ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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韓国オタクの佐賀旅行③ 唐津駅→名護屋城は遠い!

2010-05-30 23:55:26 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 5月22日の記事「韓国オタクの佐賀旅行②」で記録もれの「白いツツジを韓国語で何というか?」という件について昨日ちょいと韓国の方から取材したので書き足しておきました。気になる方はご確認ください。

 さて、佐賀旅行3日目は唐津です。行ってみたい所はいろいろたくさん。旅の定石でまず遠い所からと考え、呼子港経由で名護屋城跡にまず行くことにしました。
 ふつうの人なら、車でなければバスを利用するところでしょうが、たまたまJR九州のサイトを見たら唐津駅で電動自転車を1日900円で借りられるということで、こっちの方が自由にいろんな所に行けるだろうと思い、朝9時に窓口が開いたすぐに借りに行きました。
 電動自転車は初めてでしたが、ちょっと期待が大きすぎましたねー(笑)。たしかに上り坂はかなりラクに上れましたが、スピードがイマイチ。

 しかし、電動自転車に対する過信よりも、唐津駅前から呼子、さらに名護屋城までの距離があんなに長いとは・・・。約20キロくらいですかねー。やっぱり電動自転車であの道のりを行くのは一苦労以上だったですね。海沿いの道も以外に起伏が多かったし・・・。

 で、9時20分頃スタートして呼子港には10時50分着。
 朝市はずいぶんにぎわっていました。店先に並んでるいろんな海産物の中で、ヌルボの目を引いたのは「皮クジラ 250」。掌に乗るくらいの厚さ4~5センチほどのブロックがこのお値段。
 あとでさるサイトで知ったところでは、呼子は「江戸時代から昭和30年ころまで捕鯨の町として栄えました」とのことで、鯨組主旧中尾家住宅(市重要文化財)も残っているのだそうです。
 当地の木屋という店は<黒皮くじら>等の通販もやってます。

     

     【呼子の朝市のにぎわい】                        【黒皮くじら

     
  【唐津市内の寿司屋のメニューにはくじらの刺身がある。

 もっと時間があれば、遊覧船イカ丸(←安易な命名)に乗って<神秘の洞窟>七ツ釜の探検に行くとか、海中展望船ジーラ(←クジラだから)で海中散歩もしてみたいところでしたが、時間の関係でまた自転車にまたがって道の駅桃山天下市へ向かいました。

  
     【向こうに見える遊覧船、その名もイカ丸。

 呼子港→桃山天下市も自転車で約25分。意外に時間がかかりました。ここで「いか活き造り定食」2,835を食べた! ・・・というのは前5月4日の記事で書きました。

  
  【足がピクピク、目玉がギロギロのイカの活き造り

 名護屋城跡は桃山天下市からすぐ。
 第一印象は、いやー広い広い!
 それにしても、こんな日本のはずれに(←東京・横浜の方が<はずれ>かも・・・)、当時は大坂城に次ぐという広壮な城をよくもまあ築き、また日本国中から大勢の軍隊を集めたものです。
 唐津の町から来るだけでも一苦労なのに、さらに海を渡って朝鮮まで行き、その上殺し合ったりしながら半島の奥深くまで攻め入るとは、オドロキ! 
 当時の豊臣秀吉以下雑兵に至るまで、彼らをそこまで突き動かした動機とか情熱(?)とは一体なんだったんだろう、と深~く考えざるをえません
 単に秀吉個人の征服欲だけでは説明がつかないと思います。
 俗説もいろいろある中で、一応ホントらしい説では、天下統一後、使い道のなくなった兵士・武将の働きの場の提供。平和が到来しても過剰な軍隊・兵員を急速に削減することはできないので、適度な(?)仕事(戦争)を与えたというわけです。豊臣秀吉は「刀狩りによる軍縮・兵農分離」と「公共事業的な海外遠征(朝鮮出兵)」によって、国内の軍事的秩序と治安状況を調整したという仮説もあるそうです。合わせて、「秀吉個人の中国大陸(明)征服への野心」があったと考えられるとのことです。
 そんなもんですかねー。そういえば、現代でもアメリカが全世界的に展開している軍事活動は「公共事業的な海外遠征」であると十分言えそうですが・・・。
 あるサイトによれば、渡海した日本軍が見積もった朝鮮八道の総石高は1192万4406石。やっぱり物欲は多くの人を動かす原動力なんですかねー。

 続いて、名護屋城博物館へ。
 先史時代からの日朝間の歴史について、いろんな展示物があった中で、目を奪われたのが「朝鮮軍陣図屏風」(下参照。鍋島報效会所蔵の写)。

  
    【どんな絵師だか、よくこんな絵が描けたものです。

 加藤清正軍が立てこもる蔚山城を8万人の朝鮮と明の軍が取り囲む。加藤清正は水も食料もないまま13日間飢えに苦しみながら戦ったとのことで、それにしてもこんなにたくさんの兵をよく描いたものです。
 「日本史合戦の隠された真実」という本によると、この屏風の原本は明治初期に焼失し、現存するものは模写が三隻とのこと。

 もう1つは、文禄慶長の役(壬辰倭乱)の時の日本の船。李舜臣の亀甲船は有名ですが、日本の軍船は安宅船(あたけぶね)というんですね。
 家屋がそのまんま船の上に乗っかっているようで・・・。これで実戦的だったんでしょうかねー?

  
     【安宅船。船の上にお屋敷が・・・。

 帰途は海岸沿いの道ではなく、峠道を一気に上がって下るルートにしたところ、1時間ほどで唐津市街へ。まだ自転車の返却時間の17時まで2時間あったので、末盧館と名付けられた菜畑遺跡に立ち寄りました。板付遺跡とともに、縄文晩期の、つまり日本で最初に水稲耕作がおこなわれた遺跡です。

  
     【菜畑遺跡の復元水田

 あー、それにしても、前日に続いて疲れたけどいろんな収穫のあった1日でした。