人間の一生は、まさに長いようで短く、短いようで長い。そして、とても理屈では説明できない不合理な人生があり、そうだそうだと、納得のいく人生もあるようだ。
正義感にかられて、自らの命を捨てることも厭わない人もいれば、人を裏切り、犠牲にしても自らは生き延びる選択をしてしまう人もいる。
自分自身を考えても、はたして、自己犠牲を貫徹して、人の命を助けることができるかと問えば、自信はない。いざとなれば、自己保身に走る可能性が大である。
そういうときがきたときには、堂々と、自らの命を顧みず、やるべきことをやるのみと腹をくくることができる人間になりたいものだが、そこまでの覚悟が、本当にあるかと問われれば、うつむくほかない。
後藤氏は、生後2週間の愛児をおいて、自ら、救出のためにイスラム国にむかったという。暴挙といわれるだろうし、おそらく、通常理解の範疇をこえている。止むにやまれぬ心情があるのだろう。
だが、人類の実態は、いくらでも人命を浪費し、奪い、非合理を貫徹する。人生は、長いか、短いか関係がない。思いを貫徹する勇気のある人が、現実に存在するということ、いつかは、そんなことを必要としない世の中を作るための礎となられたということかもしれない。
為政者の感覚、今の世の中を動かしている権力者が何を考えているか、国民がどう考えるか、すべてはプロセスであり、今の実態は決して完成した世の中の姿ではない。