自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆文明論としての里山20

2010年03月31日 | ⇒トレンド探査

 きょう31日付の新聞各紙を読んで、日本の教育について「大丈夫だろか」と不安を感じたのは恐らく私だけではないだろう。1面のトップ記事。「文科省検定 小学教科書ページ大幅増」「『ゆとり』決別」と見出しが躍った。2011年度から小学校で使われる教科書のページ数が、04年に比べ算数33%増、理科37%増になるという。

             人の力はどこで芽吹くのか

  この記事を読んで、「日本の未来を担う子どもたちよ頑張れ」と共感した大人はいるだろうか。確かに、国際的な学力調査で日本の順位が下がったことを意識して、応用力などを育てることなどに力点を入れた内容を盛り込んでいると記事で説明がされている。が、極論すれば「詰め込み」にすぎない。多くの読者はそう感じたに違いない。電車の中や家庭でテレビゲームに熱中する子どもたちの姿や、「詰め込み」重視の学校での姿を現実的に見てきて、これでよいと思う大人はいないだろう。なぜか、いまの子どもたちに欠けているのは「人間力」、あるいは「生きる力」ではないかと思うからだ。

  いまの子たちを取り巻く環境は、学校の教科書にしても、家庭でのテレビやゲームにしても、バーチャルである。バトルゲームであっても自分が苦痛や汚れを感じることはない。従って、内なる葛藤は存在しない。没頭するだけである。しかし、人はリアルな場面に直面し、心理的葛藤を経て初めて解決の方法を創造していくことができる。これが精神的な成長、あるいは人間力と言ってよい。このリアルというのは自然と向き合いや社会での活動のことである。これが「欠けている」として、「ゆとり教育」が進められたのが10年前である。それがいま「脱ゆとり」、あるいは「『ゆとり』と決別」となって揺り戻しが行われている。もちろんすべて昔のカリキュラムに戻すという内容ではないだろう。新しい教科書では、プレゼンテーション能力を高めるといった内容も盛り込まれていて、時代のニーズに即してはいる。

  同日付の朝日新聞の生活欄に、ドイツで実践されている「森の幼稚園」の事例が紹介されている。屋根がない森という環境で子どもたちを育てる教育手法で、1950年代にデンマークで生まれ、北欧を中心に広がっている。いまドイツだけでも427園もある。3歳から6歳の子どもたちが、森の中で遊びまわる。雨の日も泥だらけになる。山道を歩き、切り株に腰掛ける。鳥の声に耳をそばだて、花に目を凝らす。山道を登れない子を年上の子が手を引いて登る光景も見られるようになる。先生はじっと子どもたちの様子を観察して、リスク管理を怠らない。来る日も来る日も森で3時間ほど過ごす。人間が本来持つ五感(見る、聞く、かぐ、味わう、触れる)を森で芽吹かせる。ドイツの教育はここから始まる。

  いまの日本の教育は「促成栽培」だ。人間の感性や生きる力のベースを十分に得ないままに、「詰め込み教育」というバーチャルの世界に子どもたちを叩き込んでいく。では、人間力や生きる力を人生のどのステージで体得するのかという教育プログラムそのものがない。最終的に「自己責任」「家庭の教育」に押し込められてしまう。野を駆け巡り、川に遊び、海を泳ぐような教育はほんの一部でしか実践されていない。自然環境の深いところから人を育てようとする意識を忘れ去っているいるのではないか。

⇒31日(火)夜・金沢の天気   あめ  

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★黄砂をつかまえる

2010年03月23日 | ⇒トピック往来

 今月21日、京都で見た空は異様だった。ホテルの窓から見える京都タワーが黄色くかすんでいた。空がどんよりと曇った感じで、黄砂だとすぐ分かった。市内を歩くと、マスクをしている観光客が目立った。花粉の飛散時季と重なって、いかにも辛そうな御仁もいた。

   黄砂研究の第一人者といえば、金沢大学フロンティアサイエンス機構の岩坂泰信特任教授だ。シンポジウムの開催のお手伝いをさせていただく傍ら、岩坂氏の講演に耳を傾けていると、いろいろな気づきがある。印象に残る言葉は「能登半島は東アジアの環境センサーじゃないのかな」である。黄砂と能登半島を考えてみたい。

   黄砂は、タクラマカン砂漠など中国の乾燥地域で巻き上げられ、偏西風に乗ってやってくる。わずか数マイクロメートル(1マイクロメートルは千分の1ミリ)の大きさの砂が、日本に飛来するまでに、まさざまに変化する。「汚染物質の運び屋」もその一つ。日本の上空3キロで捕らえた黄砂の表面には、硫黄酸化物が多くついていて、中国の工業地帯の上空で亜硫酸ガスが付着すると考えられる。日本海の上空では、海からの水蒸気が黄砂の表面に取り付き、汚染物質の吸着を容易にしているのではないかと推測される。

 黄砂に乗った微生物もやってくる。岩坂氏の調査フィールドである敦煌上空で採取した黄砂のおよそ1割にDNAが付着していて、DNA解析でカビや胞子であることが分かった。黄砂は「厄介者」とのイメージがあるが、生態系の中ではたとえば、魚のエサを増やす役割もある。日本海などでは、黄砂がプランクトンに鉄分などミネラルを供給しているとの研究がそれある。

  その黄砂をキャッチするには、日本海に突き出た能登半島がよい。偏西風に乗って飛んできた黄砂をいち早く捕まえることができるからだ。この地の利を生かして、「大気観測スーパー・サイト」という調査研究のフィールドが岩坂氏の発案で形成され、黄砂による環境や気象、ひとの健康への影響の解明が進んでいる。能登半島は日本海を挟んで、中国と韓国、ロシアと向き合う。これらの国々の黄砂研究者と連携を強めれば、能登半島が環境問題の解決の糸口を見いだす研究拠点、あるいは観測地となる可能性は十分にある。岩坂氏はそのような構想を持っている。この趣旨を聴けば、「能登半島は東アジアの環境センサー」という言葉に説得力が出てくる。

  ※写真・上は、21日(日)午前9時ごろに写した京都の空。写真・下は同日午後5時半ごろに写した黄砂が晴れた空。JR京都駅にあるホテル11階から撮影した。

 ⇒23日(火)朝・金沢の天気   はれ

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☆文明論としての里山19

2010年03月22日 | ⇒ランダム書評

  「文明論としての里山」のシリーズの中で、「持続可能な社会」や「生物多様性」という言葉をよく使ってきた。長らくあり続け住みよい社会、自然と共生する人間のあり方を当然として論じてきたわけだが、では、人はなぜそのようなあり方が「よい」と思うのだろうか。少々理屈っぽくなるが、考えるヒントとしてある著書で出会ったので紹介を交え考えてみたい。

              ミームは選択を始めた

   『なぜ飼い犬に手をかまれるのか』(日高敏隆著、PHPサイエンス・ワールド新書、09年)はタイトル名で注文してしまった。「飼い犬に手をかまれる」という言葉は、部下の反逆を意味する。それに、「なぜ」と付されると、科学の領域のような感じがして手を伸ばしたくなるものだ。動物行動学者の日高氏については、個人的に一度だけエピソードがあり、この『自在コラム』でも紹介したことがある。

  本論に入る。『なぜ飼い犬に…』の本文は新聞に掲載したコラムを集めて編集したもので、読者に分かりやすいように書かれている。その中の「なぜ老いるのか」では、人間が死後に残せるものが2つあると述べている。一つは遺伝子である。これは生物が子孫に伝えていく生物の「設計図」。もう一つは、人間が伝える文化だという。イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが最初に言い始め、遺伝子のgene(ジーン)にならって、meme(ミーム)と名づけたもので、「遺伝子以外にも存在しうる理論上の自己複製子の例として提案した」と「ウィキペディア」では紹介されている。ドーキンスが唱えたミーム=情報伝達における単位としての定義だが、具体的な例として、著書を引用すると「人間は後世に技術や業績、作品、名声を残すことができる。これらがミームである」と。日高氏は、ドーキンスのミーム論を著した『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』の訳者として、ミーム論を支持してきた。

  日高氏は続けてこう述べている。「そのミームが遺伝子と異なるのは、伝わる相手が自分の子孫だけではないことだ。ミームが伝わっていくのは、たとえば教え子であったり、読者であったり、民族であったり、信者であったりする。よくもわるくも、人間という生きものが、地球上で繁栄しているのはミームによって複製され、伝えられる文化によるものなのである」。文化の存在は、人が人へと伝えることで続いていく。人間は多くのミームを残そうとするが、よいミームは広く伝わり文化として継承され、わるいミームはやがて消えてしまう。

  ここからは宇野の勝手な解釈である。自然の支配と改造はヨーロッパ諸国を中心とした人々の願望だった。その願望に沿って、植民地獲得競争や、化石燃料の活用による産業革命が起こり、その成果に乗って近代文明を築こうとすると情熱がさらに膨張し、ついに宇宙にまで到達した。資本主義や社会主義というイデオロギーも、この波を支える力として作動したにすぎない。その反動として、化石燃料の使いすぎによる地球温暖化や、その連鎖される気候変動が起きて、地球環境問題が人類の大きなテーマとしてクローズアップされてきた。「支配と改造の発想はもう限界だ」とアル・ゴアやレスター・ブラウンらが世界中で訴えて回り、それまでも先駆者たちが唱えてきた「持続可能な社会とは何か」「生物多様性をどう守るのか」という問いに、人類が気づき始めた。

  これを日高流に言えば、「次世代に伝えるミームの大転換」が始まったのではないかと考える。再度、著書を引用する。「人間を特徴づけている文化は、ミームによって伝えられ、その拘束は、表面上は生物としの本能よりも強固なものになっている。ミームは複数の文化を生み、それらは反発したり、融合したりして、またミームによって次世代へ伝えられる。その過程で人間は殺し合いをしたり、生物としては死ぬ状態にあったものが延命されたりする」

 地球の支配と改造を続ければ、人類は生物として死ぬ状態にある。延命するためにどのような選択をすればよいのか、ミームがうごめき始めたのではないか。著書からこう読み取った。「人類の英知」などという政治的な表現ではなく、生物学的な表現で捉えたところが斬新でもある。

 ⇒22日(月)金沢の天気   くもり 

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★文明論としての里山18

2010年03月21日 | ⇒トレンド探査

 金沢大学が私がかかわっている「能登里山マイスター」養成プログラムの修了式が20日、珠洲市三崎町の金沢大学能登学舎で執り行われた。2年間のカリキュラム(54単位相当)を履修して、卒業課題研究の審査にパスした16人の門出である。修了生は20代から40代の社会人。とくに卒業課題研究は1年間かけて練り上げ、独自で調査して中間発表、さらに外部の専門家を含めた審査員の眼を通した審査発表という関門だっただけに、「卒業」の喜びもひとしおだったと思う。

                          持続可能社会を支える者たち

  修了生はどんな研究課題に自ら取り組んできたのか紹介する。ある40歳の市役所の職員は、岩ガキの養殖を試み、それが果たして経営的に成り立つのかと探求した。年々少なくなる地域資源を守り、増やして、生かしていこうという意欲的な研究だ。さらに、その実験を自費で行った。コストをいとわず、可能性を追及する姿こそ尊いと心が打たれた。また、32歳の炭焼きの専業者は、生産から販売までに排出する二酸化炭素が、全体としてプラスなのかマイナスなのかという研究を行った。土壌改良剤として炭素が固定されることを考慮に入れて、全体としてマイナスであると結論付けた研究だった。膨大なデータを積み上げ、一つの結論を導いていくという作業はまさに科学そのものである。しかし、自らの生業を科学することは、なかなかできることではない。その結果として逆の答えが出たら怖いからだ。そこに、果敢に挑戦し自らの生業の有用性を立証していくという勇気は感動ものである。

  修了生一人ひとりに「能登里山マイスター」認定証を手渡した中村信一学長は式辞の中で次のように述べた。「里山里海の事業について思うところを一つ述べます。産業革命以来の大量生産大量消費の社会・経済構造からのパラダイムシフトを迫られている今日、伝統文化をいかにとらえるかは、将来の指針となりえます。過去の歴史が繰り返し示すように、伝統文化は時代とともに変わらなければ衰退し消滅します。しかし、一方で、守り継承すべき遺産としての伝統文化があります。これは新たな行動の立脚点となり、迷った時に回帰できる原点でもあります。能登に残された里山里海は広い意味でとらえれば、伝統文化の一つといえます。この残された里山里海にまつわる伝統文化をいかに継承するかと同時に、その上に立つ21世紀型の新たな里山里海文化を作り出すことが今能登に求められていることです。少し具体的に言えば、伝統文化や伝統農作物に立脚した新たな農業や漁業の構築、大切に残された里山や里海の今世紀への転換などです。これらの成否は、皆さんの今後の活躍にかかっているといっても過言ではありません」

 歴史文化を有する能登の将来を担うのは諸君である、という強いメッセージが込められていたと感じた。学長が述べた、大量生産大量消費の社会・経済構造からのパラダイム変換が起きている今、人は右往左往するばかりだ。そのような中で、「能登里山マイスター」養成プログラムは環境に配慮した持続可能な社会をどのようにつくり上げていくことができるのかをテーマに学んできた。こうした、「目指すべきもの」を持った、あるいは志(こころざ)しを持った若者たちが能登半島で活動を始めているというのは、「いまここにある未来」というものを感じさせないだろうか。

  未来をつくり上げるのは若者しかいないと思う。彼らの前にはおそらく困難も立ちはだかることだろう。日本、そして世界は一筋縄ではなく、混沌としているからだ。そんな中、志しを高くして進む者のみが未来の扉を開くことができるのだ。持続可能な社会というのはこのような若者が社会を支えて持続していくのだと考えている。「能登里山マイスター」養成プログラムは60人以上のマイスター育成をめざす。60人が動き出せば、能登の風景も変わると思う。

 ⇒21日(日)朝・京都の天気  くもり(黄砂)

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☆文明論としての里山17

2010年03月07日 | ⇒ランダム書評

 アメリカの農業というと、大規模経営による「農業の工業化」や、除草剤や病害虫に抵抗性を持つ遺伝子組換え農作物(トウモロコシや大豆など)といったイメージが強い。そのアメリカで地産地消(Buy Local)運動が盛り上がっている。このシリーズ15回目でも述べたCSA(Community Supported Agriculture)と呼ばれる取り組みである。『食料危機とアメリカ農業の選択』(食糧の生産と消費者を結ぶ研究会編・家の光協会・2009)から引用するかたちで紹介する。

           今アメリカで起きている地域と農業のうねり

  まず、この本を手にした経緯から。今月4日と5日、金沢大学が能登半島で展開して「能登里山マイスター」養成プログラムなどを見学させてほしいと、愛媛大学社会連携推進機構から村田武特命教授ら3人が訪れた。村田氏は欧米の農業政策などが専門で、CSAやスローフードなど生産者と消費者を結ぶ動きにも詳しい。そこで、能登に足を運ばれたついでに、新年度の同プログラムの授業をお願いしたところ、快く引き受けていただいた。講義は「世界の農業と家族農業経営~アメリカの『コミュニティが支える農業』(CSA)運動~」と題して。その講義の参考文献としてリストアップして頂いたのが、村田氏が執筆に加わった上記の本である。ちなみに、講義は4月23日(金)午後6時20分から、能登空港ターミナルビルで。一般公開型の授業なので誰でも自由に聴講できる。

   『食料危機とアメリカ農業の選択』の要点を抜き出してみる。金融資本主義など経済のグローバリゼーションの恩恵を受けたアメリカでも、富は一部の産業と階層に集中し、経済格差が拡大して、市民や農業者は「貧困化」しつつある。こうした格差に加え、アメリカの食料をめぐる問題は、貧困層ほど良質な生鮮食料品を入手できず、その食事が、カロリーは高いが栄養的にはバランスの悪い「ジャンクフード」と呼ばれる食品に偏っている。さらに日本でもヨーロッパでも忌避されているのがアメリカの遺伝子組み換え(GM)作物だ。アメリカでは、害虫抵抗性や除草剤耐性などの形質を2つ以上保有する「スタック(Stack)」と呼ばれる新たなGM作物が台頭し、作付面積が拡大している。2008年に農業法が「食料・保全・エネルギー法」と改正され、GMトウモロコシを使ったバイオエタノール増産が加速した。どのような害虫抵抗性がGMトウモロコシにあるのかというと、これまで茎の内部に入り込んでトウモロコシを食べてしまうアワノメイガを駆除するため農薬散布を行ってきた。が、アワノメイガは茎や実の中に入り込んでしまうため外からの殺虫剤散布は効果が少ないとされてきた。そこで、遺伝子組み換えが施されたアワノメイガ耐性のBtコーンでは、Btたんぱく質を食べたコブノメイガ幼虫が消化管にダメージを受けることによって駆除される。このことで、農薬散布の手間が省け、作業労力の軽減、燃料コスト削減などのメリットがあるとして、Btコーンが飛躍的に拡大したのである。

  しかし、生産者はそれでよいかもしれない、あるいはエタノールの生産だったらそれでよいかもしれないが、そうしたGM作物が普及すればするほど、違和感を感じる人々が本場アメリカでも増えていて、有機農法で栽培された農作物を求める動きが高まっている。これが、今アメリカで起きているCSA運動のバックグラウンドとしてある。アメリカのCSAは日本語で「地域が支える農業」とも呼ばれ、1970年に公害問題を背景に広がった日本の有機農業運動の「産消提携」と似た仕組みを持っている。有機農家と消費者グループが契約を結び、農家は可能な限りの多種多様な農産物(主に野菜)を生産し、農産物の詰め合わせセットをつくり、毎週消費者グループへ配給する。

  アメリカのCSAの特徴は次のようにまとめられる。第1に、農業経験のない新規の就農者によって農場が経営される場合が多い。異業種から若者がCSA農家に弟子入りしてノウハウを学び、独立するケースが多い。第2に、消費者や都市住民からの働きかけでCSA農場を開設するケース。消費者が農場を確保して、そこでSCA向けの野菜をつくってくれる農業体験者を探して来てもらう。第3に、農場の運営組織はNPO法人や協同組合が多く、農作従事者と農場経営者が分離されている。つまり、組織運営や投資は消費者側が行っているいる。第4は、第3とリンクするが、経営継承は親から子へではなく、CSA農場にふさわしいと認められた人である。第5は、農場の所有形態。都市に住む消費者が主導なので、都市近郊の農場のケースが多い。

  著書では、ワシントン州シアトルにある「CSAルート・コネクション」という農場の例が挙げられている。経営面積は6.4ヘクタール。栽培のための労働者はフルタイム8人、パートタイム2人、ボランティアが15~20人。ボランティアはすべて女性で、毎日2人がローテーションを組み、1週間に5時間以上働くとレギュラーの詰め合わせセットの野菜がもらえる。農場では豆、ニンジン、トウモロコシ、レタスなど17種を作付けしている。農場を支える会員は560世帯。会費は2009年度で623ドル、前払いである。この前払い制度が生産者の安定した雇用と収入を保証している。会員はシアトル市内など3ヵ所に設けられた「ドロップ・オフ・サイト」と呼ばれる配布所に野菜セットを毎週取りに行く。また、会員が野菜を直接収穫することができる畑「ユーピック」もある。会員に配布した後に余った野菜は福祉団体に寄付される。また、長期間メンバーだった会員で世帯主が死亡した会員には無料で配布するという扶助的な活動も行われる。持続可能な運営を目指し、毎週ニュースレターを出すほか、料理のレシピを配布して料理教室を開催するなど会員拡大の活動も併せて行っている。

  このようなCSA農場は2006年に全米で1308ヵ所だったが、2008年には2236ヵ所に急増、さらに増えているという。一つのムーブメントになっているのだ。また、オーガニック農産物を専門に扱うスーパーマーケットも出現しており、「ホールフーズ・マーケット」という店は地域の農産物にこだわって販売し、「ローカルを買う10の理由」というパンフレットを店で配布している。その「理由」とは、1)季節と連結して暮らす、2)農場から食卓までの距離を短くする、3)新鮮な生産物を得ることができる、4)生産物をもっと楽しむ、5)生産者の顔が見える、6)地域の仕事を支援する、7)地域のコミュニケーションを支援する、8)自立した農家を支援する、9)生活できる賃金を農家に払う、10)責任ある土地開発を支持する・・・である。

  資本主義の総本山といわれるアメリカで、今起きている地域の新しいうねりを『食料危機とアメリカ農業の選択』を通じて紹介した。

 ⇒7日(日)朝・金沢の天気 はれ 

コメント (2)
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