どこか人に対する「おびえ」があって、気持ちを明るく持ちきれない時期が長く続いた。小学生のころ「イジメ」にあった。その後遺症と自分では感じていた。その後、映画をみたり、小説を読んだり、友と酒を酌み交わしたり、一緒にスポーツしたり、親、兄弟、叔父、叔母、伯父、伯母、いとこ達、甥や姪、近所の人々、仕事上で出会った人々、そして、妻、妻の親族、さまざまな出会いとふれあい、のなかで、うすがみをはがすように、おびえから解放されてきたと思う。(感謝しなけばならないが、どこかアタリマエと思っているフシがある。)そして、自分もこの社会のなかで、国とか民族という狭い視野からではなく、もっと広い観点から、モノをみようとするようになってきたように思う。
これは、到達というより、姿勢の問題で、生涯にわたって追求していくことが重要であると思う。いま、勝ち組の人々の反省のない「むさぼり」のために、懸命に働いても、努力しても「ワーキングプア」状態から、ぬけだすことが出来ない人々をつくりだす構造があって、昨日の深夜(なぜ深夜なのか?)テレビでとりあげていた。年金をかけていた期間が、数年足りないために、年金をもらえない、高齢者夫婦のカン集めのすがたを追っていた。母子家庭の若い母親の涙。救済の手段は、いくらでもあるはずである。そこへ、為政者や勝ち組の目はとどいていない。人を道具としてしか、みていない。自分の儲け手段としてしかみない。腹の底のほうから怒りがこみあげてくる。具体的に何をしていけばよいのか、考えれば必ず方法はあるはず。私もその一人として、その立場から、生きる作業をしていく。
これは、到達というより、姿勢の問題で、生涯にわたって追求していくことが重要であると思う。いま、勝ち組の人々の反省のない「むさぼり」のために、懸命に働いても、努力しても「ワーキングプア」状態から、ぬけだすことが出来ない人々をつくりだす構造があって、昨日の深夜(なぜ深夜なのか?)テレビでとりあげていた。年金をかけていた期間が、数年足りないために、年金をもらえない、高齢者夫婦のカン集めのすがたを追っていた。母子家庭の若い母親の涙。救済の手段は、いくらでもあるはずである。そこへ、為政者や勝ち組の目はとどいていない。人を道具としてしか、みていない。自分の儲け手段としてしかみない。腹の底のほうから怒りがこみあげてくる。具体的に何をしていけばよいのか、考えれば必ず方法はあるはず。私もその一人として、その立場から、生きる作業をしていく。
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