自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★ 北朝鮮の弾道ミサイルが日本海に 脅かされる能登の漁業

2024年05月30日 | ⇒ドキュメント回廊

  北朝鮮がまた日本海に向けて弾道ミサイルを発射した。防衛省公式サイト(30日付)によると、北朝鮮はきょう午前6時13分ごろ、複数の弾道ミサイルを内陸部から北東方向の日本海に向けて発射した。発射された弾道ミサイルのうち少なくとも1発は最高高度が100㌔、350㌔以上飛行した。

  北朝鮮は今月27日午後10時43分にも北西部沿岸地域の東倉里地区から、黄海に向けて衛星打ち上げを目的とする弾道ミサイル技術を使用した発射体を打ち上げた。発射から数分後に黄海上空で消失した。北朝鮮による弾道ミサイルの発射は、27日の「衛星」打ち上げを含めて今年6回目となる。

  このニュースを不安に感じているのは能登半島の能登町小木漁港のイカ釣り漁業者ではないだろうか。中型イカ釣り船=写真=の7隻が来月6月にスルメイカ漁に日本海に向け出漁する予定でいる。不安に感じているというのも、小木漁港の関係者にとっては苦い過去の事例もある。

  領海の基線から200㌋(370㌔)までのEEZでは、水産資源は沿岸国に管理権があると国連海洋法条約で定められている。ところが、北朝鮮は条約に加盟していないし、日本と漁業協定も結んでいないことを盾に、日本海は自国の領海であると以前から主張している。1984年7月、北朝鮮が一方的に引いた「軍事境界線」の内に侵入したとして、小木漁協所属のイカ釣り漁船「第36八千代丸」を銃撃し、船長が死亡、乗組員4人を拿捕。1ヵ月後に「罰金」1951万円を払わされ4人は帰国した。

       日本海への弾道ミサイルの発射、自国の領海との主張、こうした北朝鮮の理不尽な振る舞いに脅かされているのが能登のイカ釣り漁業の現状だ。そして、日本人拉致の1号事件も1977年9月に能登町宇出津の湾で起きている。

⇒30日(木)夜・金沢の天気   はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆「家にも区切り」を 公費解体で全壊と半壊の隔てなく

2024年05月29日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登の被災地の撤去作業がまったくと言っていいほど進んでいない。これまで被災地を17回めぐったが、現地はそのままだ。住宅の全壊は8221棟、半壊は1万6584棟(5月23日・石川県まとめ)にも及ぶが、ほとんどそのままの状態だ。復旧・復興の光景が見えない。そんな中、環境省と法務省がようやく重い腰を上げた。建物が全壊などでその機能が明らかに失われた場合、所有者全員の同意がなくても、当事者からの公費解体の申請を受けて、自治体の判断で解体作業が行えるようになった。両省が関係自治体に通知を出した(5月29日付・メディア各社の報道による)。

  これまで公費解体には、相続上で権利を有するすべての人の同意(実印)を得ることが必須条件となっていて、被災した当事者が市町に公費解体の申請をする際のネックとなっていた。それが、全壊の場合だとすべての人の同意を得なくても、自治体の判断で公費解体が可能になった。(※倒壊した輪島市内の家屋=2月5日撮影)

  能登では、代々同じ場所に住み続けていることが多く、代替わりしたからと言って住宅の名義を変更するというケースは少ない。住宅の名義が曾祖父であったりする場合だと、相続の関係者は数十人にも及ぶことにもなる。この数十人と日ごろ連絡が取れていれば問題はないかもしれないが、中には疎遠になって住所も分からないというケースも多くある。なので、今回の全員同意は不要の措置は復旧・復興に向けて一歩前進だろう。

  ただ、いくつか問題もある。半壊の場合だ。「建物の機能を失った」とみなされる住宅は1階部分が完全につぶれたり、焼失したりするケースなどに限られる。半壊などの場合は従来通り全員の同意が必要となる。半壊でも家を修復してなんとか住めるようなれば問題はないだろう。しかし、現実は今後解体するしかないという半壊の住宅が圧倒的に多いのではないだろうか。

  家には家族の思い出が詰まっている。しかし、その家が使えなくなった場合、人生と同様に「家の区切りもつけたい」、そう願う持ち主も多いだろう。全壊と同様に半壊であっても、後々の訴訟リスクが伴わないようにすみやかに公費解体を進めることで持ち主の気持ちも晴れるのではないか。

⇒29日(水)夜・金沢の天気     はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★「最速初優勝」大の里の躍進 震災復興に弾みを

2024年05月27日 | ⇒ドキュメント回廊

  大の里の「最速初優勝」の続き。大の里は2月6日に同郷の遠藤(穴水町出身)、輝(七尾市出身)とともに能登半島地震の被災地の避難所4ヵ所を訪れている。地元メディアによると、最初に訪れたのは、大の里の祖父が暮らす内灘町の避難所だった。同町では、能登半島地震による揺れと液状化現象で、住宅123棟が全壊、524棟が半壊となるなど大きな被害が出ている。町の避難所で大きな拍手で迎えられ、大の里は「母親が内灘町出身で、おじいちゃんにも久しぶりに会えた。来られてうれしい」と話し、「今後も明るい話題を届けたい」と土俵での健闘を誓った。

  次に、3人は輝のふるさと七尾市の避難所2ヵ所を訪れ、記念撮影やサインを記すなどして被災者を激励して回った。同市石崎町出身の輝はまさに同郷の大先輩である第54代横綱の輪島大士(1948-2018)のことを移動中の車の中などで語ったことだろう。あるいは移動途中に、地元の中学の敷地の中にある「輪島大士之碑」を見学したかもしれない。この石碑には、初土俵から3年半で横綱へ駆け上がるまでの功績が記されている。同市では4月6日に春巡業が予定されていたが、地震を受け見送りとなった。3人の会話の中では、「(巡業を)やりたかったな」と残念がったことだろう。

  最後に3人が訪れたのは遠藤のふるさと穴水町の避難所だった。ここで遠藤は「元の日常に必ず戻れると信じている」と被災者にエールを送った(2月7日付・北國新聞)。会場には、遠藤が子ども時代に通った相撲教室の関係者や、同教室で主将を務める小学4年の男児も来ていて、「笑顔が見られてよかった。元気を届けるために来たが、逆に励まされた」と語った(同・北陸中日新聞)。

  各避難所では郷土3力士のそろい踏みに被災者は励まされたことだろう。そして、3力士も笑顔で迎えられ、勇気もらったに違いない。それが今場所の結果に出た。大の里は夏場所の千秋楽で初優勝を果たした。遠藤は今場所、幕内から陥落して8年ぶりの十両となったが、12勝の好成績で終えた。同じく十両の輝は11勝だった。

  新聞メディア各社はけさの一面で大きく報じている。そして、地元紙はきのう夜に号外を出している。郷土力士の躍進とともに、震災復興に弾みを付けたい。そんな思いが伝わって来る。

⇒27日(月)午前・金沢の天気   くもり時々はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆被災地への「最高の励まし」 郷土石川の大の里が初優勝

2024年05月26日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登の人たちは相撲が好きだ。おそらく、避難所生活の中でも今夜はこの話で盛り上がっているに違いない。きょう石川県津幡町出身の小結・大の里が夏場所の千秋楽で関脇の阿炎を破って初優勝を果たした。大の里は去年夏場所で初土俵を踏んでいて、7場所目での優勝は幕下付け出し力士では同じ郷土出身の輪島の15場所を大幅に更新する記録となった。

  NHKはニュースでこの快挙を繰り返し流している。立ち合い、阿炎がもろ手突きにいくものの大の里は動じない。前への圧力をかけると、右差し、左のおっつけから一気に押し出し。最高の相撲で優勝をもぎ取った。県内出身の力士による幕内優勝は、1999年名古屋場所で金沢市出身の関脇・出島が果たして以来25年ぶり。

  大の里は2019年に日体大1年で全国学生選手権を制して学生横綱となり、県内では注目されていた。その後、国体でも成年の部個人で優勝を飾っていた。2023年の夏場所で初土俵を踏む。今年1月の初場所で新入幕し、2場所連続で11勝を挙げ、初土俵から所要6場所で小結に昇進。7場所目での初Vはまさに「スピ-ド優勝」。(※写真・上は夏場所で優勝を果たした大の里=NHKニュースより)

  冒頭で述べた、能登の人たちが話題にしているだろうと憶測するのが、あの「黄金の左」と呼ばれた第54代横綱の輪島(1948-2018)との比較だ。半島の中ほどにある七尾市出身で、能登の「大相撲レジェンド」と言えば何と言っても輪島だ。その輪島は1973年夏場所、15場所目で優勝を果たした。大の里は7場所目なので、その比較をめぐって話が盛り上がっているに違いない。ちなみに、津幡町は能登半島のつけ根に位置していて、地理的にも歴史的にも能登と近く、衆院選挙区は同じ石川3区になる。その意味で大の里の優勝は能登の人々にとって身近な人物の快挙なのだ。

  もう一人、能登と大相撲を語るに欠かせない人物がいる。阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)、江戸時代に活躍した第6代横綱だ。いまの能登町七見地区の出身。通算成績は230勝48敗。ちょっと癖もあった。立合いでよく「待った」をかけた。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし」と阿武松の取り組みを言葉にしたほどだった。先月15日に阿武松緑之助の石碑がある七見地区で行って来た。石碑は震災の被害もなく堂々としたたたずまいだった=写真・下=。

  大の里には、こうした郷土石川の先輩のようにひと癖もふた癖もある横綱に出世してほしい。これが能登の被災地の人々を励ます最高のメッセージにもなる。

⇒26日(日)夜・金沢の天気    はれ時々くもり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★震災にめげない 商売にはげむ輪島の朝市おばさんたち

2024年05月25日 | ⇒ドキュメント回廊

  それにしても輪島の朝市おばさんたちのたくましい商魂には感心する。メディアなどによると、きょう25日は愛知県豊川市の商業施設で10店舗ほどが朝市を開いている。今月11日には神戸市東灘区の商店街の祭りで開いていた。ほかにも、金沢市内などで何度か開いている。3月23日に初めての出張朝市が金沢市の金石港で開かれたので見学に行ってきた。朝市のトレードマークにもなっているオレンジ色のテントで店を構え、30店舗ほど並んで岩のりやアジやホッケの干物といった朝市の品ぞろえで金沢の客を呼び込んでいた=写真=。

  冒頭で「たくましい商魂」と述べたのも、発災後も気持ちが萎えることなく各地に出かけて商売をしているからだ。おばさんたちには2つのタイプがある。ひとつは朝市に場を確保して売るタイプ、もう一つが「ふり売り」というリヤカーでの行商するタイプだ。ふり売りの場合、さらに軽トラックで他地域を回るという進化系もある。地震後に出張朝市という新たなスタイルで商売を展開しているのも、こうした多用な方法での売りの経験を積んでいることもあるのだろう。

  おばさんたちは早朝に輪島漁港で水揚げされた鮮魚を買い付けて下ごしらえ、さらに干物も併せて、テントやリヤカー、軽トラで商いをしていた。ところが、震災で輪島漁港の海底が隆起して漁船200隻余りが漁に出れない状態がいまも続いている。そこで、おばさんたちは避難先でもある金沢漁港で魚を仕込んで出張朝市の品ぞろえをしているようだ。この一連の臨機応変な対応には感服する。

  さらに驚くことがある。商売をしているだけと思いがちだが、テントの出張朝市を実際にのぞくと、売り手と買い手のおばさんたちのやり取りが傍から聞いていて面白い。朝のニュースの話から晩ご飯の話まで、テントの中が多様なコミュニケーションの場となっていた。これは輪島の朝市やリヤカーでも同じ。近所のおばさんたちが集まり、楽しそうに世間話をしながら商売が行われていたことを思い出す。

  きょう地元メディアに、出張朝市が来月8、9日の両日に石川県白山市の白山比咩神社で開かれるとの記事があった(25日付・北國新聞)。この日は同神社で「御贄講(みにえこう)大祭」という、加賀地方の漁業者が海上安全と大漁を祈願する伝統の祭りが営まれる。神社側が朝市と被災地の漁業の復興を応援しようと出張朝市の開催を企画したようだ。神社側からの誘いなので、朝市おばさんたちにとっては朗報だったろう。震災にめげない朝市おばさんたちだ。

⇒25日(土)午後・金沢の天気    はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆「復興先導プロジェクト」って何だ~4 能登キャンパスで学ぶ

2024年05月24日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島地震の後で亡くなった人を災害関連死とするかどうかを判断する石川県と3市町(輪島市、珠洲市、能登町)の合同審査会(委員構成=弁護士3人、医師2人)が今月14日に非公開で行われ、申請のあった35人のうち30人について関連死と認められると判断された。これを受けて、3市町はきのう(23日)、30人について関連死を正式認定した。

  輪島市は遺族の同意を得て、関連死についての死因などを公式サイトで公表している。それによると、80代の女性の場合、「近隣のビニールハウスに避難しており、トイレが使用できないため近くの畑へ行き転倒、自力で動けない状態となり、低体温症のため死亡」、また、60代の男性の場合、「避難所への避難による生活環境の激変により心身に相当の負荷が生じ、専門的な医療を受けることができない状況で基礎疾患が悪化した結果、肝不全のため死亡」。日常ならば救える命が被災地でこうして亡くなるとは、じつに痛ましい。

  前回ブログの続き。能登半島地震を超えて新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを石川県が掲げる『創造的復興リーディングプロジェクト』。13の取り組みのうち、今回は【2】能登サテライトキャンパス構想の推進、を取り上げる。

  「サテライトキャンパス」は聞き慣れない言葉。大学など教育機関の本部から地理的に離れた場所に設置されたキャンパスのことを意味する。2011年3月に「能登キャンパス構想推進協議会」という、県内の大学と能登の4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)が連携する組織が創られた。大学などの教育機関がない能登を一つの大学キャンパスに見立て、学生の交流や教育研究、地域貢献などの活動を行う。いまも「能登キャンパス推進協議会」と名称を一部変更し、金沢大の理事・副学長が会長となり活動を継続している。

  能登キャンパスの活動のなかで注目を集め、地元から喜ばれているのが「祭りの環(わ)」プロジェクトだ。穴水町の沖波大漁祭り、能登町の矢波諏訪祭、輪島市の黒島天領祭、珠洲市の粟津の秋祭りについて、事前に学生たちが祭りの歴史などを学び、当日に担ぎ手として参加する。地域にとって、高齢化と人口減少で担ぎ手が足りない中、まとまった数の学生たちが参加してキリコや曳山が動くことはじつにうれしい話だ。自身も金沢大の教員時代に学生や留学生を連れて何度か参加したが、地域の人たちから「若い人たちが来てくれて、祭りが明るくなった」と喜ばれたことが印象に残っている。

  リーディングプロジェクトの【2】能登サテライトキャンパス構想の推進の取り組みは、県が能登キャンパス推進協議会と連携して、【9】能登の「祭り」の再興を目指すのだろう。実績を踏まえた取り組みになる。そして何より、学生たちにとっては、祭りの参加を通じて、被災地の実情を見て、被災者から話を聞いて学ぶチャンスではないだろうか。

(※写真は、2017年8月の輪島市門前町の黒島天領祭の曳山。先導役が「山2つ」と声をかけると、山側方向に棒を2度押す。学生たちもエネルギーが試される)

⇒24日(金)午前・金沢の天気   はれ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★「復興先導プロジェクト」って何だ~3 祭りと能登人の気概

2024年05月23日 | ⇒ドキュメント回廊

       能登半島地震を超えて新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを石川県が掲げる『創造的復興リーディングプロジェクト』。13の取り組みのうち、今回は【9】能登の「祭り」の再興、の可能性を探ってみる。

  祭りが能登復興のリーディングプロジェクトとして掲げられたのも、能登では「1年365日は祭りの日のためにある」、「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」という言葉があるくらい能登人は祭りが好きだからだ。ところが、震災で能登で一番大きな祭りとして知られ、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている七尾市の青柏祭(5月3-5日)の曳山巡行が中止となった。地元で「でか山」と呼ばれる曳山の大きさは高さ12㍍、ビルにして4階建ての高さ=写真・上、七尾市役所公式サイトより=。地元の人たちも「日本で一番でかい」と自慢していただけに、「やっぱりダメか」と地元だけでなく、能登にもショックが走った。

  「青柏祭でか山保存会」が総会(2月14日)を開き、中止を決めた理由は道路事情だった。曳山の巡行ルートが地震で大きく破損しており、安全確保ができないとの一致した意見だった。確かに、でか山の車輪は直径が2㍍もあり、道路に亀裂やおうとつがあっては運行もままならないだろう。今回、リーディングプロジェクトに祭りが掲げられたことで、来年開催に向けて巡行の市道・県道の修復が進むのではないだろうか。  

  一方、能登で一番勢いのある祭りとして知られるのが、能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭り」(7月5、6日)だ。この祭りは曳山巡行ではなく、地元でキリコと呼ぶ「切子灯籠(きりことうろう)」を大人たちが担いで巡行する。なので、道路に少々のおうとつがあっても足元に気をつければ動かすことは可能だ。「あばれ祭り」の開催について話し合う運営協議会が3月27日に開かれ、実施する方針を確認した。2日間にわたって40基のキリコが繰り出し、広場に集まって、松明(たいまつ)のまわりを勇壮に乱舞する=写真・下、日本遺産公式ホームページより=。神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。祭りは暴れることで神が喜ぶという伝説がある。

  ただ、キリコの材料を作る製材所と、神輿を製作する工務店が地震で作業場や仕事道具が壊れたりしたため、地元の有志らがクラウドファンディングで復旧に必要な資金を募っている。また、祭りは志納(寄付金)によって賄われている。これまで祭りを支援してくれた人々の中には被災者もいることから、例年より寄付金が少なかった場合はキリコの本数を減らすなど内容の変更せざるを得なくなる。こうした点は、リーディングプロジェクトの予算でカバーしてほしいものだ。

  あばれ祭りは夏から秋にかけて能登各地で行われるキリコ祭りの先陣を切る代表的な祭りでもある。まさに、能登復興へのリーディングなキリコ祭りに期待したい。

⇒23日(木)午後・金沢の天気   はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆「復興先導プロジェクト」って何だ~2 トキが能登の空を舞う

2024年05月22日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島地震の災害からの復興のために石川県が提示した『創造的復興リーディングプロジェクト』の13の取り組みで、自身にピンと来たのは【10】震災遺構の地域資源化に向けた取り組み、そして、【12】トキが舞う能登の実現、の2つだった。前回の震災以降に続いて、今回はトキが舞う能登の空について。

  かつて、「日本の本州で最後の一羽」と呼ばれたトキが能登にいた。「能里(のり)」という愛称で呼ばれていた。オス鳥だった。能登には大きな河川がなく、山の中腹にため池をつくり、田んぼの水を蓄えていた。そのため池にはトキが大好物のドジョウやカエル、ミミズなどがいた。能登半島の中ほどにある眉丈山では、1961年に5羽のトキが確認されている。ただ、田んぼでついばむエサには農薬がまみれていた。1970年に能里が本州で最後の一羽となる。

  当時、新潟県佐渡には環境省のトキ保護センターが設置させていて、能里は人工繁殖のために佐渡に送られることになる。ところが、翌年1971年3月、鳥かごのケージの金網で口ばしを損傷したことが原因で死んでしまう。当時、能登の人たちは「佐渡に送らなければ、こんなことにならなかったのに」と残念がった。

  あれから半世紀、佐渡では500羽余りのトキが野生で生息するようになった。環境省は2022年にトキを本州で放鳥することを決め、能登と島根県の出雲市で放鳥する計画を発表した。その放鳥は「2026年以降」となっているので、早ければ2年後の2026年に能登の空をトキが舞う日がやっていくる。石川県では去年、5月22日を「いしかわトキの日」と決め、ムードを盛り上げている。(※写真は、輪島市三井町洲衛の空を舞うトキ=1957年、岩田秀男氏撮影)

  能登の人たちのトキへの想いはまだある。トキが能登の空を舞う日は希望の光でもある。2026年めがけてトキの放鳥が着実に行われることを期待したい。

⇒22日(水)午前・金沢の天気    はれ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★「復興先導プロジェクト」って何だ~1 震災遺構のこと

2024年05月21日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島地震から140日余りとなる。石川県はきのう20日、復旧・復興本部会議を開き、馳知事がこれまで繰り返し述べてきた「創造的復興」に向けた計画案をまとめた。その計画案は「石川県創造的復興プラン (仮称)」として県庁公式サイトで公開されているので、自身の解釈でまとめてみる。

  創造的復興プランのスローガンは「能登が示す、ふるさとの未来 Noto, the future of country」。新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを『創造的復興リーディングプロジェクト』と位置付ける。4つの柱で構成される。▽教訓を踏まえた災害に強い地域づくり、▽ 能登の特色ある生業(なりわい)の再建、▽暮らしとコミュニティの再建、▽誰もが安全・安心に暮らし、学ぶことができる環境・地域づくり

  リーディングプロジェクトの具体的な施策は13の取り組みとして示されている。
【1】復興プロセスを活かした関係人口の拡大
【2】能登サテライトキャンパス構想の推進
【3】能登に誇りと愛着が持てるような「学び」の場づくり
【4】新たな視点に立ったインフラの強靭化
【5】 自立・分散型エネルギーの活用などグリーンイノベーションの推進
【6】 のと里山空港の拠点機能の強化
【7】利用者目線に立った持続可能な地域公共交通
【8】奥能登版デジタルライフラインの構築
【9】能登の「祭り」の再興
【10】震災遺構の地域資源化に向けた取り組み
【11】能登半島国定公園のリ・デザイン
【12】トキが舞う能登の実現
【13】産学官が連携した復興に向けた取り組みの推進

  以上の取り組みを読んで、自身にピンと来たのは【10】と【12】だろうか。被災地をこの目で確かめるため元日からこれまで17回現地をめぐっているが、被災地を見ようと訪れている人が回を重ねるごとに増えている印象がある。インバウンドの人たちもよく目にする。戦災地や被災地を訪れることを欧米の人たちは「ダークツーリズム(Dark tourism)」と称して、現地では最初に死者に対して哀悼の祈りを捧げてから見学に入る。復旧・復興ですべてを撤去するのではなく、特徴的な現場を遺構としてのこし、世界の人たちに震災を語り継ぐ場として提供してもよいと思う。

  もちろん、震災遺構については行政が勝手に決めることではない。被災地の人たちの心情に配慮し、丁寧に合意形成を図りながら作業を進めていくことになるだろう。この創造的復興リーディングプロジェクトについて、シリーズで考えてみたい。

(※ 写真は、3月22日に天皇、皇后両陛下が多くの犠牲者が出た輪島・朝市通りを訪れ黙礼をされた=宮内庁公式サイト「被災地お見舞い」より)

⇒21日(火)午前・金沢の天気   くもり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆奥能登国際芸術祭の作家 地域復興の願い込め動き出す

2024年05月19日 | ⇒ドキュメント回廊

  去年秋に能登半島の尖端、珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭2023(9月23日-11月12日)で心を打たれた作品の一つが、人生の生き様をテーマにした画家、弓指寛治氏の『プレイス・ビヨンド』だった。岬にある自然歩道を歩きながら、珠洲の地元で生まれ育った南方寳作(なんぽう・ほうさく)という人物が生前に残した伝記をもとにした、人生ストーリーを立て札と絵画を見ながらたどる=写真=。

  その内容が濃い。戦前に人々はなぜ満蒙開拓のために大陸に渡ったのか、そして軍人に志願したのか、どのような戦争だったのかを、立て札の文字をたどりながら、設置されている絵画を見ながら追体験していく。ただ、ストーリーが記された立て札は87枚、絵画は50点もある。立て札一枚一枚を読んで、さらに絵を鑑賞していると、いつの間にか時間が経って辺りが暗くなったの覚えている。

  その弓指氏がきのう18日、珠洲市役所を訪れ、出品した作品の売却費の一部65万円を地震の支援金として市に寄付した。また、弓指氏は同日から泊まり込んで珠洲市でボランティア活動を行う(5月19日付・北國新聞)。芸術家として深く関わった現地が地震で甚大な被害を受けたことに心を痛めたのだろう。  

  奥能登国際芸術祭の総合ディレクターである北川フラム氏は震災に関する支援を行う「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」を立ち上げている。アーティストやサポーターで構成する有志グループで、被災した人たちと協力しながら、同地の復興に寄与していくという。北川氏は述べている。「珠洲の人々と他地域の人々を結びつけるアート作品や施設の撤去、修繕、再建などを行い、珠洲に思いを寄せる人々の力を結集したいと考えます」(「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」公式サイト)。

   「ヤッサー」は珠洲の祭りの掛け声で、若い衆が力を合わせて巨大なキリコや曳山を動かすときに「ヤッサーヤッサー」と声を出して気持ちを一つにする。弓指氏も芸術への想い、地域復興への願いを一つに込めて動き出そうとしているのだろうか。

⇒19日(日)夜・金沢の天気    くもり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする