自在コラム

⇒ 日常で観察したことや環境問題、金沢大学での見聞、マスメディアとインターネットについての考察を紹介する宇野文夫のコラム

☆鼻毛大名のヒストリー

2017年05月28日 | ⇒ランダム書評

   前回(5月11日)のブログ「★気になる沖縄での動き」を書いてから、アメリカで起きたトランプ大統領をめぐる動きが気になっている。それはトランプ氏とロシア側との不適切なかかわり「ロシアゲート」疑惑の始まりではないかとメディアで騒がれている、FBIのジェイムズ・コミー長官解任事件(5月9日)だ。トランプ氏の「やましい」ところを内外に晒す格好になった。さらに、司法省は去年のアメリカ大統領選挙にロシアが介入したという疑惑を捜査するため、ロバート・モラー元FBI長官を特別検察官に任命(5月17日)。一気にロシアゲート疑惑に真実味が帯びてきた。25日にはアメリカのメディアが、FBIが、トランプ氏の義理の息子で上級顧問を務めるジャレッド・クシュナー氏の事情聴取を検討していると伝えた。

   こうした一連の動きにで気になっていることは、追い込まれたトランプ氏は何をしでかすか分からない。ひょっとして、メディアや世論の目をそらすため、北朝鮮への「斬首作戦」を実行するのではないかと。その実行の日は「★気になる沖縄での動き」で述べたように、真っ暗闇となる5月の新月、つまり今月26日だったが、注目していた動きはなかった。ただ、日本のメディアが26日にアメリカ太平洋艦隊の発表として伝えたように、アメリカ西海岸ワシントン州の海軍基地に空母ニミッツを太平洋の北西部に派遣すると発表した。朝鮮半島の近海には すでに空母カール・ビンソンとロナルド・レーガンが展開している。それにニミッツが加わることで、核実験や弾道ミサイル発射などの挑発行為を続ける北朝鮮に圧力をかけるのが狙いだろう。そして次の新月は6月24日だ。

   話はがらりと変わる。先日、知人らを誘い合って東京国立博物館に特別展「茶の湯」を見学に行った。その帰り、茶道と加賀藩の歴的な関わりなどについて造詣が深い知人からエピソードなど教わった。京都の茶道・藪内家の茶室「燕庵(えんあん)」には「利家、居眠りの柱」とういエピソードがある。京の薮内家を訪れた加賀藩祖の前田利家が燕庵に通された時、疲れがたまっていたのか、豪快な気風がそうさせたのか、柱にもたれかかって眠リこけてしまったという。こうした逸話が残る燕庵を後に利家の子孫、11代の治脩(はるなが)が1774年に燕庵を模して兼六園内に夕顔亭を造った。3代の利常には大名茶人として知られた小堀遠州の娘婿・小堀新十郎を召抱え、加賀藩の茶道の基盤をつくった。

   話はここから深みに入る。「ところで3代の利常は加賀藩が幕府から警戒されないように、鼻毛をわざと伸ばしていたんですよね」と金沢では知られた話を知人に投げると、「いや、話はまったく逆で幕府を刺激するために伸ばしていた説がある」と磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)を薦めてくれた。さっそく買って読むと、これまでの利常のイメージとはまったく異なり、目から鱗が落ちるとはまさにこのことか思った。

   金沢に育った多くの人の間では、先の「利常の鼻毛」は百万石という大藩を守るため、あえて愚鈍さを演出することで幕府の警戒感を和らげたとというのが相場である。本著は見事にそうした相場感を覆してくれる。もともと藩祖・利家は「槍の又左」と言われた剛腕で、息子の2代利長は父から豊臣秀頼公をお守りするよう厳命を受ける。ただ、時代の趨勢は徳川に傾いていて、母親まつを江戸に人質として差し出すことをバランスを取った。3代の異母兄弟であった利常は父親似で長身で体格もよかった。家康は慶長10年(1603)に引退する利長と3代として家督を継ぐ利常と面談した。利常13歳である。作者によると「利常を子どものころから徳川の色にそめていきたいと、目論んでいただのだろう」と推論し、家康は秀忠の娘・球姫を3歳にして9歳の利常に輿入れさせた史実を上げている。利常は13歳で義理の祖父・家康と初めて対面したのである。そして「松平筑前守」を名乗るように利常に名前を授けた。名実ともに「家康は前田を完全に徳川に取り込もうとしていた」。さらに、家康は側近の本多正純の弟・本多政重を家老として加賀藩に送り込む。

   秀吉側だった利家、父より厳命を受けていた利長はバランスを取ることに苦心した、そして利常は徳川家の娘婿として、22歳で大阪冬の陣に4万、夏の陣に2万5千の軍勢を整えて豊臣攻めに参戦することになる。本著で初めて知ったのだが、その後、利常は家康から国替えの話を持ちかけられた。四国一円(阿波、讃岐、伊予、土佐)である。それを利常は「加賀が本国でござりまするゆえ」と断わっている。家康は加賀が京と近く、京に上る可能性のある大名として警戒感を解かなかったのではないかと推測している。これは著者の記述だが、「前田家が北国の雪にとざされておらず、四国に巨大藩として存在していたら・・(中略)・・明治維新は加賀藩の手でなしとげられていたかもしれない」。

   こうして成長した利常は若年の家光を「いじめた」。利常は戦国時代の申し子であり、豪快に笑い、大声で怒鳴った人物、そして長身で大阪冬の陣、夏の陣でも活躍した。その大名が鼻毛の長さを気にするタイプでなかった。まさに著者が述べている。「近世という時代をひらいたこの精神は信長の生をもってはじまり、利常の死をもって終わった」。戦国動乱から天下太平の世を生き抜いた大名のヒストリーを著書から感じた。

⇒28日(日)午前・金沢の天気  はれ

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★気になる沖縄での動き

2017年05月11日 | ⇒メディア時評
   気になるニュースがあった。沖縄県の地元紙「沖縄タイムズ」のウエッブ版を読んでいたら、こんな記事だ。以下昨日(10日付)のニュースである。

  「米軍嘉手納基地上空で10日午後7時35分、パラシュート降下訓練が実施された。同基地所属のMC130特殊作戦支援機=写真=から降下し、パラシュートを開いて基地内に着地する兵士の姿が4人確認された。嘉手納町によると、夜間の訓練は少なくとも近年では例がない。沖縄県や基地周辺自治体は沖縄防衛局や外務省沖縄事務所を通じて訓練の中止を申し入れたが、米軍は強行した。嘉手納基地での同訓練は4月24日に6年ぶりに実施されて以来。…」

  このニュースをまともに読めば、アメリカ軍がはた迷惑な夜の訓練をやったとの印象だが、MC130特殊作戦支援機を使った夜のパラシュート訓練となると、ただごとではないと直感する。ウイキペディアなどになると、MC130特殊作戦支援機は赤外線暗視装置、地形追随レーダーを装備し、敵の防空網を突破することができる。その目的は敵地での特殊部隊の潜入・退去・補給、捜索救難活動の支援、心理作戦などに活用されるという。これは北朝鮮への「斬首作戦」の訓練ではないのか。

  北朝鮮への斬首作戦とは金正恩党委員長へのピンポイント攻撃のこと。アメリカによる斬首作戦で有名なのが、パキスタンでオサマ・ビン・ラディンに対して行った2011年5月2日(日本時間)の攻撃。新月(5月3日)の前日だった。つまり肉眼で感知されにくい、夜の闇の中で決行された。記事では嘉手納基地で「先月4月24日」にも実施されている。この月の新月は27日だった。さらに「6年ぶり」とある。すなわち2011月の斬首作戦には嘉手納基地から参加していたのかとも連想させる。

  国立天文台のホームページで調べると、次に夜が真っ暗闇となる5月の新月は今月26日4時44分だ。今回の沖縄での夜のパラシュート降下訓練は斬首作戦を実行する訓練なのか、あるいは相手を動揺させるための心理作戦なのか。

  韓国大統領選で当選した文在寅氏が10日夜、アメリカのトランプ大統領と電話会談を行い、北朝鮮による核・ミサイル開発の廃棄に向け、話し合ったと11日付でメディア各社が伝えている。会談の中でアメリカ側の北への圧力のカードの一つとして斬首作戦のことも当然伝えたはずだと想像する。それに、どう文大統領は答えたのだろうか。(※写真はウイキペディアより)

⇒11日(木)朝・金沢の天気   あめ  
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☆「八田與一」評価視点を変えてみる

2017年05月09日 | ⇒メディア時評

   前回に続いて、台湾・台南市にある烏山頭ダム建設を指導した金沢出身の技師・八田與一の座像の切断事件をテーマに。7日の座像修復の除幕に続いて、昨日(8日)は慰霊祭が行われた。その様子を台南市のホームページから引用する。

 ダム建設後、八田與一は軍の命令でフィリピンの綿花栽培のための灌漑施設の調査ため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。1942年(昭和17年)5月8日だった。つまり逝去75周年だ。慰霊祭は烏山頭ダム公園の座像の前で営まれ、日本側から八田與一の子孫や金沢市の山野之義市長らが出席した。ホームページによると、あいさつに立った台南市の頼清徳市長のあいさつは以下だった(要約)。

   「台南市民を代表して最高の謝意と無限の悲しい思いを込めて献花したい。ことしも無事、慰霊祭を開催することができ、また以前より多くの方々に集まってもらい盛大な催しとなった。銅像の破壊は成功しない、台湾と日本の友好も破壊されない。反対にますます友好関係は堅固で、さらに厚いものになる」
      「87年前に八田與一は烏山頭ダムを建設して、嘉南地区の土地に灌漑が整い、さらに彼はダム建設だけでなく農民を指導し、この地区は今では台湾の米所となった。台湾の農業経済を大いに発展させた。烏山頭ダムは実は同じく多くの台湾人と日本人の心の田を潅漑してくれた。私たちは水を飲むときその水源を思うべきで、内心から八田與一に感謝したい」

   上記の思いを胸に日本と台湾の友好が発展的に醸成されることを祈る。ただ、現実はなかなか難しいようだ。政治情勢は台湾の独立派と中国と台湾の統一派によるつばぜり合いとなっていて、今回のように、独立派が蒋介石像を、統一派が八田與一像を切断するといった、争いのシンボリックな出来事になっている。日本のメディア(9日付朝刊)によると、700人が参列した慰霊祭の場外では、独立派と統一派が集会を開いたようだ。統一派50人ほどが「日本人は帰れ」と叫んでダム公園のゲートに詰めかけたが200人ほどの警察官に阻まれ、大きな衝突はなかった、と伝えている。

   こうした台湾内部の政情と日本と台湾の友好関係が絡まってしまった状況をどうほぐせばよいのか。八田與一の功績は台南市長があいさつの後半で述べたように、87年前の烏山頭ダム完成からすでに地域に認められ評価は確立している。現在、台湾では「ダム水利システム」としてユネスコの世界遺産に登録しようとする動きもあるようだ。

        そこで、八田與一座像を日本と台湾の友好の象徴として強調するより、むしろ、アジアにおける農業発展のダム水利システムの先駆者としての評価を双方で高める方が、八田與一座像が政争に巻き込まれなくて済むのではないか。台南市長のあいさつから、そんなことを考えた。(※写真は台南市役所のホームページより)

⇒9日(火)朝・金沢の天気   くもり

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★切断された八田與一座像その後

2017年05月07日 | ⇒メディア時評
   このブログで取り上げた台湾統治時代に烏山頭ダム建設を指導した、金沢出身の技師・八田與一の座像の切断事件から3週間。きょう(7日)台湾・台南市役所のホームページをチェックすると、切断された座像の首から頭部の修復が完了し、きょう金沢市からの関係者を交え、除幕式が行われたと掲載されていた。  
 
 除幕式は台南市の烏山頭ダム公園であり、式には日本側から八田與一の子孫や金沢市の山野之義市長らが出席したようだ。ホームページによると、あいさつに立った台南市の頼清徳市長は「銅像の破壊者(元台北市義)は台湾と日本の友情を破壊しようとしたが、試練を経て両者の感情は本物になった」と強調した。山野市長は「銅像の破壊は残念だったが、台湾のみなさん始め頼市長が修理に全力を尽くしてくれて感謝している。地元金沢の偉人の銅像に再び会うことができ、日本と台湾の友好関係を確認できた」と述べた。また、八田與一の孫にあたる八田修一氏は「銅像が完全に修復されて、台湾のみなさんに感謝したい」と述べた。

    台湾では切断事件が相次いだ。ことし2月28日、輔仁大学(新北市)のキャンパスで蒋介石の立像の一部が切断され、学生たちが逮捕された。先月16日、八田與一の座像の首切断され、中台統一派の政治団体に所属する元台北市議が警察に出頭し逮捕された。そして先月22日の台北市の蒋介石の座像の首切断事件があった。

   修復は25年前に製作され保管されていた複製品の頭部を継ぎ合わせる方法で行われ、先月26日に完成した。修復後に再度、破壊されることを警戒して、ダムを管理する水利組合や台南市の警察が警備に当たっているようだ。(※写真は台南市役所のホームページより)

⇒7日(日)夜・金沢の天気   はれ
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☆讃岐路を旅する-下

2017年05月05日 | ⇒トピック往来

  「小豆島」から何を連想するだろうか。良質なオリーブが採れる島というイメージしかなかったが、一日限りの島めぐりでも多様な文化と歴史が匂い立っていた。

     「もろみ蔵」の黒、オリーブ畑の緑に彩られた小豆島

  4日夕方、高松港から土庄(とのしょう)港に着いた。港で待機していたホテルのマイクロバスで向かう。運転をしているスタッフは観光ガイドも兼ねていて、「いまから世界一幅の狭い海峡を渡ります」とアナウンス。実は着いた土庄港は前島という島にあり、それに接するように小豆島がある。説明によると海峡の全長は2.5㌔で最大幅は400㍍、最狭幅は9.9㍍で最狭の部分で橋が架かっている。どう見ても普通の川のようなのだがれっきとして海峡なのだ。1996年ギネスブックに申請する折に「土渕(どふち)海峡」と命名されたとか。よく考 えると小豆島は日本の縮図だ。大きな島と隣接する小さな島がより合わさって大きな島になっている。

  5日は朝からタクシーをチャーターして島めぐりをした。まず目指したのは「中山千枚田」=写真・上=。島の中ほどにあり、典型的な里山だ。8.8㌶の丘陵地に大小750枚ほどの棚田が折り重なるようにして曲線美を描いている。田植えが始まる前で、地域の人たちが田起こしや畦塗りに精を出していた。この棚田の上の湯舟山から豊富な湧き水が流れ、田を潤している。ただ、残念なことにざっと見て4分の1ほどはまだ耕作されていない。横にいた眺めていたタクシーのドライバー氏は「最近は棚田のオーナー制度で、都会の若い人たちが田んぼを耕しにやってきますので田植え前は間に合いますよ」と。棚田のオーナー制度は年間3万円の会費で、来月上旬の田植えや7月上旬の「虫送り」、9月下旬の稲刈り、10月の「農村歌舞伎」の鑑賞など農耕や伝統行事に参加できるのだと熱心に説明してくれた。確かに、それと思しき若い家族連れが何組か田んぼに入っていた。「おまけに棚田の新米20㌔がもらえますよ。お客さんもどうですか」と。北陸から来たのでと遠慮したが、それにしてもドライバー氏は優秀な「島の営業マン」だ。

  国指定の名勝、寒霞渓(かんかけい)をロープウエイで下る。4分50秒という短い乗車時間ながら、渓谷の絶景を楽しむ。途中、「あっ、おサルさんがいる」と子どもたちの声がしたので、思わずカメラを向けたが、「渓谷の猿」のシャッターチャンスは逃してしまった。

  小豆島のカタチは犬の姿にたとえられるそうだ。その後ろ脚の足の部分にあたることろに映画「二十四の瞳」(1954年)のロケ地がある。映画は1950年代日本映画の黄金期の名作の一つだが、幼いころにテレビドラマで見た程度で、正直、映画の題名や主演(高峰秀子)、原作者(壺井栄)をおぼろげながら覚えている程度だ。むしろ、1987年に田中裕子主演で再映画化されて、私より若い年代の方がこの映画を知っているのかもしれない。

  1954年版の撮影が行われた「岬の分教場」(旧・苗羽小学校田浦分校)を訪ねた。どこか懐かしい。自身が学童のころ通った木造校舎での思い出が蘇ってくる。木の机 >やイスに落書きをして先生からしかられ、前列の女子にちょっかいをかけて廊下に立たされた。そんな忘却の彼方に追いやられているような記憶が校舎という記憶の再生装置によって湧き上がってくるのだ。これって、認知症や脳のリハビリに活用できないだろうか、素人ながらそんなことを考えた。

  ドライバー氏から「醤油のもろみの匂いを嗅いだことありますか」と言われ、岬の分教場近くにある醤油の製造蔵=写真・中=に案内された。奥行きが100㍍もある立派な木造の「もろみ蔵」。ガラス越しに仕込みの樽の列が見学できる。換気口のような装置があってスイッチを押すと、蔵の内部の空気が流れてきて、「もろみ」の匂いを嗅ぐことができる仕組みだ。一瞬、黒いチョコレートのような重く香しい匂い、これが本来の醤油の匂いかと感じた。ドライバー氏から「もろみ蔵の屋根瓦がとても黒いでしょう」と言われ、周囲の家並みの屋根瓦と比べると、確かに各段に黒い。仕込み(分解、発酵、熟成)の過程で出るメラノイジンという物質の色で醤油が褐色なのもこの物質による。これが空気とともに上昇して、屋根瓦の熱で酸化して黒くな るそうだ。島には20軒余りの醤油メーカーがあるそうだ。「もろみ蔵」の黒の屋根、島のシンボルカラーかもしれない。

  タクシーでの小豆島めぐりの最終スポットは「オリーブの茶畑」=写真・下=だった。小豆島は日本のオリーブ発祥の地としても知られるが、オリ-ブオイルだけでなく、現地では葉をお茶として重宝しているそうだ。ここで、「島の営業マン」ドライバー氏が語る。「オリーブオイルは果実から非加熱で搾油できる唯一の植物油ですが、採れるオイルは重量の1%。100㌔の実か1㌔から絞れない。残りの99%はハマチの養殖や牛や豚の飼料として活用されています」。昨夜ホテルで食べた「オリーブ牛」のステーキは確かにオイルと肉の相性が引き立ち、赤ワインとの相性もとてもよかった。朝食の「オリーブハマチ」もオリーブ醤油で食するとこれもなかなかのものだった。

  復路は、土庄港から高松港へ、JR線で瀬戸大橋を渡り、岡山駅へ。新幹線で新大阪駅に行き、特急サンダーバードに乗り継ぎ。金沢駅に戻ると、時計は23時を回っていた。

⇒5日(金)夜・金沢の天気  はれ

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★讃岐路を旅する-中

2017年05月04日 | ⇒トピック往来

   きょう(4日)はJR高松駅から予讃線に乗って琴平駅に向かった。金刀比羅宮こと、「こんぴらさん」に詣でるためだ。2012年5月のゴールデン・ウイーク(GW)にも旅しているので、あれからちょうど5年だ。今回はちょっと思惑があった。5年前は本宮までの石の階段785段を二段飛びしてのぼった。62歳になり、もう一度チャレンジしたいという野心があった。

     こんぴらさんの1368段、二段飛びで挑戦

 列車内ではやはりこの歌を口ずさんでモチベーションを上げた。「こんぴら船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば四国讃州那珂の郡 象頭山こんぴら大権現 一度廻れば…」。琴平駅に着いたのは11時09分。そこから参道口に向かって歩き、石段のぼりの開始は11時30分だった。

   前回と同様に杖はあえて持たず。ひたすら二段飛びをする。旭社あたりで500段以上のぼったことになるが、さすがに脚が重くなってきた。少し休息を入れて、本宮を目指す。前に立ちはだかる急な階段「御前四段坂」に=写真・上=。652-785段に当たる。ここを一気にのぼれば本宮だ。御前四段坂を半分のぼったところでストップすることになる。GWで参拝客があふれ、階段にまで列をつくっていて、進めないのだ。ここで10分ほどかけて一段一段のぼり本宮に到着。11時55分ごろだった。

  ただ、二段飛びで785段をのぼるという当初の目的の達成感はなかった。最後の10分余りは休息のようなもので、しかも一段一段だ。余力もあったので、ここでさらに奥社までのぼることを決めた。本宮から奥社(厳魂神社)までは距離にして1㌔、石段は583段だ。奥社まで目指す人はまばらだ。その分、進みやすくなった。ただ、北原白秋の歌碑があるあたりで足腰が急に重くなるのを感じ、参道をゆっくり目でのぼる。「守れ権現 夜明けよ霧よ 山はいのちのみそぎ場所」(歌碑)。「イノシシ出没注意」の看板も横目で見ながら。

 卯花谷休憩所からはさらに急な石段続きになる。二段飛びもだんだんとおぼつかなくなる感じで足がもつれそうになる。それでも段飛びをしていると、抜き去った後ろの方から「あの人、すごいね」と聞こえ、励まされた気になる。ただ、最後の100段ほどは無謀なことをしたものだと思いながら、今度は頭がぼやけてくる感覚に襲われた。12時15分、なんとか1368段を登り切り、奥社にたどりついた=写真・中=。

 海抜421㍍から眺める讃岐富士の美しいこと=写真・下=。うれしくなって賽銭箱に千円札を投げた。二礼二拍手一礼を済ませ、今度は石段を下る。実は下りの方が危険に感じた。そのまま下ると膝がこわばって前に転倒しそうになる。そこで石段を左斜め、今度は右斜めというふうにW字を描くように降段する。本宮に戻ってくるころには爽快感で満たされていた。

  それにしても1368の石段は人生そのものだ。登り切るには決断がいる。下りはもっと慎重になる。参道の店で食べた讃岐うどんがうまかった。夕方、高松港から小豆島に向かった。瀬戸内海を滑る様に高速船が走った。

⇒4日(木)夜・香川県小豆島の天気   くもり

    

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☆讃岐路を旅する-上

2017年05月03日 | ⇒トピック往来
  ゴールデンウイーク(GW)に四国・高松を訪ねた。プライベートな旅で高松は初めて。旅する感覚というのは風景が鮮やかに見えていい。松尾芭蕉や与謝野晶子が全国を旅しながら俳句や歌をよんだというのは、場の新鮮さが感性を揺さぶったのかもしれない。

      海城・高松城跡の堀に泳ぐクロダイの群れ

  JR高松駅に3日午後、到着した。駅近くのホテルにチェックインする。ホテル10階の窓からは、海や街、山のパノラマが広がる。街の中に緑のゾーンがあるのでよく見ると、城跡のようだった。さっそく行ってみる。高松城跡だ。現在は高松市立玉藻公園となっている。なぜ、タマモと疑問が湧いた。公園の料金所(入園料200円)で手にしたパンフによると、万葉集で柿本人麿が讃岐の国(香川)の枕言葉に「玉藻よし」とよんだことにちなんで、このあたりの海は昔から「玉藻の浦」と呼ばれていたそうだ。ホンダワラなど海藻が茂る豊穣の海。海辺の近くにある高松城もかつては「玉藻城」と。

 なるほど万葉集からの地名かと想像をめぐらせながら、入ると、さっそく案内看板から与謝野晶子が名前が飛び込んできた。各地の名所を旅すると、芭蕉か与謝野晶子の名が競うように出てくる。「わだつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城龍宮のごと」。とても美しい龍宮城のようだと称賛している。

  水門と看板がかかる大きな堀池があった=写真=。手こぎ舟で天守台などめぐる「城舟体験」を楽しんでいる家族連れの姿もあった。その池を何気なく覗いてみると黒っぽい大きなさかながウヨウヨといる。コイかと思ったが、水面上で口をパクパクと開ける様子もない。よく見ると磯の魚クロダイだった。堀池と表現したが、海とつながっているのだ。干潮で水位が下がらないように、水門で水位調整している。与謝野晶子が「龍宮」と歌に盛り込んだのも、海の魚が泳ぐ海城だと言いたかったのかもしれないと勝手に想像した。

  かつての城主、高松松平家は明治維新後もこの城を大切にして守っていたようだ。明治期に老朽化した屋敷「披雲閣(ひうんかく)」を松平氏が再建したのは大正6年(1917)とパンフにある。今年でちょうど100年だ。戦後は占領軍に接収され、その後は高松市が譲り受けた。今では茶会や華展の会場として利用されている。

  高松は茶道が盛んだ。高松松平氏の藩祖、頼重が茶道三千家(表千家・裏千家・武者小路千家を総しての呼び名)の武者小路千家の始祖、千宗主を茶頭として招き、武家のたしなみとして茶の湯が地域に浸透した。ぜひ鑑賞してみたい茶碗があった。松平家が千利休に作らせたたといわれる楽焼茶碗「木守(きもり)」。ひょっとしてと思い、文化財や資料を展示する公園内の「陳列館」を覗いたが展示はされてなかった。思い付きでそう簡単に見ることができるようなお宝ではない…。いつか拝見したいものだと思い、高松城跡を後にした。

⇒3日(水)夜・香川県高松市の天気  はれ 
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★手玉に取る

2017年05月02日 | ⇒メディア時評

  「手玉に取る」という言葉がある。お手玉をもてあそぶように、人を思いどおりに操るという意味で使っている。国有地が地下のごみ撤去費用の名目で8億円余りが差し引かれ1億3千万円余りで売却されていたとされる一連の森友学園問題で、マスメディアに対応する籠池泰典前理事長のコメントなどをニュースで視聴していると、そんな言葉が浮かんでくる。手玉に取られたのは、財務省側と民進党ではないだろうか。

 先月28日、民進党のヒアリングに籠池氏が応じ、「国との土地取引の交渉の最中、たびたび昭恵氏に経緯を報告していた」と述べたという。報道によると、2014年4月、籠池氏が小学校建設を目指していた国有地に昭恵氏を案内し、財務省との交渉の内容を説明、早く工事を進めたいとの意向を昭恵氏に伝えていたという。このニュースの文脈だと、あたかも昭恵氏が国有地売却に裏で関わっていて、籠池氏が財務省との交渉過程を逐一報告していたような印象を与える。

   一人の視聴者・読者として知りたいのは、この「報告」の具体的な事実関係だ。電話での「報告」の内容だが、たとえば「おかげさまで先に見学いただいた国有地の件は何とかうまくいっています」と電話で話したとする。その相手(昭恵氏)がその一件に関わっていなくても、「それはよかったですね」と愛想で相槌を打つだろう。今度はその「報告」をもって、籠池氏が財務省側の担当者に「昭恵夫人に報告した。すると、大変喜んでおられた」と説明したとする。すると財務省側は今回の土地取引を昭恵氏も注視していると勘違いする。そのようにして、籠池氏側は財務省側の「忖度」をうまく引き出すというシナオリだ。いわば「言葉のあや」を「価値ある言語」として実体化する。

   民進党もうまく手玉に取られているという印象だ。問題の渦中の人物が言葉を公の場で発することで「証言」としての価値を付ける、「言葉の権威づけ」と言ってよい。公党である民進党のヒアリングという場は、その言葉の権威づけに最適だ。その言葉を今度は民進党が国会で政府追及の道具として活用することになる。籠池氏は衆参両院の予算委員会での証人喚問(3月23日)やマスメディアからの数々のインタビューで自らの言葉を価値化する技を磨いたのかもしれない。あるいは、天性の才能かもしれない。

⇒2日(火)夜・金沢の天気   はれ

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