自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

★震災とマスメディア-6-

2011年03月30日 | ⇒メディア時評
 2007年7月16日、能登半島地震と同じ日本海側で新潟県中越沖地震が発生し、新潟県や長野県が震度6強の激しい揺れに見舞われた。震源に近く、被害が大きかった新潟県柏崎市は原子力発電所の立地場所でもあり、地震と原発がメディアの取材のポイントとなっていた。そんな中で、「情報こそライフライン」と被災者向けの情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けたコミュニティー放送(FM)があった。このコミュニティー放送が何をどのように被災者に向け発信したのか、具体事例を通して「震災とメディア」を考察したい。

      「メディアにできること」の可能性を追求したFMピッカラ

 震災から3ヵ月後、被災地を取材に訪れた。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、柏崎駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくかった。復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にあった。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急放送に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備をしていたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

 通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害時の緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し、仮設の風呂の場所などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。

 コミュニティー放送局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。インタビューに応じてくれた、パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と振り返った。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある情報として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

 また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。市民からの問い合わせや情報はNHKや民放では内容の信憑性などの点から扱いにくいものだ。しかし、船崎さんは「地震発生直後の電話やメールに関しては情報を探す人の切実な気持ちが伝わってきた。それを切り捨てるわけにはいかなかった」と話した。

 7月24日にはカバーエリアを広げるために臨時災害放送局を申請したため、24時間放送の緊急編成をさらに1ヵ月間延長し8月25日午後6時までとした。応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」とスタッフを気遣うメールが届いたほどだった。

 ピッカラの放送は情報を送るだけに止まらなかった。夜になると、「元気が出る曲」をテーマにリクエストを募集した。その中でリクエストが多かったのが、女性シンガー・ソングライターのKOKIAの「私にできること」=写真=だった。実は、東京在住のKOKIAが柏崎在住の女性ファンから届いたメールに応え、震災を乗り越えてほしいとのメッセージを込めて作った曲だった。KOKIAからのメールで音声ファイルを受け取った女性はそれをFMピッカラに持ち込んだ。「つらい時こそ誰かと支えあって…」とやさしく励ますKOKIAの歌は、不安で眠れぬ夜を過ごす多くの被災者を和ませた。そして、ピッカラが放送を通じて呼びかけた、KOKIAによる復興記念コンサート(8月6日)には3千人もの市民が集まった。人々の連携が放送局を介して被災地を勇気づけたのだった。

 ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、おそらく難しいだろう。コミュニティー放送局そのものが被災した場合、放送したくても放送施設が十分確保されないケースもある。そして、災害の発生時、その場所、その状況によって放送する人員が確保されない場合もあり、すべてのコミュニティー放送局が災害放送に対応できるとは限らない。その意味で、発生から1分45秒後に放送ができた「FMピッカラ」は幸運だったともいえる。そして、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価される。

⇒30日(水)朝・金沢の天気  はれ
コメント

☆震災とマスメディア-5-

2011年03月29日 | ⇒メディア時評
 28日付の産経新聞インターネット版で「『避難所にテレビを』岩手出身の小笠原が“お願い”」との見出しが目に留まった。記事によると、Jリーグ選抜の小笠原満男選手は「ひとつお願いがあるんですが…」と報道陣に切り出し、「被災地ではテレビを見られない人もたくさんいるんです。より多くの人に見てもらえる方法を協力してもらえませんか。避難所に小さなテレビを持ち込むとか…」と呼びかけたという。小笠原選手は、今月18日に高校時代を過ごした岩手県大船渡市と妻の実家がある陸前高田市の避難所を訪れている。「現地の実情を知るからこそ、の言葉だった。」と記事は報じている。

      「避難所にテレビを」放送インフラを急げ

 被災地に放送が果たす役割は大きいが、なんといってもインフラの整備だ。テレビを視聴できるようにすることだ。2007年3月25日、震度6強の能登半島地震では全体で避難住民は2100人余りに及んだ。多くの住民は避難所でテレビやラジオのメディアと接触することになった。注目すべきことがった、被害が大きかった輪島市門前町を含め45ヵ所の避難所すべてにテレビが完備されていたことだ=写真=。地震で屋根のテレビアンテナは傾き、壊れたテレビもあったはず。一体誰が。

 この「テレビインフラ」をわずか2日間で整えたのはNHK金沢放送局だった。翌日26日から能登の全避難所45カ所を3班に別れて巡回し、アンテナなどの受信状態を修復し、さらにテレビのない避難所や人数が多い避難所には台数を増やし、合計12台のテレビを設置した。用意周到だったのは、2006年5月に金沢放送局では災害時に指定される予定の避難所にテレビが設置されているかどうか各自治体に対し予備調査を行っていた。このデータをもとにいち早く対応したのだった。

 NHKは報道機関では唯一「災害対策基本法」が定める国の指定公共機関であり、災害報道と併せハード面のバックアップは両輪である。が、それだけではない。金沢放送局はこんなアフターフォローも行った。地震が起きたのは3月の最終週に入る日曜日とあって、被災者から当時人気だった連続テレビ小説「芋たこなんきん」の最終週分を見たいとの要望や、大河ドラマ「風林火山」を見損ねたとの声があり、著作権をクリアにした上で、要望があった13カ所の避難所に収録テープを届け、またビデオの備えがない7カ所にビデオデッキを届けた。こうした被災者のニーズを取り入れた細やかな活動があったことはテレビ画面からは見えにくいが、避難住民を和ませたのだった。

 しかし、東日本大震災は能登半島地震に比べとてつもなく広範囲だ。避難所は2100ヵ所もある。さらに、中継鉄塔などが損傷し、その対策も追われ、すべての避難所にNHK技術陣の手が回りきれていないのだと想像する。避難所にテレビがなく、情報が入らなければ余計に不安が増す。小笠原選手が取材陣に述べた「避難所に小さなテレビを持ち込むとか・・・」は、技術陣だけでなく、現地を取材するNHKや民放の記者やカメラマンにもできることだ。

⇒29日(火)朝・金沢の天気  はれ
コメント

★震災とマスメディア-4-

2011年03月28日 | ⇒メディア時評
 メーリングリストで、福島県の「里山のアトリエ坂本分校」支援物資会津基地のスタッフからこんなメールが届いた。「必要なものをタイミングよく必要なところに送らないと、相手方が保管する場所もない所が多いので迷惑になります。会津基地では新品・未使用・一箱一品目、リスト付を原則にしています。とにかく、仕分けの労力は大変です。長期戦になります。冷静に行動して判断、と思うのですがなかなか難しいです。」

       避難所に必要なのは「かわら版」的な情報ペーパー

 2007年3月25日の能登半島地震から4年になる。現地でのボンラティア活動でも上記と同じ思いをした。各地からさまざま善意が届けられる。しかし、それを受ける現地の状況が理解されていないために、返って混乱を招いている。私が目撃した一つの例を述べる。被災者の避難所には毎日、新聞各紙がどっさりと届けられる。ところが、避難所となっている地区の集会場は体育館のように大きくはない。被災者は肩を寄せ合っている状態だ。そこに新聞が山積みされても、まず新聞を広げて読むスペースが十分にない。しかも、新聞を広げても被災者が欲しい情報、たとえば回診や被災相談などの細かな情報は掲載されていない。読まれない新聞が日々どっさりとたまる。それを廃棄場所に持って行き始末するのはボランティアの役目だった。

 そのような事情の中で、被災者が「かわら瓦」と呼んで手にしていたのは朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」=写真=だった。タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。救援号外は、朝日新聞が阪神淡路大震災の体験から、より被災者に役立つ情報をと2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行した。能登半島地震では、カラー写真を入れるなど、より読みやすく工夫された。

 日々改良も加えられた。1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。これでは被災者のモチベーションが下がるのではないかとの配慮から、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。

 カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

 これは提案だが、新聞各社がそれぞれにこうした「避難所新聞」をつくってはどうだろうか。いまからでも遅くはない。ただ、東日本大震災では2100ヵ所の避難所がある。各紙が話し合って配付地域を決めて実施してはどうだろうかと提案したい。

⇒28日(月)朝・金沢の天気  はれ
 
コメント

☆震災とマスメディア-3-

2011年03月22日 | ⇒メディア時評
  今回の震災で、これまでのテレビ局画面と違うことがいくつかある。連日の放送体制でNHK、民放とも生放送の番組を拡大させている。そんな中、字幕の放送を積極的に行っていることだ=写真=。リアルタイムで話すインタビュー内容も「生字幕」化している。これは放送で一番難しいといわれてきたことだ。日本語特有の同音異義や、専門用語の表記の対応、誤植や誤記を行わない確認体制が必要となる。聴覚障がいの人はもちろんのこと、耳に不自由を感じる高齢者、さらに避難所で1台のテレビを見るときは遠巻きの健常者にとっても字幕表示は役立つ。夜、周囲で寝ている人がいて音声を絞る場合に字幕は見やすい。

       ユニバーサル・サービスに好感、では7・24はどうなる

  健常者でも障がい者で同じようにマスメディアから情報を得ることをユニバーサル・サービスという。内閣の、たとえば総理や官房長官の会見では、小画面に手話通訳者が出ている。会見場に手話通訳があることで、聴覚障がい者がリアルタイムでテレビから情報を得ることができる。今回の震災は原発事故と連動したため、メディアによるリアルタイムの放送に被災者の耳目が集まる。内閣の伝えようとする意志が見える。災害会見の手話放送はこれ以降、定番化するのではないだろうか。

 好感の持てることばかりではない。震災でCMスポンサーが減っているせいで、CMの空き枠に公共広告機構(AC)のCMがやたらと入っている。しかも、「思いやり」や「生物多様性」など種類が少なく、繰り返しの放送で、このACが画面に流れると、チャンネルサーフィン(切り替え)を始めてしまう。もう条件反射のようになっている。それに、最後の「AC」というサウンドがうるさいと思う。これは視聴者が誰しも感じていることではないだろうか。番組のフォーマットでCM枠がすでに固定化されているので、CMスポンサーが少ないからと言って、CM枠を間引くことはできないのだ。民放の宿命だろう。

 被災地の民放には同情する。放送そのものもさることながら、電波を視聴者に届ける前線である中継設備では、ミニサテと呼ぶ小さな局が多数損傷を受けているだろうことは想像に難くない。電気不通によるトラブル、それをカバーする自家発の燃料を届けられないこともあるだろう。テレビ局には、国の放送免許と引き換えに放送電波を人々が「あまねく」受信できるように設備を整えることが使命として課せられている(放送法第2条の6)。震災という困難なときほど使命が問われる。

 3月17日、民放連会長による定例会見があった。注目されたのは、ことし7月24日に予定されているアナログ停波(デジタル完全移行)のスケジュールをそのままで進めるのかという点だった。東北地方はデジタル未対応の世帯が少なくない。広瀬道貞会長は「7月24日に(アナログ波を)停波できるような環境作りに対し、歩みを止める必要はない。全国一斉が原則。私自身は(震災でも)引き延ばす理由はないと思っている」、「人とお金をかけ、(地デジへの)切り替えができる環境を作ることが大切」とし、支援策としてデジタル対応テレビを支給するよう政府に求めていきたいと述べた(毎日新聞インターネット版)。難題が次々と。

⇒22日(火)朝・金沢の天気  くもり
コメント

★震災とマスメディア-2-

2011年03月21日 | ⇒メディア時評
 私は大学を卒業してから満50歳になるまで、新聞記者とテレビ局報道のセクションに携わった。津波も経験した。日本海中部地震。1983年(昭和58年)5月26日11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、10㍍を超える津波で国内での死者は104人に上ったが、そのうち100人が津波による犠牲者だった。

      報道目線と被災者目線のギャップをどう埋めたらよいのか

 そのころ、能登半島の輪島市で記者活動をしていた。デスクから電話があり、輪島漁港に行ってみると、足元まで波が来て、危うく逃げ遅れるところだった。1枚だけ撮った、渦に飲み込まれる寸前の漁船の写真は翌日の一面を飾った。2004年にテレビ局を退職し、大学の地域連携コーディネーターという仕事をしている。2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)、翌日26日に被害がもっとも大きかった輪島市門前町に現地入りした。そこで見たある光景がきっかけで、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。

 震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。前回のコラムで述べた現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。心象的だったのは、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真=。「でかいのがこないかな」という言葉が聞こえてきた。「でかいの」とは余震のこと。余震で、家が倒壊する瞬間を狙っているのである。周囲では余震におののいて子どもが泣き叫ぶ声も聞こえる。カメラマンのこの身構える姿は被災者の人たちにどう映っただろうか。

 私が前職(テレビ局報道担当)だったら、違和感を感じなかっただろう。むしろ、「倒壊の瞬間を撮ったら、すぐネット上げ(全国放送)だ」とカメラマンや記者に発破をかけていただろう。もともと26日現地を訪れたのは学生ボランティアの派遣が可能かどうかの見極めだったので、被災者の目線だった。報道目線と被災者目線はこれだけ違うのである。もちろん、被災者目線を大切にしたいというカメラマンもいた。共同通信の腕章をしたカメラマンは、半壊となり、割れたガラスが散乱している被災者宅でも、決して靴で上がろうとはしなかった。靴を脱いで、被災者に許可を得て、家屋に上がった。ちょっとした被災者への気遣いで十分なのだ。

 そのようなことを「震災とメディア」の調査報告にまとめた。報告書では以下のような提案もした。「(今回のメディアのありようは)阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた光景だろうと想像する。最後に、『被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で、現場で汗を流したらいい』と若い記者やカメラマンに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである」(「金沢大学能登半島地震学術調査部会平成19年度報告書」より)

⇒21日(祝)朝・金沢の天気  くもり
コメント

☆震災とマスメディア-1-

2011年03月17日 | ⇒メディア時評
 16日朝、金沢は氷点下の冷え込み、雪だ。山沿いの一部では大雪注意報も出ている。被災地の東北地方もマイナス3度から4度と真冬並みの寒さという。農山漁村の集落で9200人が未だに孤立している。被災地に派遣されている自衛隊のヘリコプター190機のほか消防ヘリが捜索や救助活動を進めているが、学校や公民館などで肩を寄せ合って寒さと飢えをしのいでいる姿を想像すると心が痛む。

        その情報は被災地に届いているのか、問いかけて欲しい

 一方、今朝のニュースは、ニューヨーク外国為替市場で、円相場が一時1ドル=76円台に急騰し、1995年4月19日につけた1ドル=79円を超えて史上最高値となった。3月末の決算期を控えた日本企業の円需要が増しているのと、保険金の支払いに備え、保険会社が外貨資産を売るといった思惑、さらに日本政府が外貨準備として保有するアメリカ国債を売るのではないかとの観測まで広がっている。日本政府が国債増発ではなく、外貨準備に手をつけ、米国債を売却するのではないか、という憶測だ。アメリカとの外交問題が絡む。注視したい。

 今回の大震災でマスメディア(とくにテレビ)がネット上で批判を浴びている。その主なものは、「記者会見で東京電力の社員が必死になって説明しているのに、記者たちはの質問はまるで吊るし上げではないか」、「ニュース読むアナウンサーがヘルメットを被っていたが、そのバックヤードで働いくスタッフたちは被っていない。これも演出か」などなど。確かに、震災発生の11日の民放各社の報道番組で、スタジオのキャスターたちのヘルメット姿には違和感を感じた。東京も震度5強だったので、被災地といえば被災地だ。スタジオの天井には照明機器が吊るされている。ただ、言葉は悪いが、「私たちも被災者の目線でニュースをお伝えします」という意識が浮き上がっていて、「くさい」のである。スタジオ後方で走り回るスタッフが被っていなかったからなおさらに。

 そのスタジオのキャスターが現地で中継リポートをする記者に、最後に「気をつけて取材を続けてください」と声をかけている。その記者の背後では家が潰れ、乗用車がひっくり返り、まさに地獄絵図が広がっている。クギ付けになった。「気をつけて…」など通り一遍の記者へのねぎらいの言葉など不要である。「取材を続けてください」でいいのである。視聴者と伝える側の温度差を感じた。

 写真は、2007年3月25日に発生した能登半島地震の被災地、輪島市門前町での写真である。倒壊した家屋に横付けしたSNG車(衛星回線を利用した映像伝送車)をにらむように見つめる被災者。被災地にドカドカと入ってきて、最初は「悲惨な被災地の現場」を見せるだった。ところが2日、3日もすると、テレビ各社のリポーターは美談を探し始めた。「愛犬が救った飼い主の命」などワイドショー仕立ての取り上げ方が目立つようになった。そして1ヵ月もするとあれほどいた取材クルーは潮が引くようにいなくなった。

 その取材の行動パターンは、被災地ではどこも同じである。悲惨な映像、美談仕立て、行政の対応批判、そしてさっといなくなる。被災地の様子をいち早く現地から全国の視聴者に伝えることは大切なことだ。メディアでしかできない。でも当時、現地に赴いて思った。被災地におけるメディアって何だろう、と。

⇒17日(木)朝・金沢の天気  ゆき
コメント

★畠山重篤氏の無事

2011年03月16日 | ⇒トピック往来
 「森は海の恋人」運動の提唱者、畠山重篤さんの安否の続報を書く。畠山さんの消息が知りたいと切望している方々は多いと思う。15日付の『自在コラム』で畠山さんの安否について書いたところ、3件ものコメントが寄せられた。前回のブログで引用した『牡蠣復興および被災地救援対策会議』のサイトでの記事を今回も紹介する。畠山さんに関する新しい情報が入っている。畠山さんの親戚という人(「オイスターマイスター(OM)小屋めぐみさん」)が、畠山さんの娘(「愛子さん」)からの情報として安否情報を以下のように掲載している。読みやすくするために、掲載順番を新しいものを上にする。
--------------------------------------------------------------------------------
⇒ 03-15-16:00|OM小屋 さん|娘さんの畠山愛子さんから皆様へのメッセージ 本日午前に、父畠山重篤、長男哲と直接話すことができ、祖母をのぞいてですが、一家が無事であることが確認できました。祖母小雪は、震災当時気仙沼鹿折におり、亡くなったとのことです。現在唐桑地区は通信網が一切遮断されており、唐桑からの発信は全くできないそうです。父からの電話も、室根からかけているとのことでした。舞根地区で重篤の自宅の高台に非難していた2,30名の地域の皆さんはいま避難所(おそらく唐桑小学校)へ移動されたそうです。父重篤には、全国各方面からご心配と励ましをいただいている事も伝えました。父からも皆様へお礼と引き続き被災者へのご支援をお願いしますとのことです。携帯のバッテリーが不足しており、短時間での会話だったため、今わかっている情報は以上です。今後も連絡が取れ次第、ご報告します。畠山哲の家族、耕、信も無事です。

⇒ 03-14-19:48|OM小屋 さんより|畠山愛子さまより以下のメッセージがありました(安否の掲示板より); メッセージをいただいた皆様へ 畠山重篤一家について全国各方面から沢山のご心配と励ましのメッセージをいただき、また情報の拡散などご協力をいただき本当にありがとうございます。その後、家族とはまだ直接連絡はできておりませんが、唐桑の孤立状態は解消されたとのことですので、少し安心しました。ここで、皆様にお願いです。現地では引き続き通信の混乱が続いておりますので、現地家族への安否確認のご連絡は控えていただければと思います。私自身東京にいるので、確認の連絡をぐっとこらえて、現地からの連絡を待っている状態です。家族と直接連絡が取れ次第この掲示板にてすぐにご報告いたしますので、ご協力お願いします。
--------------------------------------------------------------------------------
 ※写真は、2010年8月7日、金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムでの畠山重篤さんの講義の様子。
 
⇒16日(水)朝・金沢の天気 はれ
コメント (7)

☆畠山重篤氏のこと

2011年03月15日 | ⇒トピック往来

 気仙沼市在住で、漁民による広葉樹の植林活動「森は海の恋人」運動の提唱者、畠山重篤さんのことを今月12日付の『自在コラム』で書いた。畠山さんの消息が知りたいと思い、ネット上で探した。「畠山重篤」「安否」で検索すると、『牡蠣復興および被災地救援対策会議』のサイトに当たった。カキの愛好家がカキ養殖業者を支援するサイトだ。ここに畠山さんの親戚という人(「オイスターマイスター(OM)小屋めぐみさん」)が、畠山さんの娘さん(「愛子さん」)からの情報として安否情報を以下のように掲載している。
--------------------------------------------------------------------------------
⇒ オイスターマイスター小屋 さん(畠山氏親戚)が気仙沼の知り合いとメール(11日18時頃)。海から離れた少し高台の学校の三階に取り残された先生から情報。二階まで水没。車等周りの物は全て流され孤立。畠山氏含め親戚の牡蠣漁師は全員連絡取れず。他家族とも連絡取れず。自分は学校の先生になっていたので高台の三階にいた。以上メールで。ただし現在連絡が途切れている。

⇒ OM小屋 さんより|畠山重篤の娘、畠山愛子です。3月11日22時時現在、メールで、一家は高台の自宅に避難して生きているということです。その後は連絡がとれません。舞根地区は壊滅状態で、自宅も孤立していると思われます。舞根だけでなく、唐桑の避難所も含め情報が全くないので、唐桑の多くの場所が孤立していると思います。唐桑が孤立しているであろうことを広めてください。

⇒ 03-14-19:48|OM小屋 さんより|畠山愛子さまより以下のメッセージがありました(安否の掲示板より); メッセージをいただいた皆様へ 畠山重篤一家について全国各方面から沢山のご心配と励ましのメッセージをいただき、また情報の拡散などご協力をいただき本当にありがとうございます。その後、家族とはまだ直接連絡はできておりませんが、唐桑の孤立状態は解消されたとのことですので、少し安心しました。ここで、皆様にお願いです。現地では引き続き通信の混乱が続いておりますので、現地家族への安否確認のご連絡は控えていただければと思います。私自身東京にいるので、確認の連絡をぐっとこらえて、現地からの連絡を待っている状態です。家族と直接連絡が取れ次第この掲示板にてすぐにご報告いたしますので、ご協力お願いします。
--------------------------------------------------------------------------------
 支援者のサイトでの、しかも具体的な地名が入った情報なので畠山氏の消息にはリアリティがある。無事を祈りたい。

⇒15日(火)朝・金沢の天気 くもり

コメント (6)

★福沢諭吉と上野戦争

2011年03月14日 | ⇒トピック往来
 チェーンメールが飛び交っている。昨日もこのようなメールが知人より届いた。「■お願い■ 関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、本日(3月13日)18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく、中部電力や関西電力からも送電を行うらしいです。一人が少しの節電をするだけで、関東の方の携帯が充電を出来て情報を得たり病院にいる方が医療機器を使えるようになり救われます!こんなことくらいしか関西に住む私たちには、祈る以外の行動として出来ないです!このメールをできるだけ多くの方に送信をお願い致します!1人1人が意識し、電気の使用を少し控えるだけで、助かる命があるかも知れません。ご協力お願い致します。」

 この巨大地震の被害は甚大であり、あるい意味では国難でもある。知人は善意でこのメールを知り合いに届けた。このメールを疑問に思った知人がさらに、次のようなメールを受け取った知人らに回した。

 「件名の趣旨、大変理解できますが、周波数が違うのに、その様なことが可能なのかと疑問に思い、関西電力のHPを見ました。以下に転記致します。○このたびの東北地方太平洋沖地震により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。○今回の震災復旧に際して、当社名でお客さまに節電に関するチェーンメールを送ることはございませんので、ご注意ください。○当社はお客さまへの安定供給を維持した上で、11日夕方から、電力各社と協力しながら最大限可能な範囲で電気の融通を行っております。○平素より皆さまには省エネ・節電にご協力を頂いておりますが、今のところ、お客さまに更なる特別な節電をお願いするような状況にはございません。」と。

 そして疑問に思った知人はさらに以下の注釈をつけた。「[注]東日本と西日本では、電気の周波数が違います。従って、関西電力の電気を東日本に送るには、周波数を変換しないといけません。この周波数変換施設の容量には上限があります。」と。感情論ではなく冷静にメール対応することで、チェーンメールの知人らに諭した。チェーンメールを最初に送ってきた知人から再び、「先日お送りしたメールですが、混乱を招くような内容を発信してしまったこと、軽率だったと反省しております。以後、正確な情報か見極めたうえで行動したいと思います。」とお詫びのメールが流れてきた。

 メール情報が飛び交うのは、それだけ人々の心が揺れているからだ。このような場合、われわれはどう心の動揺を抑えたらよいのか。一つのエピソードがある。1868(慶応4)年5月、新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を開始した。慶応義塾を創設した福沢諭吉はこのころ、芝新銭座の有馬家中屋敷(現在の東京都港区浜松町1丁目)で英語塾を開講(のちに慶応義塾)していた。福沢は、噴煙があがるのを見ながらも、塾を休むことなく、塾生たちに英書『ウェーランドの経済書』を講義した。

 挿絵は、戦火を眺め動揺する塾生を背に粛然と講義を行う福沢の姿である。師が動揺しては塾生も動揺する。自らの使命を遂行することが肝要と自信に言い聞かせていたのだろう。

 ※写真は、2009年に開催された福沢諭吉展で市販された挿絵より。

⇒14日(月)朝・金沢の天気  はれ
コメント

☆豊饒の海を襲った津波

2011年03月12日 | ⇒ニュース走査

 11日午後2時46分、三陸沖を震源とする国内観測史上最大の巨大地震が発生した。強い揺れと最大10㍍と推定される津波が襲い、火災も発生、岩手、宮城、福島3県で壊滅状態の地区が続出し、110万人が住む太平洋岸三陸地域を中心に犠牲者は相当数に及ぶ。宮城県栗原市で震度7、仙台市など宮城県各地、福島、茨城、栃木各県で震度6強を記録した。マグニチュードは8.8。観測史上最大規模と報じられている。三陸沖から茨城県沖にかけての震源域が連動して揺れが頻発しているようだ。

 気仙沼港に6㍍の津波が到来し、市内は広範囲にわたって水没しているとメディアは伝えている。朝日新聞社のホームページ「アサヒ・コム」は、同社気仙沼支局長の報告として次のように報じている。「気仙沼港は火の海。すごいことになっている。午後5時半すぎ、気仙沼港口にある漁船用燃料タンクが津波に倒され、火が出た。その火が漂流物に次々に燃え移っている。さらに、波が押し寄せるたびに、燃え移った漂流物が街の中に入り、民家に延焼している。周辺は暗くなっているが、一面、真っ黒な煙と炎が覆っている。あちこちで火が上がり、『バーン、バーン』という爆発音もあちこちで聞こえる。気仙沼市街地北側で火柱が3本見える」。記事を読む限り、戦場を想像させる。

 去年(2010年8月)と2008年3月、「能登里山マイスター」養成プログラムの講義に能登に来ていただいた畠山重篤氏(気仙沼市)。講義のテーマは、「森は海の恋人運動」だった。畠山氏らカキの養殖業者は気仙沼湾に注ぐ大川の上流で植林活動を1989年から20年余り続け、約5万本の広葉樹(40種類)を植えた。この川ではウナギの数が増え、ウナギが産卵する海になり、「豊饒な海が戻ってきた」と畠山氏はうれしそうに話していた。漁師たちが上流の山に大漁旗を掲げ、植林する「森は海の恋人運動」は、同湾の赤潮でカキの身が赤くなったのかきっかけで始まった。

 宮城県が計画した大川の上流での新月(にいつき)ダム建設では、畠山氏らの要請を受けた北海道大学水産学部の松永勝彦教授(当時)が気仙沼湾の魚介類と大川、上流の山のかかわりを物質循環から調査(1993年)し、同湾における栄養塩(窒素、リン、ケイ素などの塩)の約90%は大川が供給していることや、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせないフルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)が大川を通じて湾内に注ぎ込まれていることを明らかにした。この調査結果は県主催の講演会などでも報告され、新月ダムの建設計画は凍結、そして2000年には中止となった。畠山氏らの、ダム反対のスローガンを掲げずに取り組んだ「森は海の恋人運動」は結果的にソフトな環境保全運動として実を結んだ。

 畠山氏らが心血を注いで再生に取り組んだ気仙沼湾が「火の海」になった。心が痛む。畠山氏らの無事を願う。

⇒12日(土)朝・金沢の天気  くもり

コメント