学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御

2018-01-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 7日(日)11時56分15秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p215以下)

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 年もかはりぬ。春のはじめは、おしなべて程々につけたる家々の身のいはひなど、心ゆきほこらしげなるに、睦月〔むつき〕の五日より内の上〔うへ〕例ならぬ御事にて、七日の節会〔せちゑ〕にも、御帳〔みちやう〕にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思〔おぼ〕しあへるに、九日の暁〔あかつき〕かくれさせ給ひぬとてののしりあへる、いとあさましともいふばかりなし。みな人あきれまどひて、中々涙だに出〔い〕でこず。女御もいまだわらは遊びの御さまにて、何心なくむつれ聞えさせ給へるに、いとうたていみじければ、うちしめり屈〔くん〕じてゐ給へるほど、幼〔をさな〕げにらうたし。大殿の御心のうち思ひやるべし。御せうとの若君〈左大臣忠家〉も殿上〔てんじやう〕し給へる、ただ御門の同じ御程にて、さわがしきまでの御遊びのみにて明かしくらさせ給ひけるに、かいひそみて群がりゐつつ鼻うちかみ、うち泣く人よりほかはなし。かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにもかの遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし御霊〔ごりやう〕どもにや、とぞ世の人もささめきける。御なやみのはじめもなべてのすぢにはあらず、あまりいはけたる御遊びより、そこなはれ給ひにけるとぞ。いまだ御つぎもおはしまさず、また御はらからの宮なども渡らせたまはねば、世の中いかになりゆかんとするにか、とたどりあへるさまなり。
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仁治三年(1242)の正月早々、四条天皇が僅か十二歳で死んでしまいます。
『増鏡』では「御なやみのはじめもなべてのすぢにはあらず、あまりいはけたる御遊びより、そこなはれ給ひにけるとぞ」という程度にぼかしてしますが、『五代帝王物語』には、

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主上は仁治二年正月五日御年十一にて御元服ありて、女御には故洞院摂政の御女十二月十三日にまいり給て、目出たかりしほどに、同三年正月五日より主上いささか御不予の事ありて、七日節会にも出御なかりしかども、さほどの御事やはとおぼえし。九日寅時に崩御有しかば、ともかくも申ばかりなし。女御は立后もなくており給ひぬ。宣仁門院とぞ申。同四年<寛元元>二月廿三日院号はありけり。さて是も利口にてや侍らめども、まさしく有しことなりとて語侍りし。主上あどなくわたらせ給て、近習の人女房などをたふしてわらわせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、主上あしくして御顛倒有けるを、御犬の立まはり/\、如法にほえまいらせたりけるこそ前表にて有ける。やがて御悩つかせ御座して、取あへず御大事に及けり。併天魔の所為也。
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とあります。(『群書類従・第三輯』、p430)
正月五日、四条天皇は近習や女房を転ばして笑おうと思って弘御所の板敷に蝋石の粉を巻いたところ、自分が転んでしまって頭を打ち、それを見た御犬(敬語付き)が吠えまくって人々に知らせたのだそうです。
天皇はそのまま寝込み、四日後の九日に死んでしまったとのことで、歴代天皇の中でもこれほど情けない死に方をした人は珍しいのではないかと思います。
『五代帝王物語』では、上記に続けて、

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されば禁中にさまざまの物現じてみえけるとかや。又二条からす丸の北のつら、烏丸より西には、野依の姫宮の御座しけるが、主上の御事とて世中ひしめけば、姫宮もあはれに浅ましくおぼして、二条南の門に向きたる妻にて、内裏へ人の馳参を御覧じいだしたりけるに、西の方より辻祭などのをとして、囃ののしりてくれば、是程の世中に、ただ今なにわざなればかくはあるぞと怪く御覧じけるに、まさに門前を過るを見れば、辻祭の田うへと云事の様に、わざと烏帽子ゆひてきたるもの、たまだすきあげて、或はささらをすり、鼓をうち、或は拍子をたたきて、うれしや水とはやしかけて東へ通ける。こはいかに折ふし不思議のありさまかなと見けるが、東すぎて後は音もせざりけり。天魔のよくあれたりけるやらんとぞおぼえし。又四条室町辺なる在家の下臈の夢に見えけるやうは、ことにそらもはれたるに、午時ばかりの日の雲もなくてりたるが、俄に四条室町の大路の溝の中に落入とみえたりける。不思議の夢かなと思ほどに、二三日ありてかかるあさましき御事はいできにけり。思がけぬ下臈の夢にも、是ほどの御事を見たりける。ふしぎの事也。
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という長い怪異譚があるのですが、『増鏡』では「かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにもかの遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし御霊どもにや、とぞ世の人もささめきける」となっていて、後鳥羽院の怨霊話になっています。
なお、「御霊ども」と複数形ですが、佐渡の順徳院は仁治三年(1242)九月崩御で、正月の四条院崩御の時点ではまだ死んでいませんから、阿波の土御門院が後鳥羽院と一緒に怨霊扱いされているようで、井上氏もそう解されています。
このあたりも『増鏡』と『五代帝王物語』の関係を考える上で、ちょっと気になるところです。

四条天皇(1231-42)

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