学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0054 花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」

2024-03-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第54回配信です。


花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」(『日本歴史』910号、2024)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10050642.html

花田卓司(1981生、帝塚山大学文学部准教授)
https://www.tezukayama-u.ac.jp/teacher/gyoseki/169900.html
https://researchmap.jp/takuji_hanada

-------
 はじめに
一 守護在職の根拠史料の再検討
二 足利義氏の三河守護補任時期
 おわりに
-------


-------
 はじめに

 鎌倉期の足利氏が三河守護であったことは広く知られている。鎌倉幕府守護制度研究の基礎を築いた佐藤進一氏は、暦仁元年(一二三八)の将軍藤原頼経上洛・下向時と建長四年(一二五二)の宗尊親王下向時に、足利義氏が三河国矢作宿などの設営にあたった事実を守護在職の徴証とみて、正治年間(一一九九~一二〇一)から暦仁元年までの間に守護職が足利氏に帰し、鎌倉幕府滅亡にいたるまで足利氏が保持し続けたと指摘した。佐藤氏以後の研究の進展を踏まえて各国守護の再比定をおこなった伊藤邦彦氏は、義氏による宿駅経営は国務沙汰の範疇であって守護固有の職権ではないとし、三河国は守護不設置で「国務・検断沙汰人」制が採用されたと論じたうえで、義氏がこの地位に起用された時期については佐藤氏同様に正治年間から暦仁元年の間、守護制度の導入はモンゴル襲来期であるとしている。
 一方、鎌倉期足利氏研究においては、足利義氏が承久の乱後に恩賞として三河守護に任じられたとの見方が古くからある。【後略】
-------


-------
二 足利義氏の三河守護補任時期

 前章での検討と新出の「国々守護事」から、足利義氏が三河守護に補任された時期は少なくとも嘉禎四年(一二三八)閏二月以降となる。三河守護に補任された時期を絞り込む手がかりとなるのが、義氏の女と四条隆親との婚姻である。
 四条隆親は後鳥羽院の近親であった四条隆衡と坊門信清女との間に生まれ、最終的に正二位大納言まで昇った人物である。承久の乱では後鳥羽院の比叡山御幸に甲冑を着用して供奉したが処罰を免れ、乱後は北白河院(藤原陳子、後堀河院の生母)に接近して後堀河天皇の近親となった。寛喜三年(一二三一)には西園寺実氏・大炊御門家嗣とともに秀仁親王(のちの四条天皇)の乳父に選ばれ、四条天皇即位後も近臣として仕えた。嘉禎四年閏二月に四条天皇の近臣から外されたことで朝廷での活動が一時的に低調となったが、その後、四条天皇の急死によって擁立された後嵯峨天皇の近臣として復権し、後嵯峨院政下で評定衆や後深草院の執事別当を務めた。
 隆親は義氏の女を妻に迎え、嫡男隆顕を儲けている。婚姻時期を明確にできる史料はないが、『公卿補任』記載の年齢から隆顕の生年は寛元元年(一二四三)なので、おそらく一二四〇年代初頭であろう。松島周一氏は、隆親が天福二年(一二三四)以後断続的に三河国の知行国主としてあらわれ、仁治元年(一二四〇)十二月十八日から翌年三月二十六日までの間にも知行国主であったことから、隆親と義氏の女との婚姻はこの時期に成立したと推定し、知行国主と守護が結びついた事例であると述べている。足利・四条両家の接点を三河国に求めたこの見解は首肯できる。さらに憶測を重ねれば、前述のとおり当時四条天皇の近臣から外されていた隆親が、幕府中枢との接近に活路を求め、三河国を通じて接点を得た「准北条一門」というべき存在の義氏と姻戚関係を結んだのではないだろうか。
-------

四条隆親と隆顕・二条との関係(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80d08c9a35f13cc002d83aa60b841a2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e66191c8e32d66910c03c1611506d53e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3de9dbe3862b7081de0af9fb4df198f3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2336059caba4894c63f86b8c4504ab7

守護と知行国主というのは公的な関係であり、それが婚姻のような私的な関係と直接に結びつくという発想自体がおかしいのではないか。
花田氏自身が解明されたように、足利義氏は北条政子に庇護された「准北条一門」。
これだけで義氏が四条家と結びつく理由としては十分すぎるのではないか。
結婚を斡旋する存在としては六波羅探題の北条重時がいる。
また、結婚という私的な関係の形成には女性間のネットワークも重要であり、重時の同母妹(「姫の前」の娘)が土御門定通室となっていることに留意すべき。
こちらのルートの方が、知行国主と守護といった公的関係より遥かに自然。

北条義時の正室だった「姫の前」と歌人・源具親の再婚について、森幸夫氏も奇妙なことを言われている。

「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 0053 赤江達也『「紙上の教... | トップ | ご連絡 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

鈴木小太郎チャンネル「学問空間」」カテゴリの最新記事