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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その5)

2022-12-05 | 唯善と後深草院二条

機能論的分析などと大仰なタイトルをつけていますが、「有明の月」が登場する巻二・三から「有明の月」関係記事を引き算してみれば、作者が「有明の月」に期待した「機能」が見えてきますね。
一つは二条が宮廷から追放された原因の粉飾ですが、もう一つは善勝寺大納言・四条隆顕に関係します。
「隆顕父隆親と不和、作者隆顕と面会」(20)に入ると、隆顕が父・隆親と対立して苦境に陥ったことを知った二条は隆顕に手紙を書き、隆顕は二条を醍醐に訪ねます。
そして二人は、

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「さてもいつぞや、恐ろしかりし文を見し、我すごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ身といひ、かかることの出できぬるも、まめやかに報いにやと覚ゆる。

http://web.archive.org/web/20130216013800/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-20-takaaki.htm

という具合いに、自分たちの不幸の原因を「有明の月」の起請文に求めます。
「雪の曙来訪、隆顕と三人で語る」(21)では、「雪の曙」(西園寺実兼)も二条を探し当てて醍醐に来て、隆顕と三人で酒盛りをしたりしますが、別れ際に「雪の曙」と二条が交わした和歌のいずれにも「有明の月」が含まれているのは些かわざとらしい展開です。

http://web.archive.org/web/20061006205759/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-21-yukinoakebono.htm

「小林に移る、曙との女児の病」(22)に入ると、二条は醍醐から「伏見の小林といふ所」の乳母の母(宣陽門院伊予殿)の家に移りますが、ここでも、

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 今宵は何となく日も暮れぬ。御ははが母伊予殿、「あなめづらし。御所よりこそ、これにやとててびたび御尋ねありしか。清長もたびたびまうで来し」など語るを聞くにも、「三界無安猶如火宅」といひ給ひける人の面影うかむ心地して、とにかくにさもぞ物思ふ身にてありけると、われながらいと悲し。
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という具合いに(『とはずがたり(上)全訳注』、p300)、「「三界無安猶如火宅」といひ給ひける人」、即ち「有明の月」を自分の憂いの原因として思い出します。
「院来訪、作者御所にもどる、着帯」(23)、「曙との女児に再会」(24)では「有明の月」への言及はありません。
そして、「近衛大殿、院と久我家を語る」(25)以下、「伏見で院の今様伝授と遊宴」(26)、「大殿作者を捉える」(27)、「酒宴の後、院の黙契で大殿作者と契る」(28)、「舟遊、ふたたび大殿と逢う」(29)という具合いに、伏見殿を舞台とする長大な「近衛大殿」ストーリーが巻二の最後まで続きます。

http://web.archive.org/web/20061006210249/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-25-konoeno-otono.htm

籠居中の隆顕も後深草院に呼び出されて参上しますが、その際に白拍子を二人連れてきます。

http://web.archive.org/web/20061006205643/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-26-imayodenju.htm

そして、伏見殿の中にある「筒井の御所の方へ、ちと用ありて」出かけた二条を「近衛大殿」が捕まえて関係を持ちます。

http://web.archive.org/web/20061006205917/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-27-sakushawo-toraeru.htm

翌日の宴会では、

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 かねの折敷に、瑠璃の御器にへそ一つ入れて、妹賜はる。 後夜打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚の破不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞にて果てぬ。

http://web.archive.org/web/20061006205657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-28-innomokkei.htm

ということで、酒宴の際に白拍子が歌った「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」に「有明の月」を連想した隆顕が二条に目配せすると、二条も「有明の月」の妄執を思い出して恐ろしく思ったのだそうです。
この後、後深草院の承認の下、二条が「近衛大殿」と再び関係を持つことになりますが、後深草院の御前に戻った二条に対し、後深草院が「殊にうらうらとおはしま」したという場面は、『とはずがたり』でも屈指の変態的愛欲エピソードですね。
その翌日も二条は「例のうらうらと」している後深草院の承認の下に「近衛大殿」と関係を持ちますが、「近衛大殿」との別れの際には、二条も、

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何となく名残惜しきやうに、車の影のみられ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。

http://web.archive.org/web/20061006205448/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-29-funaasobi.htm

と思ったのだそうで、何とも不可解な、謎めいた展開です。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その4)

2022-12-05 | 唯善と後深草院二条

前回投稿で「少なくとも鎌倉時代までの起請文で、漢文で書かれていないものはないように思います」などと書いてしまいましたが、古文書に詳しい方に聞いてみたら、カタカナ・平仮名交じりの起請文もそれなりにあるとのことでした。
そこで、ネットであれこれ検索してみたところ、「同志社大学学術レポジトリ」で竹居明男氏に以下の五つの論文があることを知りました。

「起請文等神文・罰文集成ならびに索引 (稿) : 貞永元年(一二三二)まで」(『人文學』158号、1995)
「起請文等神文・罰文集成ならびに索引(稿)(二) : 天福元年(一二三三)から弘安五年(一二八二)まで」(『人文學』160号、1997)
「起請文等神文・罰文集成ならびに索引 (稿) (三) : 弘安六年(一二八三)から正安二年(一三〇〇)まで」(『人文學』162号、1997)
「起請文等神文・罰文集成ならびに索引 (稿) (四) : 正安三年(一三〇一)から文保二年(一三一八)まで」(『人文學』164号、1998)
「起請文等神文・罰文集成ならびに索引(稿)(五) : 文保三年(一三一九)から元弘三年(一三三三)まで、付追補」(『人文學』166号、1999)

https://doshisha.repo.nii.ac.jp/

これらはPDFで読めますが、一番最初の「起請文等神文・罰文集成ならびに索引 (稿) : 貞永元年(一二三二)まで」を見ると、全部で110の文書のうち、

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22 永暦元年(一一六〇)九月付・藤原景遠起請文〔石山寺所蔵聖教目録裏文書、平安遺文三一〇五号〕
若景季ニマレ景遠ニ□レ又他人ニマレ仁快ヲ召返天景遠カ許ニ天モ他所ニ天モ責勘仕タル事有ラハ、日本国中一切神祇冥道ノ罰ヲ景遠・景季・遠宗等、一々ニ可罷蒙也、
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を初めとして、23・24・25・27・30・34(治承五年正月付・中原兼遠起請文、但し出典は『源平盛衰記』)・36・51・53・57・67・84・90・99の十五の文書がカタカナ又は平仮名交じりですね。
ただ、総じて社会的身分がさほど高くなさそうな人が多く、67〔肥後阿蘇文書〕、99〔豊後詫間文書〕のように地方の人が書いたもの、あるいは女性が書いた、

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84 承久三年(一二二一)十月二十八日付・安倍氏女起請文案〔山城神護寺文書、鎌倉遺文二八五四号〕
もしとして、れせいのさんにとににても、すけつくにても、あしもりのゆつりふミ、まいらせて候ハゝ、にほんこくのかみほとけのにくまれを、けのあなことにかうふり候て、けをこしやういたつらにてはて候へし、
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などは、漢文を書きたくても書けない人のような感じがします。
例外的に、

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57 (無年月日)・小槻隆職起請文〔書陵部谷森文書、鎌倉遺文一〇〇六号〕
もしなかなりかゆつりをえてえすとも申し、またすへていま申あけ候□〔事カ〕、ひと事として、そら事をも申あけ候ハゝ、けんせにハ伊勢太神宮の神罰をまかりかふ□〔りカ〕候ひて、しそんなかくきみにつかまつらす、こせにハ三あくたうにおちて、なかくうかふこ(期)なき身にまかりなり候へし、
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は明らかに漢文を書ける小槻隆職が平仮名で書いている点、いささか不審ですが、これは文書の性格(譲状?)によるのかもしれません。
小槻隆職起請文は「三あくたう〔悪道〕」という表現を用いている点でも興味深いですね。
ついで、二番目の「起請文等神文・罰文集成ならびに索引(稿)(二) : 天福元年(一二三三)から弘安五年(一二八二)まで」(『人文學』160号、1997)を見ると、111番から223番までのうち、

111(但し「も」のみ)・120・121(但し「ニ」のみ)・135・139・140・141・144・149・152・153・158・162の1・164の1・165・177・189・191・206・207・209・215・216・218・219・220・221

の二十七文書がカタカナ・平仮名交じりですね。
ただ、120(「尼光蓮申文案」)・158(「黒河尼起請文」)・216(「あこ女起請文」)は女性が書いており、149(「若狭多烏浦百姓等起請文案」)162の1(「紀伊阿氐河荘々官請文」)・164の1(同)・191(「伊予弓削島荘百姓等連署起請文」)・218(「肥前浦部島百姓等連署起請文」)等の地方の文書も多いですね。
以上、弘安五年(1282)までに限ってもカタカナ・平仮名交じりの起請文は相当あり、前回投稿で私が書いた「少なくとも鎌倉時代までの起請文で、漢文で書かれていないものはないように思います」は完全な誤りでした。
しかし、作成者の識字能力や文書の性格(例えば譲り状に罰文が含まれるものは平仮名が多そう)によってカタカナ・平仮名交じりで起請文を書くのは例外であり、漢文で書くのが大原則であることは間違いないと思います。
「有明の月」の場合、当時として最高の教育を受けた仁和寺御室の高僧として造型されていますから、こうした人物が佐藤進一の言う「自己呪詛」付の起請文を書くとしたら、当然に漢文となるでしょうね。

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