学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通

2018-01-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 7日(日)13時09分28秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p219以下)

-------
 さてしもやはにて、東へぞ告げやりける。将軍は大殿の御子、今は大納言殿と聞ゆ。御後見は承久に上りたりし泰時の朝臣なり。時房と一所にて小弓射させ、酒もりなどして、心とけたる程なりけるに、京よりの走り馬といへば、何事ならんと驚きながら、使ひ召し寄せて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、その席よりやがて神事はじめて、若宮社にてくじをぞとりける。
 その程、都にはいとうかびたる事ども、心のひきひきいひしろふ。佐渡院の宮たちにや、など聞えければ、修明門院にも御心ときめきしてうちうちその御用意などし給ふ。承明門院も、もしやなどさまざま御祈りしたまふ。東の使ひ、都に入るよし聞えける日は、両女院より白河に人をたてて、何方へか参ると見せられけるぞことわりに、げに今みゆべき事なれど、ものの心もとなきは、さおぼゆるわざぞかし、と例の口すげみてほほゑむ。
-------

承久の乱以降、朝廷単独で皇嗣を決定できない状況の中で、朝廷から四条天皇崩御を知らせる急使が幕府に派遣されますが、この「走り馬」が鎌倉に到着した時、将軍の「御後見」北条泰時は「時房と一所にて小弓射させ、酒もりなどして、心とけたる程なりける」とあります。
しかし、実際には北条時房は二年前に死んでしまっています。
後述するように、『増鏡』より前に成立し、『増鏡』作者が参考資料として用いたことが明らかな『五代帝王物語』では時房は登場しないので、この場面では『増鏡』作者が時房を追加したことになります。
このあたり、少し後に老尼が登場して「例の口すげみてほほゑむ」(例のごとく口をすぼめてほほえんだ)とあることも考慮すると、『増鏡』作者の意図について検討する必要はありそうです。

北条時房(1175-1240)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%88%BF

さて、京では順徳院皇子の践祚を「御心ときめき」して待つ修明門院周辺と、土御門院皇子の践祚を期待する承明門院周辺が落ち着かない気持ちでいる中、鎌倉からの使者が到着します。

-------
 日ぐらし待たれて、城介義景といふ者、三条河原にうち出でて、「承明門院のおはしますなる院はいづくぞ」と、かの院よりたてられたる青侍の、いとあやしげなるにしも問ひければ、聞く心地うつつとも覚えず。しかじかと申すままに、土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強く固め、扉もさびつき、柱くちてあかざりけるを、郎等どもにとかくせさせて、内に参りて見まはせば、草深く苔むして、人の通へるあともなし。故通宗宰相中将の、弟を子にし給へりし定通の大臣、何となく、おのづからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子、直衣にてさぶらひ給ひけるが、中門に出でて対面し給ふ。義景は切戸のわきにかしこまりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と申して出でぬ。院の中の人々上下夢の心地して、物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。世の人の心地みな驚きあわてて、おし返しこなたに参り集ふ。馬・車の響きさわぐ世のおとなひを、四辻殿にはあさましう、なかなか物思しまさるべし。
-------

安達義景(1210-53)が三条河原に着くと、そこにたまたま承明門院(1171-1257)から様子を見に行くようにいわれた「青侍」がいて、義景に承明門院御所の場所を聞かれ、「青侍」は夢心地のまま答えます。
その返答に従って義景が承明門院御所の「土御門殿」へ行くと、門は葎がしっかりと覆い、扉の金具も錆びつき、門柱は腐っていて開かないという有様で、無理やりこじ開けて庭へ入ると草深く苔むしていて人が通った跡もないという、これまた芝居の書き割りのような光景です。
そして、そこに土御門院皇子の母方の祖父であった「故通宗宰相中将」のニ十歳下の異母弟で、通宗の養子となっていた土御門定通(1188-1247)が何となく、万一の場合もあろうかと思って、糊気も失せてよれよれになった烏帽子・直衣姿でいて、中門で義景と対面し、「阿波の院の皇子が御位につかれますように」と言われ、定通以下、承明門院方の人々は上下貴賤を問わず夢心地がして、物にぶつかるほどうろたえ慌てたのだそうです。
そして、おそらく順徳院皇子が天子になるのだろうと予測して「四辻殿」に伺候していた人々も、驚き慌てて「土御門殿」に参集し、馬・車の響き騒ぐ様子を、「四辻殿」では情けなく聞いていたことだろう、というまことにドラマチックな展開となります。
このあたりの『五代帝王物語』の叙述との比較は、次の投稿で行います。

安達義景(1210-53)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%BE%A9%E6%99%AF
土御門定通(1188-1247)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%AE%9A%E9%80%9A
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「巻四 三神山」(その3)─... | トップ | 『五代帝王物語』の「かしこ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『増鏡』を読み直す。(2018)」カテゴリの最新記事