢大学の学生ボランティアたちが間垣の修復作業に2年間携わった=写真・中、提供:松下重雄氏=。その甲斐あって、以前の景観がすっきりと元に戻った。その後、NHKのロケ地として選ばれた。

   物語は、親の事業失敗で漁村に家族と移住し育った希(土屋太鳳)が成長して役場に就職するが、幼いころのパティシエになる夢を思い出して、横浜で厳しい修業に挑む。婚約者で輪島塗の職人の圭太は輪島塗を世界に広めるプロジェクトを始める。希は圭太の夢を後押しするためにパティシエをいったん辞め、能登に戻る。輪島では輪島塗店の女将とケーキ店のパティシエの二つの仕事をこなす。双子が授かり、育児と仕事の両立もこなしていく。昔から「能登のトト楽」という言葉がある。妻がよく働くので亭主が楽をするという意味。能登のトト楽を地で行く頑張るお母さんという物語だった。

   平成27年2月には能登を舞台にした映画『さいはてにて~やさしい香りと待ちながら~』も公開された。幼い頃に生き別れた父の帰りを待つため、故郷の奥能登に焙煎コーヒーの店を開いたハイミスの女主人と、隣人のシングルマザーの物語。世間から阻害された女たちが身を寄せあいながら生きる道を探る。共感度の高い、癒される名画だった。(※写真・下は映画の舞台となった「ヨダカ珈琲」=石川県珠洲市木ノ浦海域公園)

⇒17日(水)朝・金沢の天気      はれ

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★ドキュメント「平成と私」~続々~

2019年04月16日 | ⇒ドキュメント回廊

    今月8日付の「平成と私」では、平成19年(2007)3月25日の能登半島地震(震度6強)のときに、半壊となっていた家屋が余震で壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンたちに違和感を感じたと述べた。同じ年の7月16日、能登半島地震と同じ日本海側で新潟県中越沖地震(震度6強)が発生した。被害が大きかった柏崎市は原子力発電所の立地場所でもあり、メディアの報道は被災者より原発への取材が大半を占めていた。そんな中で、「情報こそライフライン」と被災者向けの情報に徹し、24時間の生放送を41日間続けたコミュニティー放送(FM)があった。

   「メディアにできること」を追求した被災地のコミュニティーFM

       被災地を取材に訪れたのは震災から3ヵ月後だった。柏崎駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくく、復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にあった=写真=。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急放送に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備をしていたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

    通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害時の緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し時刻、物資の支給先、仮設の風呂の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。

     コミュニティー放送局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。インタビューに応じてくれた、パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と当時を振り返った。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある情報として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

    24時間の生放送を41日間。この間、応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」とスタッフを気遣うメールが届いたほどだった。

    ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、おそらく難しいだろう。コミュニティー放送局そのものが被災した場合、放送したくても放送施設が十分確保されないケースもある。そして、災害の発生時、その場所、その状況によって放送する人員が確保されない場合もある。その意味で、発生から1分45秒後に放送ができた「FMピッカラ」は幸運だったともいえる。そして、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価される。取材を終えて、すがすがしさを感じたことを覚えている。

⇒16日(火)朝・金沢の天気     はれ

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★ドキュメント「平成と私」~続~

2019年04月12日 | ⇒ドキュメント回廊

   平成に金沢で大きく動いたことと言えば、平成元年(1989)に金沢大学が城内キャンパスから中山間地の角間キャンパスへと総合移転が始まったことだ。平成18年(2006)に移転はほぼ完了した。それまで、城の中にあるキャンパスは世界でドイツのハイデルベルク大学と金沢大学だけというのが「売り」だった。金沢の中心街から学生たちがいなくなり、さらに、城内キャンパスの目と鼻の先にあった石川県庁も平成15年(2003)にJR金沢駅の西側に移転したため県庁職員もいなくなった。

      バブル崩壊、さびれた金沢の復活までの30年

   金沢に住む一人として、当時はバブル経済の崩壊と大学移転のタイミングが重なり、その後の「失われた20年」と称された景気後退期には大学と県庁の移転が相次ぐことで、金沢の中心街が急速にさびれたと感じたものだ。片町という金沢きっての繁華街が「シャッター通り」になりかけていた。金曜日の夜だというのに、片町のスクランブ交差点には人影が少なく、「もう金沢も終わりか」と感じたのは私だけではなかっただろう。

   救われた思いをしたのが、平成16年(2004)年10月にオープンした金沢21世紀美術館だった。金沢は友禅や塗りものなど伝統工芸のイメージが強かっただけに、兼六園の近くに現代アートの美術館が出来たことは市民にも斬新なイメージを与えてくれた。開館2年余りで来館者は300万人を突破し、兼六園や武家屋敷と並ぶ金沢の名所となった。金沢大学の総合移転にともなって、附属中学校・小学校・幼稚園も移転し、その跡地を市が買収して美術館を建てた。大学移転がなければ、美術館という発想は生まれなかったもしれないし、美術館は建設されても郊外だったかもしれない。今にして思えば、絶好の場所でしかも実にタイムリーだった。

   個人的に気に入っている作品は美術館の屋上のブロンズ作品「雲を測る男」だ。作者はヤン・ファーブル(ベルギー)、あの有名な昆虫学者ファン・アンリ・ファーブルのひ孫にあたる。目録によると、作品は映画「アルカトラズの鳥男」(1961年・アメリカ)から着想を得ている。サンフランシスコ沖にあるアルカトラズ島の監獄に収監された主人公が独房で小鳥を飼ううちに、鳥の難病の薬を開発し鳥の権威となったという実話に基づく物語だ。映画の終わりの場面で「研究の自由を剥奪された時は何をするか」と問いに、主人公が語ったセリフが「雲でも測って過ごすさ」だった。それが作品名になった。昆虫学者の末裔らしい、理知的で面白いタイトルだ。

   金沢を明るくしていると感じるもう一つの要因は交通インフラだ。平成27年(2015)3月、北陸新幹線の金沢開業。観光客数(平成29年)は2475万3千人と対前年比100.7%だが、金沢開業前の平成26年(2014)比では114%となり、金沢開業前の水準を大きく上回っている。外国人宿泊者数(平成29年)も60万6千人で、対前年比114%、5年連続で過去最高となった(『統計から見た石川の観光』平成29年版より)。それは片町を歩いていても実感する。すれ違う5人に2人はインバウンドではないかと思うことがある。

⇒12日(金)朝・金沢の天気    はれ

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☆ドキュメント「平成と私」~下~

2019年04月11日 | ⇒ドキュメント回廊

  新紙幣を2014年度に発行すると過日(9日)の記者会見で麻生財務大臣が発表した。新元号の次は新紙幣だ。1万円、5千円、千円の紙幣(日本銀行券)の全面的な刷新だ。このニュースでは、45兆円もあるとされるタンス預金を吐き出させることにあるのではないかと論評するコメンテーターの言葉が妙に説得力があった。

   1万円札の福沢諭吉は交代も、未来も変わらぬ「独立自尊」の品位

  1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった昭和59年(1984)以来、40年ぶりというから確かにそろそろ交代の時期なのかもしれない。その福沢が19歳まで過ごした大分県中津市の旧居と記念館を訪れたことがある。平成24年(2012)10月のことだ。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だった。天保5年(1835)に大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。

   中津の旧居近くに看板があった。これに福沢の文が引用されていた。「今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、・・・人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津に残した母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。

   ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

  「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」。

  平成の1万円札の主役を担った福沢から、令和は渋沢栄一に代わる。しかし、「独立自尊」の精神は未来も変わることのない人の品位である。

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