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四条隆親と隆顕・二条との関係(その4)

2022-12-20 | 唯善と後深草院二条

四条天皇の頓死から北条泰時使者の安達義景が京都に到着し、土御門院皇子の推挙(実質的には命令)を通知するまでの短い時間に、四条隆親がいち早く正確な情報を入手し、「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏に提供できた理由は、やはり足利義氏女・能子を妻としていたことが大きいように思われます。
隆親にとって能子は藤原範茂女・坊門信家女に次ぐ三番目の正室で、最初の妻は父・範茂が承久の乱の「合戦張本」の一人として殺されてしまった結果、隆親から離縁されます。
ちなみに『吾妻鏡』承久三年七月十八日条によれば、甲斐宰相中将・藤原範茂は名越朝時に預けられて東海道を下り、足柄山の麓で斬罪に処せられるべきところ、五体が揃っていなければ来世の障りになるだろうという本人の希望で、替わりに早河に沈められた、とのことで、なかなか悲しいエピソードですね。

藤原範茂(1185-1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E8%8C%82

そして、二番目の妻・坊門信家女との間には房名(1229-88)が生まれており、当初、隆親は房名を嫡子と定めていました。
しかし、能子が隆顕(1243-?)を生むと、隆顕が嫡子となります。
四条家と足利家がどのような経緯で結びついたのか、私にとっては長い間の謎だったのですが、北条家が間に入っていたのではなかろうか、というのが現在の私の仮説です。
足利義氏と北条家との関係について、花田卓司氏は「鎌倉初期の足利氏と北条氏─足利義兼女と水無瀬親兼との婚姻を手がかりに─」(元木泰雄編『日本中世の政治と制度』所収、吉川弘文館、2020)の「はじめに」において、

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【前略】
 しかし、前田治幸氏は足利氏と北条氏との対立・緊張関係を所与の前提とする通説的理解に疑問を呈し、通説とは逆に鎌倉後期の足利・北条両氏は協調関係にあったとの見方を示した。本稿は、足利氏は北条氏と対立する相手ではなかったという視角に学びつつ、鎌倉初期における両氏の関係をあらためて考えようとするものである。
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とされた後、第二節に入って、

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 二 足利義氏と北条政子・義時

 足利義兼は建久六年(一一九五)に出家・隠遁し、頼朝と同じ正治元年(一一九九)に没した。義兼のあとを継いだのは、時政女(北条政子の同母妹)が生んだ義氏である。
 義氏は建長六年(一二五四)に六六歳で死去したとされるので、生年は文治五年(一一八九)となる。義兼が死去した時点では一一歳という若年で、元服以前だったと考えられる。なお、生母時政女の没年は不明だが、義兼から密通の嫌疑を受けて死去したと伝承されており、義兼の生前に没していた可能性がある。
 元服以前に父を亡くした義氏とその姉妹がいかなる境遇にあったのかをうかがえる史料はないが、佐藤雄基氏は、元久二年(一二〇五)六月の畠山重忠の乱で北条義時率いる軍勢の先陣・後陣を除く筆頭に義氏の名が挙がり、また、建保元年(一二一三)五月の和田合戦でも北条泰時・朝時とともに義氏が将軍御所の防衛にあたっている点から、義兼の死後、義氏は北条政子・義時の保護下にあったと述べている。後年、義氏は政子の十三回忌にあたり高野山金剛三昧院に大仏殿を建立し、丈六大日如来像を造立・安置して実朝と政子の遺骨を納め、美作国大原保を寄進している。これは政子が若年の義氏の保護者であった縁によると考えられる。
【中略】
 『吾妻鏡』などには、足利義氏が北条氏一門と行動をともにし、親密な交流があったことをうかがわせる記載がみられる。特に、義氏が北条時房の後を承けて武蔵守に、同じく義時の後に陸奥守となり、時房没後には政所別当に就任し、泰時が没した翌年の寛元元年(一二四三)正月垸飯では第一日の沙汰人を務めていることなどは象徴的である。義時の遺領配分とあわせて、義氏に対する厚遇は北条政子・義時の保護下で義氏が「猶子」的な扱いを受けていたことを示唆する。政子・義時に後見されて成長した義氏は、時房や泰時に准じ、時に彼らの代役となり得る「准北条一門」とでもいうべき存在だったと考えられる。
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と書かれていますが(p53以下)、高野山金剛三昧院の件など、確かに義氏が政子・義時の「猶子」的な、「准北条一門」的な立場でないと説明が困難ですね。
義氏の立場がこのようなものであれば、四条隆親は決して北条氏から独立した有力御家人である足利義氏と結びつきたいと考えたのではなく、北条氏との関係を強化するために足利義氏に近づいたと考えることができそうです。
あるいは、北条氏が四条隆親と足利義氏女の結婚を斡旋・仲介したと考える方が自然なのかもしれません。
このように考えると、具体的に二人を結び付けた存在として、六波羅探題北方の北条重時と、その同母姉妹である土御門定通室の名前が浮かんできます。
実は、能子は隆顕を生んだ翌寛元二年(1244)三月一日以前に死去していて(『平戸記』同年三月二日条)、足利家との縁が弱まった後、なお隆親が隆顕を嫡子とした理由も謎だったのですが、北条氏との縁こそが重要だったのだと考えれば、これも自然です。

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