ベクトルというのは、大きさと方向があって、数学の本などでは、矢印であらわされる。大きさだけであれば、スカラーと呼ばれる。方向がソロウト、事態は大きく変わる。テンデンバラバラのときは、総体としてみれば、なにも、動いていないようにさえ、見えたりする。
しかし、方向がそろうと、これは、おおきな力となって動き出す。方向がそろうというのは、それぞれの始点が、同一のスタート場所にいるというわけではない。それぞれのいる場所から、その動く方向が、平行移動すれば、一致することである。
さて、世の中の方向は、どちらを向いているのだろうか。人を蹴飛ばし、道具としてみる、方向だろうか。それとも、人を大事に思い、なんとか良くなろうとする方向だろうか。
右とか、左とか、勝ちとか負けとか、成功とか失敗とか、対比的にいうときその背景には、ベクトル的な考え方を通してみると、ベクトルの違いがみえる。
いま、愛国心が「教育基本法」をかえたことにより、強調されようとしている。国とか民族とか、「セクト」にこだわると、危うい。といって、時代によっては、この「セクト」をはずれることは、即「死」を意味した。それは、歴史の教えるところである。セクトをセクトして、認識でき、セクト主義を排することのできるベクトルを、時代が、世の人々が、キチント見出すことをのぞみたい。
「一人は万人のため、万人は一人のため」、という標語がある。「一人」をはっきりと認識の対象にいれていることが、この標語のいいところだと思う。
しかし、方向がそろうと、これは、おおきな力となって動き出す。方向がそろうというのは、それぞれの始点が、同一のスタート場所にいるというわけではない。それぞれのいる場所から、その動く方向が、平行移動すれば、一致することである。
さて、世の中の方向は、どちらを向いているのだろうか。人を蹴飛ばし、道具としてみる、方向だろうか。それとも、人を大事に思い、なんとか良くなろうとする方向だろうか。
右とか、左とか、勝ちとか負けとか、成功とか失敗とか、対比的にいうときその背景には、ベクトル的な考え方を通してみると、ベクトルの違いがみえる。
いま、愛国心が「教育基本法」をかえたことにより、強調されようとしている。国とか民族とか、「セクト」にこだわると、危うい。といって、時代によっては、この「セクト」をはずれることは、即「死」を意味した。それは、歴史の教えるところである。セクトをセクトして、認識でき、セクト主義を排することのできるベクトルを、時代が、世の人々が、キチント見出すことをのぞみたい。
「一人は万人のため、万人は一人のため」、という標語がある。「一人」をはっきりと認識の対象にいれていることが、この標語のいいところだと思う。