かつての日本陸軍最高統帥部の作戦部に勤務し、終戦直前、満州の関東軍参謀に転じ、終戦後は、ソ連に抑留され、昭和31年に帰国。33年伊藤忠商事に入社し、53年会長になった瀬島龍三氏の著書である。平成12年、PHP文庫から出版されている。以後、改版、増刷が続いている。
この本は、ハーバード大學大学院からの要請による「1930年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマで、瀬島氏が行なった講演録を読んだ、PHP研究所副社長(当時)江口克彦氏が「お願い」をし、書籍にして発刊されたものである。
こんな本があることを知らなかった小生は、その内容に驚いた。日本が何故、無謀な戦争、「太平洋戦争」に突入したのか、その間の、詳細な事情が述べられている。瀬島氏は、陸軍大学首席卒業といわれるエリート中の、エリートである。
山崎豊子さんの、「不毛地帯」のモデルと言われている。テレビでも放映された。こういう本を書くのに、最適な人と言えるだろう。
マッカサー元帥が、占領中の通達で公文書には、「大東亜戦争」という用語を使うことを禁じたのは、「日本語としての意味の連想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義等と切り離し得ざるもの」という理由であり、以後、「太平洋戦争」という呼び名が使われてきたということ、そして、その通達の効力が、占領終了により、自然消滅した後においてもその慣行が続いていること。
それが、ハーバードでの講演の際に、なぜ大東亜戦争と、瀬島氏が呼ぶかについて、大東亜新秩序を建設するための戦争であるから「大東亜戦争」と呼ぶというわけのものではなく、単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いに過ぎないとして、それを冒頭に述べているのである。
しかし、これをみて、氏の真意は、否定した前者の方が、まさにそうではないかと思ったのだが、それは、これから、中味を精読するほかない。単に地域というだけでなく、そこには、理念があると思うのである。しかし、それは、読んでからである。
呼称というのは、大事である。理由の如何を問わず、先の大戦を「大東亜戦争」という人は、その意味を熟知しているわけで、「太平洋戦争」などとは言わないだろう。
そこには、国の誇りを守るという気概と覚悟が、背後に、みえるのである。
小生は、国という単位をもちだしたり、民族、宗教、地域など、セクト的な発想からの脱却が必要と思うが、現実は、国益を叫ぶシステムが機能しており、無視することは出来ないのであって、その思想を知ることは、当然であり、その出発がなければ、地に着いた思想とはならないだろうと思っている。その意味で、この本にめぐりあったことは、良かったと思う。
本書を精読していきたいと思っている。
この本は、ハーバード大學大学院からの要請による「1930年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマで、瀬島氏が行なった講演録を読んだ、PHP研究所副社長(当時)江口克彦氏が「お願い」をし、書籍にして発刊されたものである。
こんな本があることを知らなかった小生は、その内容に驚いた。日本が何故、無謀な戦争、「太平洋戦争」に突入したのか、その間の、詳細な事情が述べられている。瀬島氏は、陸軍大学首席卒業といわれるエリート中の、エリートである。
山崎豊子さんの、「不毛地帯」のモデルと言われている。テレビでも放映された。こういう本を書くのに、最適な人と言えるだろう。
マッカサー元帥が、占領中の通達で公文書には、「大東亜戦争」という用語を使うことを禁じたのは、「日本語としての意味の連想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義等と切り離し得ざるもの」という理由であり、以後、「太平洋戦争」という呼び名が使われてきたということ、そして、その通達の効力が、占領終了により、自然消滅した後においてもその慣行が続いていること。
それが、ハーバードでの講演の際に、なぜ大東亜戦争と、瀬島氏が呼ぶかについて、大東亜新秩序を建設するための戦争であるから「大東亜戦争」と呼ぶというわけのものではなく、単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いに過ぎないとして、それを冒頭に述べているのである。
しかし、これをみて、氏の真意は、否定した前者の方が、まさにそうではないかと思ったのだが、それは、これから、中味を精読するほかない。単に地域というだけでなく、そこには、理念があると思うのである。しかし、それは、読んでからである。
呼称というのは、大事である。理由の如何を問わず、先の大戦を「大東亜戦争」という人は、その意味を熟知しているわけで、「太平洋戦争」などとは言わないだろう。
そこには、国の誇りを守るという気概と覚悟が、背後に、みえるのである。
小生は、国という単位をもちだしたり、民族、宗教、地域など、セクト的な発想からの脱却が必要と思うが、現実は、国益を叫ぶシステムが機能しており、無視することは出来ないのであって、その思想を知ることは、当然であり、その出発がなければ、地に着いた思想とはならないだろうと思っている。その意味で、この本にめぐりあったことは、良かったと思う。
本書を精読していきたいと思っている。