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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その1)

2019-11-26 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月26日(火)12時13分14秒

渡辺京二『逝きし世の面影』におけるラインホルト・ヴェルナーの引用と原著との比較を行ってみましたが、短い引用なので読者に多少の誤解を与える可能性はあるにしても、引用自体は正確でした。
これは他の引用文献についても言えることで、もちろん個々の文献に即して、その時期的・地域的限界その他の制約を念頭に置く必要はありますが、渡辺の総合的な評価は概ね妥当と思います。
そして、渡辺京二の分析は東大名誉教授・渡辺浩の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって」(『増補新装版 東アジアの王権と思想』、東大出版会、2016)の次の見解とも整合的です。

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一 Religion の不在?

 徳川時代の末に日本を訪れた欧米人は、高い地位の日本人がいかなる religion も信じていないらしいことに気づき、口々にその驚きを語っている。
 例えば、ペリーの使節団は、「高位のよく教育を受けた人々はいかなる religion にも無関心で the higher and better educated are indifferent to all religions 、様々な空想的意見を抱いたり、広範な懐疑 a broad skepticism に逃げ込んだりしているようである」と報告している。
 ついで、アメリカの初代総領事、タウンゼント・ハリスは、その日記で、日本人には「religious な事柄に関するまったくの無関心」great indifference on religious subjects があり、「実のところ、高い身分の人々はみな無神論者だと思う」 I believe all the higher classes are in reality atheists.(May 27,1857) と断言している。
 また、『ニューヨーク・トリビューン』紙の記者でもあったアメリカ人貿易商、フランシス・ホールは日記にこう記している。

この国に上陸してから今に至るまで、日本人はその religion に何の尊敬も抱いていないという印象を私は受け続けている。(中略)教養ある上流の身分においては Among the learned and the better classes 、中国の官僚と学者同様に儒教 the system of Confucius が受け入れられていることになっている。しかし、実のところ、これらすべてについて不信仰である in reality there is a disbelief in all these forms 。現代ドイツにおいても、日本における実際上の無神論 practical atheism ほどに理性主義 rationalism が浸透しているとは、私には思えない。(March 25, 1860)

 同様に、イギリス初代公使、ラザフォード・オルコックによれば、教育のある階級 the educated classes は、霊魂の不滅やあの世での至福もしくは悲惨といった教義を蒙昧なる下層民のみにふさわしいものとしてあざけって scoff いた。
 そして、デンマークの海軍士官、エドゥアルド・スエンソンの回顧によれば、「日本人はこと宗教問題に関してはまったくの無関心で有名」であり、「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかをたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。」という。
 武士たちも、法事・墓参をし、時には神社にも参ったであろう。しかし、その「信心」の内容を問われれば、自分でも明確ではなかったのであろう(今の多くの日本人と同様に)。例えば福澤諭吉も、「我国の士人は大概皆宗教を信ぜず、幼少の時より神を祈らず仏を拝せずして、よく其品行を維持せり。」(『通俗国権論』一八七八年)と証言している。
 それ故、西洋を訪れた教養ある日本人は、逆に、西洋における religion なるものの繁栄に衝撃を受けた(「文明国」では「世俗化」が進んでいることに衝撃を受けたのではない!)。
 では、その religion なるものを、当時の指導的な日本人はどう理解したのだろうか。本稿では、その点に関し、従来見逃されていた面の解明を目指したい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8

ということで、「欧米人観察者の眼には、日本人はいたって宗教心の薄い民族にみえた」(p439)という渡辺京二の認識は、社会の上層、「教育のある階級」については渡辺浩の認識と完全に一致していますね。
そしてこの結論は、両渡辺氏が認識の基礎としている訪日外国人の諸記録を読んだ研究者には既に共通認識になっているものと思われます。
さて、私が『逝きし世の面影』に若干の違和感を感じるのは「教育のない階級」についての渡辺京二の認識です。
渡辺京二は、プロテスタント的な「とほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった」(p445)と認めた上で、「しかし、彼らのうちのある者は、自分たちの宗教概念には収まらぬにせよ、日本人に一種独特の信仰の形態が厳として存在することに気づいていた」(p445)とし、富士山や日光・中禅寺湖の巡礼に言及する文献を紹介した後、オールコックの「にもかかわらず日本人が、表向きは宗教的目的を持つ巡礼に病みつきだということは、一方では、少なくとも下層の人びとの間にある程度生き生きした宗教感情が存在することの明らかな証拠と考えてよい」という文章を引用します。(同)

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その8)(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/79b3c3612790c77e4a1001f120444487
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d0a0f2da2b028ff1e633554d554cc8d

そして、「徳川期において、日蓮宗と並んでもっともよく民衆を組織した真宗寺院の信仰の実態」を紹介した後、「しかし何と明るく楽しげな雰囲気であることだろう」と感想を記し、「スミス主教は迷信と現世利益と娯楽の混りあったような日本の宗教のありかたにもちろん批判的であったが、にもかかわらず、日本の寺社が聖域というかた苦しさを持たぬことに気づいた」(p447)として、「大人同様、子どもにとっても寺や神社は楽しいところだったのだ」(p448)と述べます。

宮永孝訳『スミス 日本における十週間』新異国叢書第III輯・第7巻
https://myrp.maruzen.co.jp/press/sin_ikoku/v307-smit/index.html
George Smith (Bishop of Victoria)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Smith_(Bishop_of_Victoria)

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