意味がある、と言ってもいいし、ないといっても差し支えないような、結局、どちらともいえないような気がする。
父親をみていると、明らかに、彼がいなければ、自身の存在はないのであるが、そうかといって、人並み外れて、優秀だったり、傑出していたわけではない。
だが、それなりに、努力してきたのは間違いない。なまけ放題で、生きてきたわけではなく、そのときどきにするべきことをし、頑張ってきたのである。
そのおかげで、明らかに自分がいる。そして、そのあと、何人もの人間が生まれてきた。それは、かれなくしては存在し得ないのだから、何事かを明らかに、なしてきている。
係累を作った作らないは、人生への関わりに大きく影響する。それがない人は、生きてきた証は、立て難い。生まれて消えて、何事も残さない。
ごく一部の人間の記憶に、薄ぼんやりと残るのみである。その記憶も危うい。すぐに消え去る水の泡のごとしである。
でありながら、自身の認識としては、大きく、大層なもののように感じている。一方、客観的には、大したものでないことは、わかっている。実に気楽な存在なのである。なにも力む必要はないのである。