自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★夢のサイズを大きくした男

2006年05月15日 | ⇒トピック往来
 怪我(けが)というダメージを受けたスポーツ選手を励ます広告というのを初めて見た。きょう15日の全国紙に掲載された建設機械メーカー「コマツ」の広告である。そのコピーには「日本人の夢のサイズを大きくしたのは、この男です。」と書かれてあった。この男とはニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手。

 コピーの続き。「松井は野球の天才ではない。努力の天才なのだ」と言い、「コマツは、どうだろう。自分たちの技術に誇りを持ち、よりよい商品づくり心がけているだろうか。」と問う。そして、最後に小さく、「松井選手の今回のケガに際し、一日も早い復帰をお祈りしております」と締めている。松井の出身地である石川県能美市に近い小松市に主力工場を持つコマツは、ヤンキース入りした直後から松井選手のスポンサーになった。嫌みのない、実にタイムリーな広告企画ではある。

 松井選手は日本時間の12日、レッドソックス戦の1回表の守備で、レフトへの浅い飛球をスライディングキャッチしようとして左手首を負傷、そのまま救急車で病院に向かい、骨折と診断された。これで巨人入団1年目の1993年8月22日から続いていた日米通算の連続試合出場は前日までの1768試合(日本1250試合、米国518試合)でストップした。現在は自宅療養が続いている。

 松井選手は逆境に強い。1992年(平成4年)、甲子園球場での星稜と明徳義塾の戦い。あの物議をかもした「連続5敬遠」が彼の名を一躍全国区に押し上げた。松井選手の父親、昌雄さんはこう言って息子を育てたそうだ。「努力できることが才能だ」。無理するなコツコツ努力せよ、才能があるからこそ努力ができるんだ、と。ホームランの数より、一見して地味に見える記録だが連続出場記録にこだわったのもプロ努力とは本来、出場記録なのだと見抜いていたからだろう。

 記録ストップは残念だろうが、新たな目標を設定し、再びバッターボックスに立ってほしい。

⇒15日(月)夜・金沢の天気   はれ
 

 
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☆東京の「金沢町内会」

2006年05月13日 | ⇒トピック往来
 東京で「金沢町内会」と呼ばれているエリアがある。東京都板橋区の一角である。その「町内会」の話は、先日訪れた国立極地研究所で聞いた。同研究所の広報担当のS氏が「金沢大学の人ですか、この地区の人たちは金沢に親しみを持っていますよ。金沢町内会と自ら呼んでいます」と。

 確かに、同研究所は板橋区加賀1丁目9番10号が所在地だ。加賀といえば加賀藩、つまり金沢なのである。加賀という地名は偶然ではない。かつて、加賀藩の江戸の下屋敷があったエリアなのである。それが今でも地名として残っている。

 歴史をたどると、参勤交代で加賀藩は2000人余りの大名行列を編成して金沢を出発し、富山、高田、善光寺、高崎を経由して江戸に入った。金沢-江戸間約120里(480㌔㍍)、12泊13日の旅程だった。そして江戸に入る際、中山道沿いの板橋に下屋敷を設け、ここで旅装を粋な羽織はかまに整え、江戸市中を通り本郷の加賀藩上屋敷(現在の東京大学)へと向かったのである。この参勤交代は加賀藩の場合、227年間に参勤が93回、交代が97回で合計190回も往来した。

 ところで、板橋区と加賀藩について調べるにうちに面白い史実を発見した。明治以降の加賀藩下屋敷についてである。新政府になって、藩主の前田氏は下屋敷とその周囲の荒地を開墾する目的で藩士に帰農を奨励した。その中に、備前(岡山)の戦国武将、宇喜多秀家の子孫8家75人がいた。実は、加賀藩の初代・利家の四女・豪姫は豊臣秀吉の養女となり、後に秀家に嫁ぐ。関が原の戦い(1600年)で西軍にくみした夫・秀家とその子は、徳川家康によって助命と引きかえに八丈島に遠島島流しとなる。豪姫は加賀に戻されたが、夫と子を不憫に思い、父・利家、そして二代の兄・利長に頼んで八丈島に援助物資(米70俵、金35両、その他衣類薬品など)の仕送りを続けた。

 この援助の仕送りは三代・利常でいったん打ち切りとなった。物語はここから続く。秀家一行が八丈島に流されるとき、二男・秀継の乳母が3歳になる息子を豪姫に託して一家の世話のため自ら島に同行した。残された息子はその後、沢橋兵太夫と名乗り、加賀藩士として取り立てられた、この沢橋は母を慕う気持ちを抑えきれずに幕府の老中・土井利勝に直訴を繰り返し、八丈島にいる母との再会を願って自らを流刑にしほしいと訴えた。同情した土井の計らいで、母に帰還を願う手紙を送ることに成功する。しかし母の返事は主家への奉公を第一とし、これを理解しない息子を叱り飛ばす内容だった。

 母に会いたいという沢橋の願いはかなわなかった。が、この話はその後、意外な方向に展開していく。当時の幕府の方針である儒教精神の柱「忠と孝」の模範として高く評価され、幕府は加賀藩に八丈島の宇喜多家への仕送りを続けるよう命じたのである。加賀藩の仕送りは実に明治新政府が誕生するまでの270年間に及んだ。そして、新政府の恩赦で流罪が解かれ、一族は内地に帰還し、加賀藩預かりとなる。一族は浮田を名乗り、前述の加賀藩下屋敷跡と周辺の開墾事業に携わることになる。前田家の援助で浮田一族の八丈島から板橋への移住は成功したのである(「板橋区史 通史編下巻」)。

 板橋区史に出ているくらいだから当地では有名な話なのだろう。とすれば、加賀という文字が地名となり、「金沢町内会」と親しみを込めて呼ばれる歴史的な背景が理解できなくもない。

⇒13日(土)夜・金沢の天気  くもり
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★都市の輪郭

2006年05月12日 | ⇒トピック往来

 ヨーロッパの中世都市では城を中心に都市を囲む城壁が築かれた。ことし1月に訪れたイタリアのフィレンツェでも石垣で構築された城壁が残っていて、防備ということがいかに都市設計の要(かなめ)であったのか理解できた。多くの場合、川の向こう側に城壁が設けられ、その城壁が破られた場合、今度は橋を落として堀にした。城壁と川の二重の防備を想定したのだ。

  先月15日に金沢市の山側環状道路が開通した。寺町台、小立野台という起伏にトンネルを貫き、信号を少なくした。このため、この2つの台地をアップダウンしながら車で走行したこれまでに比べ15分ほど時間が短縮したというのが大方の評価となっている。この道路は金沢市をぐるりと囲む50㌔に及ぶ外環状道路の一部で、今回は山側が開通し、海側は工事中だ。

 この道路を車で走りながら、思ったことは、外側環状道路は金沢という「都市の城壁」を描いているかのようである。これまで、金沢の都市計画が市内の中心部がメインに構成され、道路の幅何㍍などといったことが中心だった。が、この道路が完成するにつれて金沢という都市の輪郭がある意味ではっきりしてきたというのが実感だ。これは今後の都市計画を策定する上で、キーポイントとなる。道路計画や民間の宅地開発プランが外側がはっきりしたことで策定あるいはセールスがしやすくなったのではないか。

 先に述べたフィレンツェも城壁の内側がすこぶる整備された都市なのである。人が濃密に交流する場ができ、そこへのアクセスが容易になることは都市機能としては重要だ。これによって、都市で熟成される文化もある。フィレンツェの場合、ミケンランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチなどイタリア・ルネサンスの巨匠を生んだ。現在でもたかだか37万人ぐらいの都市で、である。

 金沢の外側環状で面白いのは、偶然かもしれないが、金沢大学、金沢星稜大学、金沢工業大学、北陸科学技術先端大学院大学(JAIST)など大学のロケーションが外側環状道路でつながっていることだ。その意味で、道路を介してさらにお互いが近く親しくなればと思っている。それにして面白い道路ができたものだ。あとは地元の人がこの「都市の輪郭」という道路をいかに活用するか、であろう。

⇒12日(金)夜・金沢の天気   はれ 

  

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☆サッカーボールを手にする松井

2006年05月09日 | ⇒トピック往来
 あの松井秀喜選手はどうなっているのか、楽しみにしていた。きょう(9日)、久しぶりに東京のJR浜松町駅にきた。なんと、松井選手はサッカーボールを持っていた。駅構内の広告のことである。なぜ松井がサッカーボールをと思うだろう。答えは簡単。松井のスポンサーになっている東芝はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のスポンサーでもある。その大会に東芝は2000台以上のノートパソコンを提供するそうだ。理由はどうあれ、サッカーボールを持った松井選手というのは珍しいので、その広告をカメラで撮影した。

 JR浜松町駅近くに東芝の本社があり、ここでしか見れない、いわば「ご当地ポスター」のようなもの。去年の大晦日に見た松井選手の広告は本物のゴジラと顔を並べていた。

 そのヤンキースの松井選手は日本時間の8日、レンジャーズ戦で5番・指名打者で先発出場し、5号となる3ランホームランを放ってヤンキースを勝利に導いた。絶好調のようだ。

 話は戻るが、サッカーボールの松井の表情が実に硬く、ゴジラと並ぶ松井とは大違いだ。以下は想像である。この広告のクリエイターはおそらくサッカー日本代表のユニフォームを松井に着せたかったに違いない。しかし、内部で反対論が出た。松井がサッカーボールを持つことに違和感を持つファンもいるはずで、ましてやユニフォームとなると反感に変わるかもしれない。そこはスポンサーならびに松井のマイナスイメージにならないよう慎重に、と。で、「にやけた松井」ではなく「しまった松井」で日本代表の心強い応援団というイメージを演出することになった。ダークブルーのスーツも感情の抑えの心理的効果がある…などなど。この広告を眺めながら、デザインをめぐり揺れ動いたであろうコンセプト論議を想像してみた。

⇒9日(火)午後・東京の天気  はれ
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★ブログの技術-23-

2006年05月08日 | ⇒ノウハウ検証

 季節の変化を追いかけよう。季節の変わり目は実は多様な写真が撮れるし、それに伴って文章もかけるものだ。ブロガーにとって一番生き生きとするのがこの季節の変わり目だろう。

    テー「季節の変わり目を撮る」  

 春から初夏への表現は文章で書くより、写真で見せたほうが一番分かりやすい。写真は、私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」の前庭にある菜の花畑と鯉のぼりが泳ぐ風景である。夕方の逆光写真であるものの、日差しが注いで初夏への切り替えが行われる自然の季節移動というものがまさに実感できる瞬間だった。

  少々大仰に表現すれば、鯉のぼりに生命感を、菜の花に季節感を、そして里山の古民家に人間の存在感を感じないだろうか。私はそんなテーマでアングルを構成してみた。実は、上の写真は午前中から狙っていたが、風が少なく鯉のぼりに勢いがなかった。夕方になって山からの海に向かう風が強くなってきたので、ようやく思いのアングルになってくれた。

  ところでカメラだが、私は携帯電話のカメラでも十分という主義だ。ブログの場合は画像を圧縮するので、それだったら最初から1メガピクセルの携帯電話カメラで撮ればよいとも思っている。問題はシャッターチャンスだと思っているので、常に持ち歩いているカメラが便利だ。思いのアングルを決めてチャンスを待つ。どの場所、角度から撮ったらよいかイメージトレーニングをしておくのもよい。

 ⇒8日(月)夜・金沢の天気   はれ

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☆おサルの学校

2006年05月07日 | ⇒ドキュメント回廊

 愛読している司馬遼太郎の「風塵抄」(中央公論社)の中に「おサルの学校」というタイトルがある。1988年(昭和63年)4月5日付の産経新聞に掲載されたコラムである。日本の霊長類研究の草分けである今西錦司博士が山口県の村崎修二氏と民俗学者の宮本常一氏に「おサルの学校」をつくってほしいと依頼した経緯について記されている。

 その学校は、芸を教える学校ではなく、人間の場合と同様の学校である。村崎修二氏が猿曳き公演と文化講演(5月3日、5日)のため金沢大学を訪れたので、その学校の「理念」についてじっくり伺った。実はその学校はいまでも続いているのである。 

 その学校の生徒たちの寿命は長い。「相棒」と呼ぶ安登夢(あとむ)はオスの15歳、銀が入ったツヤツヤな毛並みをしている。猿まわしの世界の現役では最長老の部類だ。ところが、何とか軍団とか呼ばれるサルたちの寿命は10年そこそことだそうだ。なぜか。人間がエサと罰を与えて、徹底的に調教する。確かにエンターテイメントに耐えうる芸は仕込まれるが、サルにとってはストレスのかたまりとなり、毛並みもかさかさ全身の精気も感じられない。村崎さんの学校に体罰はない。「管理教育」といえば周囲の人に危害を与えないようにコントロールする手綱だけだ。だからストレスが少なく長生きだ。

 村崎氏の芸は「人とサルの呼吸」のようなところがある。安登夢をその気にさせて一気に芸に持ち込む。「鯉の滝登り」のように輪っかを上下2段に重ねて、そこを跳びくぐらせる=写真・上=。あるいは、杖のてっぺんに安登夢を二足立ちさせる。背筋がピンと伸びているので、杖と猿が一本の木のように見える。これは「一本杉」=写真・下=と呼ばれる。ここまでにするには繰り返し仕込む。今回の公演でも、サルをその気にさせるための雰囲気づくりのために観客から繰り返し拍手と声援を求めた。そして芸ができればエサを与えるのではなく「ほめる」。

 よく考えれば、人間の学校も同じである。その雰囲気づくりをいかに醸し出し、自発的に学習に取り組む子どもをいかに育てるか。どうしたら生徒のやる気を引き出すことができるか。これが苦心なのだ。できない生徒ややらない生徒に体罰や言葉の暴力を与えてもストレスとして蓄積され、いつか爆発する。

 村崎氏には調教という発想はない。重んじているのは「同志的結合」だ。だから繰り返すが安登夢に決して体罰は与えたりしない。「粘り強く、あきらめない」。故・今西博士が村崎氏に残した宿題は、人間の2歳ほど知能のニホンザルにはたして教育をほどこすことは可能かという実にスケール感のある話だったのである。

⇒7日(日)夜・金沢の天気  くもり

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★ウグイスの朝を録音する

2006年05月04日 | ⇒トピック往来

  五月晴れとはまさにきょうの空模様のことを言うのであろう。風は木々をわずかに揺らす程度に吹き、ほほに当たると撫でるように心地よい。今朝はもう一つうれしいことがあった。ウグイスの鳴き声が間近に聞こえたのである。おそらく我が家の庭木か隣家であろう。ホーホケキョという鳴き声が五感に染み渡るほどに清澄な旋律として耳に入ってきた。

  今年の春は低温が続いく花冷えの天気が多かったせいか、ウグイスの初鳴きを聞いていなかったせいもある。それが間近に聞こえ、思わず手元にあった携帯電話のムービー撮影機能で録音した。画像は自宅2階から見える金沢市内の一角であるが、画質は粗く価値はない。録画は40秒ほどだったが、後半は往来の車の騒音が混じり始めたのでカットした。ウグイスは3度鳴いている。ほかの野鳥のさえずりもわずかに聞こえる。時刻は午前7時54分ごろ、金沢の朝の音色である。

  この音色を残しておきたいととっさの行動を起こした理由は、ブログのことが脳裏にあったからかもしれない。

⇒4日(木)朝・金沢の天気   はれ

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☆マスメディアの風圧と法

2006年05月03日 | ⇒メディア時評

 ゴールデン・ウイーク期間中の3日、珍事が起きた。有田陶器市が開催されている佐賀県有田町で強風で仮設テントが揺れ、中の棚に陳列してあった皿や小鉢などの陶器が次々と吹き飛ばされ割れた。被害は9点(19000円相当)だった。問題はその原因。午後2時10分ごろ、FBS福岡放送の取材ヘリコプターが上空を飛び、ヘリが低空で通過した直後に突風が吹き、テントの中にあった棚の上の陶器が飛ばされたという。

  テレビ局側は「当時は高度150㍍を維持していた。上空から吹き下ろしの風が吹いていて、ヘリの風と相まって被害が出たのかもしれない」と説明した。以上が新聞各紙からピックアップした内容だ。しかし、航空法では、ヘリの最低飛行高度は例えば人家の密集した地域の上空では半径600㍍の範囲の最も高い障害物の高さにさらに300㍍の高度を加えとなっている。カメラマンが被写体に近づこうとすれば、高度を下げるしかない。そこでカメラマンは強くパイロットに低空を飛ぶよう希望したのだろうかと推測する。今回は皿や小鉢だったものの、一歩間違えて、子どもが吹き飛ばされていたなら大事件になっていた。

  もう一つ、今度は法をめぐる風圧を新聞から拾った。4月に赴任した高松地検の川野辺充子検事正が就任会見で、男性記者が「年齢をうかがいたい」と質問した。検事正は「女性に年を聞くんですか、すごいですね」と答えなかった。今度は女性記者が「要職の方には年齢を伺っています」と食い下がったが、今度は「中央官庁でも公表しない方向になっています」と年齢の公表を断った。しかし、別の人事案件で法務省は一度は学歴と生年月日を非公表にしたものの、記者クラブが要求して、公表した例がある。川野辺検事正の場合は最終的に公表したものの、その混乱の原因となっているのが個人情報保護法である。

  もともと民間の情報を守ろうとしたのが個人情報保護法であり、官庁が独占している情報を出させようとするのが情報公開法なのである。なのに「官」がちゃっかりと個人情報保護法の隠れ蓑をまとっている。つまり、官庁が個人情報保護法を盾に情報を出し渋っているのである。そこをマスメディアは見抜いているから今回の川野辺検事正に対する生年月日の公表要求のケースのように、官が情報を出し渋れば渋るほどマスメディアの風圧も厳しさを増すという構図になる。

  端的に言えば、官庁の情報に関しては情報公開法の枠組みで整理したほうが一番すっきりするのである。まして公人である要職の人事などなおさらだ。

 ⇒3日(水)夜・金沢の天気  はれ  

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★猿曳き人生、村崎さん

2006年05月02日 | ⇒ドキュメント回廊
 「あなたはサルのおかげで人間の大ザルとめぐり会えたんや」。作家の故・司馬遼太郎からこう声をかけられたことがあるそうだ。山口県周防を拠点に活動する「猿舞座(さるまいざ)」の村崎修二さん(58)と2日、あすから始まる金沢大学での猿まわし公演と文化講演の打ち合わせをした折りに出た話だ。

 村崎さんの大道芸はサルを調教して演じるのではなく、「同志的結合」によって共に演じるのだそうだ。だから「観客が見ると相棒のサルが村崎さんを曳き回しているようにも見える」との評もある。相棒のサルとは安登夢(あとむ)、15歳のオスである。村崎さんは「こいつの立ち姿が見事でね、伊勢の猿田彦神社で一本杉という芸(棒の上で立つ)がぴたりと決まって、手を合わせているお年寄りもいたよ」と目を細めた。

 同郷の民俗学者・宮本常一(故人)から猿曳きの再興を促され、日本の霊長類研究の草分けである今西錦司(故人)と出会った。司馬遼太郎が「人間の大ザル」とたとえたのは今西錦司のことである。商業的に短時間で多くの観客に見せる「猿まわし」とは一線を引き、日本の里山をめぐる昔ながらの猿曳きを身上とする。人とサルの共生から生まれた技。そこを今西に見込まれ、嘱望されて京都大学霊長類研究所の客員研究員(1978-88年)に。ここで、河合雅雄氏らさらに多くのサル学研究者と交わった。

 うぐいすの谷渡り、輪くぐり、棒のぼり、コイの滝登り同志的結合で間合いを見ながら演じること90分。玄人うけする芸だ。江戸時代の英一蝶(はなぶさ・いっちょう=1652-1724年)の絵を持っている。「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を揶揄(やゆ)して、伊豆・三宅島に島流しされたことでも知られる絵師だ。その反骨の絵師が描いた猿まわしの絵には、サルが長い竹ざおの上でカエルに化けて雨乞いをする姿が描かれている。中世、渇水期の里山で雨乞いの儀式にサルを舞わせたのが猿曳き芸能のルーツではないかともいわれる。「その当時の芸を再興してみたい」(村崎さん)と自らのライフワークを語る。

 猿まわしは3日と5日、それぞれ午前11時と午後3時から。金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」で。3日は午後5時30分から同所で「日本の里山と猿曳き芸能」と題する村崎さんの講演がある。入場は無料だが、大道芸だけに投げ銭を用意してほしいと主催者からの要望。それに演じるのがサルだけにイヌの同伴はご遠慮を。安登夢が気が散って演技に集中できないらしい。

⇒2日(火)午後・金沢の天気  くもり
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☆観察好きな教養人の本

2006年05月01日 | ⇒ランダム書評
  「この本は当社の唯一の商品です。買ってください」。昨年末、知人からそんな内容の書き付けが添えられて書籍が郵送されてきた。送り主は富山市の甲田克志さん(60)。北日本新聞社の金沢支局長だったころからの付き合いで、定年退職した。その後、父親名義の会社を引き継ぎ、さっそく商売を始めたというわけだ。その商品が書籍なのだ。

 代金を振り込んでそのままにしてあったが、年度末に部屋の整理をしていて、ひょっこり出てきた。その書籍は498㌻もある。タイトルは「ゆずりは通信~昭和20年に生まれて~」。自らのホームページで掲載していた、2000年から05までのエッセイ147編を本に仕立てた。自費出版ながら、ニュースキャスターの筑紫哲也氏が前文を添えている。「地に足のついた教養人の観察をお楽しみあれ」と。なぜ筑紫氏かというと、富山県魚津市で開催されているコミュニティー講座「森のゆめ市民大学」の学長が筑紫氏という縁からから親しくしているらしい。心強い応援団ではある。

 さっそくページをめくる。まず面白いのは147編のエッセイのタイトルだ。「純粋さにひそむファシズム」「おじいちゃんにもセックスを」「邪宗の徒よ我に集え」「こんな夜更けにバナナかよ」「済州島、消された歴史」「国際テロリスト群像」…。日常の話題から国際問題まで実に幅広い。

 「こんな夜更けにバナナかよ」って一体どんな内容だろうと読んでみると、「俺が生きて、日本の福祉を変えてやる」とボランティアを激しくこき使った、自称「カリスマ障害者」鹿野靖明さん(故人)を描いたルポルタージュの本の題名である。要介護1の父親、同じく3の母親を持つ甲田氏。そして自ら老いる先を見つめて、「老いたる鰥夫(やもお=妻を失った男)の尊厳を守る会を発足させたい」と結ぶ。書評なのだが、自らの生き様と対照されていてまるで我がことの様に描き切っている。

 「返り討ち」は自らの大腸のポリープの切除の話。手術は20分も要しないものであったが高校時代から入院するのを「ひそかな楽しみしていた」のでそれを実行した。引用している俳句が面白い。「おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒」(江国滋)。

 筑紫氏は前文で甲田さんの文章についてこうも述べている。「一言で言えば、あまり好きな言葉ではないが、『教養』が要る。世の中で起きていることを、世間が言っている通りに単純には受け取らず、自分なりに考えたり、感じ取る能力のことを、他によい言葉が思い当たらないので私はそう呼んでいる。知識やウンチクをひけらかせることでは決してない」。ウンチクをたれるのではなく、観察好きな教養人が甲田さんなのである。私は「磨かれた常識人」とも評したい。

⇒1日(月)夜・金沢の天気   あめ
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