古い本をあさり始めたら、いろいろと発見がある。学生時代(高校)は、両親の苦しい頃で、もっとも、社会全体が楽ではなかったが、とにかく、金がないのが当たり前、辞書などなかなか買えなかった。
後に、件の古本屋さんで「大量仕入れ」が可能となって、英和、和英と仕入れていた。その和英辞典を、まるで、小説を読むように、丁寧に「付録」のページやら、文法のところ、不規則動詞などの部分を隅から隅まで、舐めるように読み始めた。
太字の動詞の不規則変化などは、きちんと頭に入っているのは感心した。付録のページだけでもかなりあるので、例によって完全に読み終えて、マスターするかどうかは不明であるが、それでも、チョットなんで早くしなかったんだろう、と思うぐらいの知識が得られる。
なんとなく、英語世界の全体に触れかけた気がする。日本語との比較、文化の違い、そうしたことが実例で説明されている。
辞書といえば、解らない問題があって、それを、逐語的に調べるためのものという概念があったが、そういう使い方では、勿体無いと思う。
通読を志すべきではないかと思い始めたのである。いってみれば、辞書を書いた側の人々は、全部を読んでいる人がかなりいるだろうし、それぐらいの努力は当然しなければ、新しい境地をめざすためには、必須だろう。
後に、件の古本屋さんで「大量仕入れ」が可能となって、英和、和英と仕入れていた。その和英辞典を、まるで、小説を読むように、丁寧に「付録」のページやら、文法のところ、不規則動詞などの部分を隅から隅まで、舐めるように読み始めた。
太字の動詞の不規則変化などは、きちんと頭に入っているのは感心した。付録のページだけでもかなりあるので、例によって完全に読み終えて、マスターするかどうかは不明であるが、それでも、チョットなんで早くしなかったんだろう、と思うぐらいの知識が得られる。
なんとなく、英語世界の全体に触れかけた気がする。日本語との比較、文化の違い、そうしたことが実例で説明されている。
辞書といえば、解らない問題があって、それを、逐語的に調べるためのものという概念があったが、そういう使い方では、勿体無いと思う。
通読を志すべきではないかと思い始めたのである。いってみれば、辞書を書いた側の人々は、全部を読んでいる人がかなりいるだろうし、それぐらいの努力は当然しなければ、新しい境地をめざすためには、必須だろう。