学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻四 三神山」(その5)─後嵯峨天皇践祚

2018-01-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 8日(月)11時11分0秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p227以下)

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 又の日やがて御元服せさせ給ふ。ひき入れに左大臣<良実>参り給ふ。理髪、頭弁〔とうのべん〕定嗣〔さだつぎ〕つかうまつりけり。御諱〔いみな〕邦仁。御年二十三。その夜やがて冷泉万里小路殿へうつらせ給ひて、閑院殿より剣璽など渡さる。践祚の儀式いとめでたし。そののちこそ閑院殿には追号〔ついがう〕のさだめ、御わざの事など沙汰ありけれ。二十五日に東山の泉涌寺〔せんゆうじ〕とかやいふほとりにをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがて彼の寺に御庄〔さう〕など寄せて、今に御菩提を祈り奉るもさきの世の故ありけるにや。
 この御門、いまだ物などはかばかしくのたまはぬ程の御齢〔よはひ〕なりける時、たれとかや、「さきの世はいかなる人にておはしましけん」と、ただ何となく聞えたりけるに、かの泉涌寺の開山の聖〔ひじり〕の名をぞ確かに仰せられたりける。また人の夢にも、この御門かくれさせ給ひて後、かの上人、「われすみやかに成仏すべかりしを、よしなき妄念〔まうねん〕を起こして、今一度人界〔にんがい〕の生をうけ、帝王の位に至りて帰りてわが寺をたすけんと思ひしに、果たしてかくなん」とぞみえける。まことにその余執〔よしふ〕の通りけるしるしにや、御庄どもも寄りけんとぞ覚え侍る。
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土御門院皇子の元服が二十三歳とありますが、当時は十一歳から十三歳程度で元服するのが通常なので、二十三歳というのは本当に異例です。
加冠役は二条家の祖・良実(1216-70)ですが、名前が出ているだけですね。
御所となった「冷泉万里小路殿」について、『増鏡』では特に説明がありませんが、『五代帝王物語』を見ると、

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さて新帝はやがて廿日土御門殿にて御元服あり。左大臣<良実>加冠、頭左中弁<定嗣朝臣>理髪也。今日冷泉万里小路の御所へ入せ給て、賢所剣璽などわたしまいらせて践祚の儀あり。此御所は四条大納言隆親卿の家也。閑院ふたがりぬるうへは、清涼殿造替のほど、さりぬべき所なきによりて此家を御所とす。御脱徙ののちも、始中終此御所にわたらせ給ふ。目出度吉所也。
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となっていて(『群書類従・第三輯』、p435)、四条隆親邸であることが分かります。
なお、二条良実は寛喜三年(1231)正月、四条隆親の「婿」(姉妹灑子の夫)になって、冷泉邸の「東方」に引っ越しています。
四条隆親と二条良実の関係は興味深いのですが、『増鏡』には特に言及がありません。
このあたり、秋山喜代子氏の「乳父について」(『史学雑誌』99-7号、1990)という論文を参考にして、後で少し検討します。

四条隆親(1203-79)
二条良実(1216-70)

泉涌寺が皇室の菩提寺となったきっかけは四条天皇の葬儀を取り仕切ったことにあり、泉涌寺関係でも興味深い話は多々あるのですが、省略します。

『御寺泉涌寺』公式サイト内、「概略」
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