学問空間

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「宗教的人格権」

2019-08-20 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月20日(火)14時10分14秒

>好事家さん
残念ながら私は好事家さんの主張にあまり共感できないのですが、好事家さんの主張を法的に構成すると、元号使用の強制は「国家神道」の強制であり、キリスト教信者の心の静謐を著しく害するので「宗教的人格権」の侵害だ、といったことになるかと思います。
とすると、類例としては自衛官護国神社合祀事件などが思い浮かびます。

自衛官護国神社合祀事件

争う手段としては、銀行の元号使用強制が「宗教的人格権」の侵害だとして、民法709条(不法行為)に基づく慰謝料請求を行なうことが考えられます。
銀行側も別に宗教的な信念に基づき元号使用を要求している訳ではなく、単に元号・西暦の混在による事務処理上の混乱を防止したい、といった程度の理由で契約条件を設定しているものと思われますが、これはこれで営業活動の自由という憲法上の権利(憲法22条1項)の発現といえそうですね。
好事家さん側にそのような銀行側の権利を凌駕するだけの、憲法上保護に値する利益があるかどうか、が問題となりますが、「国家神道」の定義ひとつをとってもクリアーすべき法的課題は山積しており、なかなか難しそうですね。
妻の同意なくして護国神社に合祀されてしまったとの、クリスチャンである妻にとっては相当に心の静謐を脅かされたと思われる前掲のケースでも、最高裁は「宗教的人格権」の侵害を認めませんでした。
結論として、好事家さんの主張が法的に正当なものとして認められる可能性はあまりないのではないかと思います。

※好事家さんの下記投稿へのレスです。
「小太郎さんまた教えて下さい」
「右の人とのやりとり」
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関口精一、かく語りき(その2)

2019-08-19 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月19日(月)11時44分56秒

佐伯真光氏の『アメリカ式・人の死にかた』(自由国民社、1973)をパラパラ眺めてみたところ、ハーヴァード大学に三年間留学していただけあって文章は全然抹香臭くなく、「南無シュワイツァー大明神─つくられた神話とその信者たち」といったタイトルのセンスはポップでアメリカンですね。
また、佐伯氏が住職をされていた横浜の宝生寺は古くからの由緒を誇るなかなかの名刹だそうです。

「青龍山宝生寺。旧古義眞言宗法談所、東国八十八ヵ所霊場、横浜磯子七福神の寿老人」(『猫の足あと』サイト内)
https://tesshow.jp/yokohama/minami/temple_hori_hosho.html

さて、前回投稿で紹介した部分の後、佐伯氏が、昭和35年にアイゼンハワー米大統領来日(予定)時の明治神宮参詣計画に対し日本のキリスト教徒が反対運動を起こしたことに触れて、天皇のウェストミンスター・アベイ参拝には反対の動きがなかったことを指摘すると、関口氏は、

-------
関口 そういう混乱は外にもたくさんありますね。刑務所での教誨活動も公共施設における宗教的行為だし、ライ療養所などの国有財産のなかにつくった宗教的施設の問題もある。アメリカでは大統領や最高裁の判事がバイブルに手をおいて宣誓するし、従軍牧師もいる。それは欧米諸国では千年来の習慣としておこなわれているようですね。こうした問題は世界中にあるようですが、とにかく私としては、戦争中の神道の横着なやり方、軍閥との癒着、戦争責任、そして靖国神社問題などに対して闘わねばならぬと思っているわけです。
-------

と答えます。(p291以下)
関口氏も国家と宗教の完全分離には困難が伴うことを、国内・国外の諸事例を通じて認識している訳ですが、自分はとにかく神社と闘うのだ、という姿勢ですね。
次いで佐伯氏が高裁判決の感想を聞くと、関口氏は、

-------
関口 ひじょうに格調の高い判決だと思いましたね。あのころの情勢は、だいぶ右翼的な司法反動化があり、三人の裁判官もこれまで労働運動に関してあまりよい判決を出していない。裁判長は高齢で、もちろん青法協でもありません。あのような判決を出したことに感服しました。同時に、判決文を見ても私たちの答弁書をよく理解されたところがあり、この点、私たちの努力が認められたといえるんで、うれしく思いました。
-------

と回答します。
関口氏の立場から見て「三人の裁判官もこれまで労働運動に関してあまりよい判決を出していない」というのは、藤林益三にも当てはまりますね。
また、「裁判長は高齢」とありますが、伊藤淳吉裁判長は名古屋高裁の後、札幌高等裁判所長官を勤め(1973-74)、これを最後に定年退職しているようなので、1974年に定年の65歳とすると、1971年の名古屋高裁判決時には62歳くらいとなりますね。
さて、この後、佐伯氏が国家と宗教が交わる事例について色々質問しますが、郵便局のクリスマスツリーに関連して、関口氏は、

-------
関口 保育園や孤児院の施設に市長などが、クリスマスにサンタクロースの恰好をして贈物を配りに行く。私は市長に、サンタクロースの姿は北欧の風俗を借りたのだからよいとしても、十字架をかけたり、キリストの話をしたり、讃美歌をうたわせたりするのは止めるべきだと話した。市長もよくわかったといっていました。
-------

と答えます。(p294)
関口氏の立場からすればサンタクロースの恰好をすること自体がダメ、というのが素直だと思いますが、なかなか微妙な区分ですね。
また、社寺の文化財に国が補助金を出す問題については、

-------
関口 文化財として保護するのは別ですが、どこまで政府として保護するのか、その限界はむつかしい。
-------

と関口氏にしては些か歯切れが悪く(p295)、更に宗教法人の幼稚園に政府が助成金を出す問題についても、

-------
関口 それはおかしいことだ。ただ日本の場合、公立学校の施設が足りず学生生徒を収容しきれないので、国や自治体が私立学校に助成するということはありますね。
-------

という具合に私立学校一般の問題に論点をずらしてしまってしまっています。(p295)
ちょっと面白いのが、佐伯氏が西ドイツの憲法では「宗教」(キリスト教)教育をせよと書いてある、と質問したのに対し、関口氏が、

-------
関口 東ドイツも、例えば裁判で宣誓するときに共産党員でも「神に誓って」というのだそうですね。私も共産党員ですが、日本の共産党の人でも選挙などになると「必勝を祈る」という。また葬式で「在天の霊、これを享けよ」という弔辞を読んだり「安らかにお眠り下さい」などという。これは明らかに何らかの宗教思想を前提とした宗教的発想ですよ。
 「祈る」というのは、お前が当選してほしいという直説法ではなく、神の加護があれかしという間説法ですからね。私はいつも仲間にそういっているんですが、どうもそれが普通のようになっているところがあり、これは問題だと思っています。
-------

と答えている点で(p295以下)、「必勝を祈る」まで駄目という主張は、共産党「仲間」の中でもあまり評判が良くなかったようですね。
このあたり、共産党の支援がなかった背景事情を語っているようでもあります。
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関口精一、かく語りき(その1)

2019-08-18 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月18日(日)09時24分59秒

佐伯真光氏による関口精一氏へのインタビューも参考までに抜粋して引用しておきます。(p290以下)
なお、佐伯氏について、weblio には、

-------
高野山真言宗の僧。横浜市宝生寺住職。大正大・東北大・東大・ハーバード大などで学ぶ。湘南工科大教授。新興宗教の研究者。著『アメリカ式人の死に方』他。(一九三一~二〇〇〇)

https://www.weblio.jp/content/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%9C%9F%E5%85%89

とありますが、『アメリカ式・人の死にかた』(自由国民社、1973)を確認してみたところ、奥付の「著者紹介」には、

-------
昭和5年11月1日横浜に生れる。東北大学文学部印度学仏教史学科卒業。東京大学大学院博士課程在学中の昭和36年ハーバード大学世界宗教センターに留学。39年帰国。
現在宝生寺(高野山真言宗)住職。相模工業大学助教授。国学院大学講師。
-------

とあり、生年は weblio とは違って1930年とのことなので、関口精一氏より15歳下ですね。
インタビューがいつ行われたのかは書いてありませんが、名古屋高裁判決が1971年5月14日、『法と宗教』の刊行が1972年12月、そしてこのインタビューは雑誌「時の課題」七月号より引用とのことなので、1972年の春くらいでしょうか。

-------
〔参考〕「神様」へ抗議する─雑誌「時の課題」七月号より引用─

地鎮祭違憲訴訟をおこした共産党市議(当時)に
率直に問題点をただした核心に迫る一問一答─

語る人 関口精一
きく人 佐伯真光


天皇と伊勢神宮

─「公共機関主催の神式地鎮祭は信教の自由を侵し憲法違反だ」という訴訟を最初に提起されたのは、どんな動機からでしょうか。

関口 第一審で負けたときに私がまとめた「神のたそがれ」にも書いておりますように、基本的には明治いらいの神道国教化、とくに戦争中はこれが横暴なほどに進められ戦争政策とファシズム・天皇制護持に役立ってきている。これを何とかしなければという考えからです。
 当面の政治課題としては靖国神社国営化と、三重県民として地域的な責任としての伊勢神宮国家護持への反対があります。国会でとり上げる、デモや集会をやるのも大きな力になりますが、地方行政の面でとどめをさして成果を挙げる、判例として確定させる、そういう形で行動に参加することを考えたわけです。
 たまたま私は津市の市会議員だったので、地方自治の上でやりやすい立場にもあったということですね。

─地域的な責任、といわれるその伊勢神宮の問題では、具体的にどんなことがあるのですか。

関口 天皇や総理大臣その他の官僚が伊勢神宮に参拝する。厳密には天皇は自分のポケットマネー、つまり内廷費で来ていると思いますが、やはりこれは天皇制と神社神道の強化につながる政治的ページェントです。また、佐藤首相が来て神宮の宗教的建物の中で政治的会見をする。こういう慣習をつくりあげることは危険なことです。

─その天皇陛下の神宮参拝との関連ですが、去年の秋、天皇陛下がヨーロッパに行かれたときロンドンのウエストミンスター・アベイに参拝されたことについては、関口さんはどうお考えですか。

関口 ウエストミンスター寺院はイギリスの国教会で、いわば靖国神社的意味もあり無名戦士の墓や大臣宰相をまつってあるから、そこに儀礼的に行くのは止むをえないでしょう。アラブ諸国から来日したお客が伊勢神宮に行くこともあるし、これは信仰的な問題じゃない。思想的に私ども無神論者からいうと、無名戦士の墓に花輪をささげるのは無意味なことだと思いますが、人生には儀式というものがあって、そこまでいわなくてもよいでしょう。だが、靖国、伊勢神宮に対する天皇、政府のいまの態度は絶対許してはなりません。
-------

「思想的に私ども無神論者からいうと、無名戦士の墓に花輪をささげるのは無意味なこと」といったあたりに関口氏の思想の極端さが窺われますが、ここはまだ序の口です。
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「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」(by 佐伯真光氏)

2019-08-17 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月17日(土)11時42分40秒

石川健治氏は関口精一氏について、

-------
「生まれてからの体験と長い市会議員生活のなかで、憲法と地方自治を守り、筋をとおす私なりの任務」を自覚して、本人訴訟としてたったひとりの闘いを開始した、原告・関口精一の想念。「戦後神道指令で一掃されたかとみえた神社神道の儀式の温存復活は地味に陰湿にすすめられてきた」のであり、「その一つである公共建物建設に際しての地鎮祭をとらえて、この風潮の危険性を摘出し、未開拓の憲法判例をつくりあげ、伊勢靖国の闘いに参加しよう─平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそう」という想いが、彼を内側からつきあげてきた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0902501af7bc46a2f134585e1b14d912

などと賞賛されるのですが、もちろん批判する人もいますね。
石川氏が「神社サイドからは、そこに関口の党派性を嗅ぎ取ろうとする向きもあった」などと「地味に陰湿に」言及する「政教関係を正す会編『法と宗教』(経済往来社、1972年)259頁以下」を見てみると、これは「政教関係どうあるべきか」というタイトルの座談会の記録で、参加者とその肩書は次の通りです。

-------
出席者
 福井康順(大正大学学長 早稲田大学名誉教授)
 小野祖教(国学院大学教授)
 相原良一(東京水産大学教授)
 新美忠之(皇学館大学教授)
 佐伯真光(相模原工業大学助教授)
司会
 西田広義(国学院大学講師)
-------

そしてこの座談会は佐伯真光氏が関口精一氏に行ったインタビューを基礎資料として進められて行きます。
その冒頭を少し紹介してみると、

-------
 病的に神経質・極端な関口理論

西田(司会)津の地鎮祭の問題で昨年五月名古屋高裁の伊藤淳吉裁判長が違憲判決をしたのがきっかけで、にわかにまた宗教と政治の問題が大きな関心をもたれるようになっているのはご承知のとおりですが、実は最近の雑誌「時の課題」(七月号)に、この地鎮祭訴訟のもともとの原告人である関口精一氏に佐伯先生がインタビューされた記録が出ております。(本書二九〇頁に転載)これは、実際に話し合われた全体の三分の一程度しか出されていないということで、その意味では決して十分とはいえないかもしれませんが、とにかく、この問題を起こした関口氏の動機なり基本的考え方が、かなりに理解されると思います。
 そこで今日は、このインタビュー記事を手がかりにして、地鎮祭問題も含んで現在ひじょうに混乱しております宗教と政治の問題を、私どもはいったいどう考えて行ったらよいのか、というとして【ママ】ことについてお話合い願えれば幸いだと存じます。最初に「時の課題」のインタビューアーとして関口さんにお会いになった佐伯先生からお話しいただけませんか。

佐伯 私の感想は、あの記事の最後の「インタビューを終えて」という短い感想文にまとめておきました。インタビュー記事をお読み下さるとわかりますように、私はいろいろ政教関係に関する具体的な例をあげて、一々これはどうお考えになりますか、と関口さんにかなりしつこく聞いているのですが、それに対して関口さんは、そうですね、とか何とかいって、それに賛成なのか不賛成なのかわからないような返事をされ、具体的な質問には直接的な答えを避けてしまわれる。そして、最後には、「アメリカのことやクリスチャン内部のことは自分がいまとやかくいう問題ではない、それは信教の自由だから」というように逃げてしまわれる。ところが私は、地鎮祭問題は決して一つの孤立した問題ではなくて、すべての宗教に関連がある問題であって、具体的な諸事実に対する態度を明らかにしないで地鎮祭だけがいけないというのはおかしいじゃないか、という一貫した立場で質問していたわけです。それを、地鎮祭はいけないのだとしながら、それとは矛盾してくる問題が出されると、それには答えない。これがこのインタビューの一つの特徴だといえると思います。
 第二に注意していただきたいのは、関口さんは共産党員でして、無神論の立場に立って地鎮祭訴訟を提起されたわけですが、その訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者だということです。このため関口さんは、キリスト教に不利になるようなことには触れようとしないか、あるいは弁護するという姿勢をとっているわけです。この点は、インタビューを冷静に読んでいただければ、誰でも気づくはずです。
 そこで、関口氏はいったいどういう立場で地鎮祭訴訟をおこしたのかという動機ですが、要するにそれは神社神道に対する憎しみということなのですね。神社神道をやっつけるための手段としてこの訴訟をおこした。そして、この訴訟を支援してくれるものがあれば、たとえ共産主義・無神論の立場に反するものであっても、手を握ろうという態度をとっている。これが果たして政教関係のあり方をまじめに考える立場といえるのだろうか、私は甚だ疑問に思います。
 そのいちばん良い例は、私が、政教分離をどこまで厳密にするかは国によっていろいろ違う、ということを欧米諸国の例を挙げて指摘しながら、「関口さんは日本の政教分離の壁を現実にはどこに設けたらよいと考えておられるのか」と聞きますと、「それは政治的な力関係だ」というんですね。「信教自由・政教分離の問題を力でもって解釈するという考え方には賛成できない」と私がかさねて聞いても、その意見をどこまでも固執する。このインタビューを注意深く読んでいただくと、そういう関口さんの考え方─神社神道への憎しみと、それを力関係だけで押し切ろうという考えでこの訴訟を起こされているのだということが、浮き上がってくるのではないかと思います。
-------

といった具合です。
先に引用した石川氏の関口評には「憲法」という表現が三回出てきますが、関口氏を「内側からつきあげてきた」のが「平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそうという想い」なのか、それとも「神社神道に対する憎しみ」なのかは、立場によって見方が異なってきますね。
私がインタビューを読んだ印象としては、1915年生まれの古参の共産党員である関口氏は、政治的に利用できそうなものは何でも利用しようとする貪欲なマキャベリストで、煮ても焼いても喰えない古狸、といった感じですね。
そして、私にとって一番興味深いのは、「関口さんは共産党員でして、無神論の立場に立って地鎮祭訴訟を提起されたわけですが、その訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者だという」点です。
日本において、キリスト教と共産主義がかなり親和的であり、両者の「習合」が幅広く見られるのは何故なのか、というのは私の以前からの問題意識の一つです。

「鵜飼信成とジョー小出」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9657bdf226e23d1e87dc905efa4276c
「彼の容貌は野坂参三と酷似」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be7bde0dedbd37b2a7437f60b48c66ee
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「たったひとりの闘いを開始」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その8)

2019-08-16 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月16日(金)11時28分52秒

それでは「Ⅰ 津地鎮祭事件判決の形成」に入ります。(p163以下)

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1 渦巻く想念

 この判決書全体は、多くの人々の想念が、ぶつかり合ってできたものである。
 まずは、「生まれてからの体験と長い市会議員生活のなかで、憲法と地方自治を守り、筋をとおす私なりの任務」を自覚して、本人訴訟としてたったひとりの闘いを開始した、原告・関口精一の想念。「戦後神道指令で一掃されたかとみえた神社神道の儀式の温存復活は地味に陰湿にすすめられてきた」のであり、「その一つである公共建物建設に際しての地鎮祭をとらえて、この風潮の危険性を摘出し、未開拓の憲法判例をつくりあげ、伊勢靖国の闘いに参加しよう─平和運動の一つとして、憲法を暮らしに生かそう」という想いが、彼を内側からつきあげてきた。
 1967年3月に出された地元津地裁の判決では、あえなく敗訴。曰く、「地鎮祭の発生原因となった」「原始信仰は永い年月の間に近代的宗教の成立発展につれて我が国民の意識の底に沈澱し自然崇拝に起因する地鎮祭の行事、儀式だけが永年に亘り続けられるに従い漸次本来の信仰的要素を失い、形式だけが慣行として存続されているうちにいつしか地鎮祭は何らの宗教的意識を伴うことなしにただ建築の着工にはそれをやらなければ形がととのわないと言つた意味での習俗的行事として一般の国民が考えるようになつて来たものと言えよう。」「地鎮祭が右のように我が国民からこのような習俗的行事として受けとられ、且つ行われている以上、本件起工式もその例外である筈がなく、」「参列した殆んどの人々も神道の教義の布教宣伝とはかかわりなく、ただ工事の安全を願い従来の慣行に従いこれを実施したにすぎないことは明白である」。
 この地裁判決は、ある意味で、「世間」の常識ともいうべき判断である。それでも、関口は屈することなく直ちに控訴し、「忙しい仕事の合間をぬい、てさぐりで」「資料の収集、鑑定人さがし」を行い、闘いを継続した。控訴審ではじめて弁護士がつき、『神のたそがれ─神道起工式裁判の記録』(上巻、1969年)をも刊行した。
-------

「イミダス」で関口精一氏の略歴を見ると、

-------
関口精一
津地鎮祭訴訟の原告、死去
2003/02
セキグチ・セイイチ。元・津市議。
2月6日、津地鎮祭訴訟の原告として知られる元・津市議の関口精一さんが、脳内出血により死去。87歳。
1915年、北海道生まれ。北海道大学卒業後、東京の機械会社に就職。44年に津市に転勤。55年から67年まで津市議を3期務めた。65年に行われた市主催の市立体育館の地鎮祭で、神官への謝礼などで公金7663円を支出した件を、当時の市長を相手どり、信教の自由、公金の宗教団体への支出禁止を定めた憲法第20、89条に違反すると提訴。津地裁は67年、請求を棄却したが、名古屋高裁は71年、違憲と判断。最高裁は77年、憲法の「政教分離」の原則についての判断基準「目的・効果基準」を示し、合憲と判断、請求を棄却した。

https://imidas.jp/hotkeyperson/detail/P-00-104-03-02.html

となっています。
石川氏は触れていませんが、関口氏は日本共産党員ですね。
ただ、津地鎮祭訴訟の開始時点では共産党の組織的支援はなく、自由法曹団のような共産党系の弁護士団体の弁護士も付かず、関口氏は本人訴訟を余儀なくされます。
控訴審では弁護士が付きますが、意外なことにその多くは共産党の弁護士ではなく、キリスト教関係者だったそうですね。
そのあたりの事情は、「彼を内側からつきあげてきた」に付された注17の文献を見ると知ることができます。

-------
17) 参照、関口精一「なぜこの裁判を提起したか」津地鎮祭違憲訴訟を守る会編『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社、1969年)249頁以下。これに対して、神社サイドからは、そこに関口の党派性を嗅ぎ取ろうとする向きもあった。参照、政教関係を正す会編『法と宗教』(経済往来社、1972年)259頁以下。
-------

石川氏は「これに対して、神社サイドからは、そこに関口の党派性を嗅ぎ取ろうとする向きもあった」などと書いていますが、嗅ぎ取るも何も、関口氏本人は自分が共産党員であって、共産主義者としての信念に基づいて訴訟を提起したことを全然隠していません。
なお、政教関係を正す会編『法と宗教』に転載された関口氏の雑誌インタビューによれば、関口氏は北海道大学工学部卒だそうなので、もしかしたら白鳥事件と何か関係があるのかなとチラッと思ったのですが、北海道は大学卒業後直ぐに離れているようなので、それはなさそうですね。

白鳥事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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「越山が古巣の東京地裁に戻った時分」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その7)

2019-08-16 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月16日(金)09時48分7秒

ちょっと脱線します。
最高裁内部での人間関係など、外部からはなかなか伺い知ることができませんが、可部恒雄氏の「性急な法曹一元論を排す─ある元キャリア裁判官の思うこと」(『論座』64号、朝日新聞社、2000)には、

-------
 最高裁の調査官として、ある事件について主任裁判官とかなり激しい議論をしていた時のことである。そのご意見が記録に照らして誤りであることを具体的に指摘した私に対して、裁判官は「私の記録の読み方が足りませんでした」と言って、頭を下げられた。調査官として現にお仕えしている最高裁判事からそのようにされて、私は内心の感動を禁ずることができなかった。事実の認定は裁判の生命であり、それにかかわる者の間に上下の区別はないのである。
 裁判官の命を受けて事件の調査にかかわる立場の調査官にしてこうである。いわんや第一線の裁判官においてをや。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c888c402c35744e904caa9dcb6347cae

とあります。
もちろん、これはある種理想的な場面なのでしょうが、こうした記事と比較してみると、藤林と津地鎮祭訴訟の担当調査官だった越山安久氏の関係は、石川氏の記述から窺える範囲でも、かなりびみょーですね。
ところで、越山安久氏の名前で検索してみたところ、「弁護士山中理司(大阪弁護士会所属)のブログ」に越山氏の経歴が出ていました。
それによれば、

-------
生年月日 S5.7.22
出身大学 東大
退官時の年齢 64 歳
叙勲 H12年秋・勲二等瑞宝章
H7.1.20 依願退官
S63.2.15 ~ H7.1.19 東京高裁14民部総括
S61.8.21 ~ S63.2.14 静岡家裁所長
S57.4.1 ~ S61.8.20 東京高裁判事
S54.4.1 ~ S57.3.31 東京地裁6民部総括
S48.4.2 ~ S54.3.31 最高裁調査官
S47.4.1 ~ S48.4.1 最高裁行政局第一課長
S44.4.1 ~ S47.3.31 最高裁行政局第三課長
S42.4.16 ~ S44.3.31 神戸家地裁判事
S41.4.7 ~ S42.4.15 福岡地家裁判事
S39.4.10 ~ S41.4.6 福岡地家裁判事補
S36.4.20 ~ S39.4.9 最高裁行政局付
S34.6.16 ~ S36.4.19 旭川家地裁判事補
S31.4.7 ~ S34.6.15 東京地家裁判事補

http://yamanaka-bengoshi.jp/saibankan/2019/02/24/koshiyama8/

とのことで、最高裁調査官だったのは昭和48年(1973)4月から54年(1979)3月までの六年間、年齢的には42歳から48歳までですね。
最高裁調査官になるまでの経歴を見ると、25歳で任官したばかりの時期に「東京地家裁」に三年二ヶ月配属されていますが、その後は旭川→最高裁行政局付→福岡→神戸→最高裁行政局という具合で、東京地裁とは縁がありません。
石川氏は「越山が古巣の東京地裁に戻った時分に発表した、いわゆる調査官解説」(p162)と書いていますが、果たして東京地裁は越山氏にとって「古巣」なんですかね。
単に「以前住んでいたり、属していたりした所」という意味であれば、約二十年離れていても「古巣」でよいのかもしれませんが、通常の語感では「古巣」はそれなりの長期間なじんでいた場所に限られるように思います。

https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E5%B7%A3-621874

ま、「古巣」かどうかなど、本当にどうでもいいような話ですが、「古巣」と書くことにより、石川氏がいかにも裁判官の人事に精通しているかのような雰囲気は醸し出されて来るので、石川氏がそれほど越山氏の経歴に詳しくないにもかかかわらず、そうした効果を狙って適当に書いたような感じもします。
超エリート候補の裁判官はあまり地方に廻さないという一般的な傾向はあるようなので、「古巣」は石川氏の単なる思い込みじゃないですかね。
なお、越山氏は2013年に亡くなられたそうですね。(日本経済新聞、2013/11/26付)

-------
越山安久氏が死去 元東京高裁部総括判事

越山安久氏(こしやま・やすひさ=元東京高裁部総括判事)19日、肺疾患のため死去、83歳。
告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、礼子さん。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG26030_W3A121C1000000/?fbclid=IwAR2YRUUIhBYmiwnki5M02EoR6YvDUoiosHq-WeDQVd6GHZpToSdb1Euaiyo

また、「のぶしな玄米珈琲」というサイトによれば、越山安久氏の父親・幸恵氏も裁判官だったそうですね。
同サイトに掲載された「中部信濃郷友会総代」の弔辞を見ると、越山幸恵氏は長野県更級郡信級村に生れ、京大法学部を大正13年に卒業して司法官となり、神戸・姫路等を経て昭和5年、台湾総督府法院に配属され、将来を嘱望される身でありながら、昭和7年に三十歳の若さで病死されたのだそうです。
その時、安久氏は僅か三歳だったそうですね。

https://www.facebook.com/nobushina/posts/1292433057440927/

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「藤林の仕掛けは不発に終わった」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その6)

2019-08-15 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月15日(木)12時14分54秒

続きです。(p162以下)

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 もちろん、自衛官合祀事件判決の反対意見において、「『たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあつても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもつてしてもゆるされない』という藤林裁判官の意見(多数意見引用の昭和52年7月13日大法廷判決における追加反対意見)は傾聴すべきものと思われる」と述べた伊藤正己裁判官のような、重要な例外は存在する(最大判昭和63・6・1民集42巻5号277頁)。しかし、専門家による判例評釈は、もっぱら法廷意見の「目的効果基準」に目を奪われて、本家レモン・テストとの異同に関心を集中させたため、藤林の仕掛けは不発に終わった。むしろ、法廷意見で採用された「制度的保障論」や「目的効果基準」は、地鎮祭への公金支出の合憲性を巧みに正当化したのみならず、本稿筆者を含む若い研究者たちの関心を、本件の背景にあった「靖国問題」の文脈から、欧米の理論動向に逸らせるのに大いに力を発揮し、<「日本」という問題>に対する思考停止を、もたらしたのではなかろうか。
 藤林による追加反対意見を、一己の信仰を告白した頗る個人的な文書であるかのように描くこの状況は、今日まで基本的には変わっていない。しかし、この読み方では、当の法廷意見が、一貫して藤林長官の訴訟指揮のもとで、彼への対抗言説として形成された、という側面を読み落とすことになる。他方で、名古屋高裁判決の論旨を引き継いだ反対意見の古典的自由主義と、矢内原=藤林のキリスト教的自由主義の対抗関係を切り捨てることで、本件と自衛官合祀事件とにおいて同時代的に現れた、日本近代史における或る共通の歴史的鉱脈を見逃してしまうだろう。本稿は、そうした研究動向へのプロテストとして草された、拙い一つの試行である。
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「藤林による追加反対意見を、一己の信仰を告白した頗る個人的な文書であるかのように描くこの状況」が何故生じたかというと、それは藤林が、担当調査官の越山安久氏にすら(あくまで石川氏による推定ではあるものの)「他人の文章の丸写しであって、論ずるに足りない」と思われるような、「出来の悪い学生」の「文献丸写しのレポート」のような追加反対意見を書いたからではないですかね。
仮に藤林が自分自身の言葉で「名古屋高裁判決の論旨を引き継いだ反対意見の古典的自由主義」に「対抗」する「キリスト教的自由主義」に基づく力強い立論をしたならば、「当の法廷意見が、一貫して藤林長官の訴訟指揮のもとで、彼への対抗言説として形成された、という側面」が明確に浮かび上がったはずです。
また、私は別に石川氏の問題関心に共感はしませんが、石川氏が懸念されているような「本稿筆者を含む若い研究者たちの関心を、本件の背景にあった「靖国問題」の文脈から、欧米の理論動向に逸らせる」事態を生じさせることも、「<「日本」という問題>に対する思考停止を、もたら」すことも、「本件と自衛官合祀事件とにおいて同時代的に現れた、日本近代史における或る共通の歴史的鉱脈を見逃してしまう」こともなかったのではないか、と思われます。
要するに、諸悪の根源は、(石川氏の解釈によれば)特別な意図に基づく「仕掛け」として、藤林が他人の論文の丸パクリである変てこな追加反対意見を書いたことにある、というのが私の見方です。

以上で「序 埋もれたテクスト構造」の紹介は終わり、次回投稿から「Ⅰ 津地鎮祭事件判決の形成」を検討して行きます。
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「他人の文章の丸写しであって、論ずるに足りない」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その5)

2019-08-15 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月15日(木)11時23分11秒

続きです。(p161以下)

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 かくして、本判決は、法廷意見・反対意見・藤林追加反対意見をそれぞれ頂点とする、トライアングルの対抗関係によって構成された、重層的なテクスト構造をもつことになった、はずであった。こうしたテクストの深層における対立構造に比べれば、既存のすべての判例評釈が注目する、法廷意見の目的効果基準とアメリカのレモン・テスト(Lemon v. Kurtzman, 403 U.S.602[1971])との対比は、あくまで副次的なものに過ぎない。
 けれども、裁判ジャーナリズムは、「アガペー長官」「クリスチャン長官」とのレッテル貼りのもとに、藤林長官が退官の記念に一己の信仰を率直に告白した、ある種微笑ましいエピソードとしてのみ、この追加反対意見を取り上げた。それ以上に、担当調査官の越山安久が、機敏な対応をみせた。判決直後のジュリスト誌上での解説では、テクストの形成過程を知り抜いた者にしかできない、法廷意見のすこぶる的確な内在的読解を示して、これと反対意見とを対比する一方、藤林追加反対意見を事実上黙殺したのである。この論調は、越山が古巣の東京地裁に戻った時分に発表した、いわゆる調査官解説でも貫かれている。彼は、同解説のフォーマットに従い、「本判決」の要点を摘示しているが、そこでは「多数意見」と「反対意見」だけが紹介され、判決書全体の3分の1を占める藤林追加反対意見には、その存在についてすら言及されていない。わずかに3点ほどの論旨が「説明」中に織り込まれているのみであり、それ以外の行論は、他人の文章の丸写しであって、論ずるに足りないと考えられたのであろう。
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「けれども、裁判ジャーナリズムは、「アガペー長官」「クリスチャン長官」とのレッテル貼りのもとに【中略】この追加反対意見を取り上げた」に付された注13には、

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13)参照、朝日新聞1977年7月13日夕刊11面、読売新聞同日夕刊9面。
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とあり、未確認ですが、おそらく読売新聞記事の筆者は滝鼻卓雄という人ですね。
藤林は『法律家の知恵─法・信仰・自伝』』(東京布井出版、1982)に、

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 ところで、皆さんに聞いて貰おうと思って、私が最高裁判所をやめてから出版された法学セミナーという雑誌の増刊を持って来ました。これは「最高裁判所」(昭和五二年一二月)という本ですが、これに歴代長官のプロフィールという四頁ずつの記事が出ていて、その中に私は「藤林益三─タカ派路線の総仕上げ」ということになっております。これは少し時間がかかりますが、読みますから聞いて欲しいのです。これが、私の言いたい一つの大事なことです。
 「このように藤林氏は、労働基本権や迅速な裁判を受ける権利などにかかわる裁判については、弁護士出身のわりには、保守的態度を堅持したが、津地鎮祭訴訟という宗教的テーマに対しては、異常とも思える情念を燃やして取り組んだ。」
異常とも思えたんだそうです。私は異常とは思わないのですが。
【中略】
この記者はよく私と会っています。読売かどこかの司法記者で、社会部の人です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7b3cb36ca408d744e5bb92a98d9eb3e

と書いていて、滝鼻記者には強い敵意を抱いていたようです。
また、「アガペー長官」云々については、山本祐司氏『最高裁物語(下巻)』(日本評論社、1994)の、

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ショートリリーフ─藤林益三

 変わった風が吹いた。ロッキードの影はますます濃くなり、深刻さを増しているが、国会近くの最高裁では明るい笑い声がはずんだ、陽気でおしゃべりで気さくな長官が誕生したのだ、昭和五十一年五月二五日夕、皇居での親任式を終えたばかりの藤林益三は初の記者会見にのぞんだが、終始にこやかで脱線しがちなそのデビューぶりは、厳粛で言葉少ないこれまでの長官のそれとは大分様子が変わっていた。
 「愛ですよ」と藤林は言った。「愛といっても恋愛じゃないよ。だいたい日本語には愛という言葉が少ない。ギリシャ語には四通りもあるのに。エロスの愛ではなく、アガペー。つまり汝の敵を愛する"愛"じゃがな」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59623e6975889e4bc6c5b4ab42de9383

という記述が参考になります。

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「ほぼ原文のまま書き写す、という異例の方法」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その4)

2019-08-14 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月14日(水)21時43分52秒

続きです。(p160以下)

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 そうした思想的・信条的孤立の表現としての藤林追加反対意見は、ほぼ半年前に着手されていたものの、仕上げは判決直前の大型連休を利用して行われた。その経緯からもわかるように、これは、現在の法廷を説得することをもはや目的としない、未来向けの文書である。その際、彼は、論文「近代日本における宗教と民主主義」における矢内原忠雄の文章を、「本判決の有する意義にかんがみ」ほぼ原文のまま書き写す、という異例の方法を採用した。著作者藤林は、「気楽に書いたようで第三者にはわからないが、信仰を持っている人間にはわかるような表現」があり得るということを、知悉している人である。出来の悪い学生が文献丸写しのレポートを書くのとは違って、そこに特別の意図が込められているのは間違いない。それを読み解いてみようというのが、本稿全体を通じての筆者の問題意識になっている。
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藤林が追加反対意見を書いた時期については、私も少し気になって調べたことがあります。
前回投稿でも紹介した毎日新聞の司法記者・山本祐司氏の『最高裁物語・下』(日本評論社、1994)に関連する記述がありますが、確かに「ほぼ半年前に着手されていたものの、仕上げは判決直前の大型連休を利用して行われた」といった状況だったようです。

「結論が先で論理は後」(by 藤林益三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/609e5e14290bde3ad9fbe30d3c5325fd
「裁判官藤林益三の追加反対意見」の執筆時期
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/217b0691c34f1bc7f8d2d56958ef8f2e

なお、「気楽に書いたようで第三者にはわからないが、信仰を持っている人間にはわかるような表現」に付された注11を見ると、

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11)参照、藤林益三「キリスト教弾圧事件」『藤林益三著作集8 私の履歴書』(東京布井出版、1989年)49頁以下、52頁。
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とありますが、追加反対意見の関係で引用するのが適当な箇所なのかについては若干の疑問もあるので、後で確認したいと思います。
さて、続きです。

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 矢内原忠雄といえば、東京帝国大学経済学部教授を務めていた1937年に、当時の「ファッショ的」な日本をいったん葬って、本当の日本を再生すべきだ、と講演したことを理由に大学を追われた言論抑圧事件(矢内原事件)で知られる。その彼が、戦後まもない時期に、自身の受難の体験を踏まえて、日本社会を診断したのが当該論文である。これを藤林が再録することによって、<矢内原忠雄・対・帝国日本>という1937年の問題機制が、40年後の最高裁大法廷のただなかに再現されたことになる。
 矢内原論文(あるいは矢内原という屹立する個人)を光軸に据えて、反対意見をも含む判決文の総体を、将来に向けて逆照射すること。大法廷の裁判長としての立場を利して、藤林が投じた最後の一手がこれであった。反転したテクスト構造のなかで、ひとり包囲されていた藤林の姿は消え、逆に、藤林を除く裁判官全員が矢内原の精神に対峙させられることになった。
-------

ふーむ。
「矢内原論文(あるいは矢内原という屹立する個人)を光軸に据えて」以下のダイナミックな映像的表現は本当に見事なレトリックだとは思いますが、石川氏と同様に矢内原論文と藤林追加反対意見を細かく照らし合わせてみた私には、結局のところ、藤林の行為は「出来の悪い学生が文献丸写しのレポートを書く」のと一緒と思われるので、藤林を賛美する石川氏には賛成できるところは一つもありません。
ま、結論は急がず、そのあたりの事情を少しずつ検討して行きたいと思います。

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「常に勝ち馬に乗ってきた」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その3)

2019-08-14 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月14日(水)11時47分32秒

石川健治氏は「藤林というインテリ」という言い方をしますが、藤林益三の著書・論文はずいぶん少なくて、しかも実際に藤林の文章を読んでみると、キリスト教関係のものを含め、それほどインテリっぽさを感じさせません。
同じクリスチャンの最高裁長官であった田中耕太郎あたりと比較すると、「藤林というインテリ」なる表現は些かびみょーですね。
ま、あくまで個人の感想ですが。

同じ最高裁判所長官とはいっても・・・。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/015b5a1f980d3a906490076c7fcd1c28

さて、「そうした努力が、後に大法廷の視野を太平洋の彼方へと開くのに、大きく寄与したのは間違いない」という雄大なレトリックの続きです。(p159以下)

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 その後、首相就任を自ら「青天の霹靂」と表現した三木武夫の内閣により、弁護士出身者としてははじめての長官に指名されるという想定外の経緯により、藤林は、裁判長として、この事件に取り組むことになった。敬虔な信仰をもつ彼ならずとも、見えざる何者かの導きを感じずにはいられない展開である。難航する気配を見せていた本件についての審理が、藤林コートのもとで動き出した。しかし、合議では、意見が激しく対立して、なかなか結論を得ることができない。1977年の春先に判決を下す目算は大きく狂った。それでも、決して長くはなかったその任期中に、どうにか判決まで漕ぎ着けることができたのは、疑いなく藤林長官の並々ならぬ熱意の所産である。
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藤林の長官としての任期は「決して長くはなかった」どころか、僅か1年3か月という超短期です。
最高裁判事の定年は70歳と定められているので(憲法79条5項、裁判所法50条)、藤林の任期が極めて短いことは藤林が長官に指名された時点で分っていたことです。
このように任期の点だけを考えても藤林が何故長官に指名されたのか、ちょっと不思議な感じがしますが、毎日新聞の司法記者だった山本祐司は「保守の基盤が揺るぎもしないほど固まって、石田、村上色に染め上げられた最高裁に新風を吹きこんで組織を活性化しようとする意図」(『最高裁物語・下』、日本評論社、1994)があったとしています。
藤林は津地鎮祭訴訟判決のおかげで「リベラル」な裁判官との印象を残していますが、長官指名の時点では、石田コートでの「壮烈なリベラル派対保守派の戦いを体験して、その時は石田、村上の保守派に属しその後も一貫して変わることがない」人物だと思われており、思想的に安心な上に、世間に揉まれた明るい性格なので、石田コート以来の殺伐とした雰囲気を和らげてくれる存在として期待されたようですね。

「陽気でおしゃべりで気さくな長官」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59623e6975889e4bc6c5b4ab42de9383

ま、それはともかくとして、続きです。(p160以下)

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 けれども、判決の結論は、彼の集大成として、ふさわしいものにはならなかった。リベラル派で鳴らした団藤重光(通説刑法学者)と環昌一(弁護士出身)に加え、元最高裁事務総長の吉田豊や後の最高裁長官・服部高顕といった裁判官エリート組を自陣に引き入れるところまでは成功したが、法廷の多数派を形成するには至らず、不本意な合憲の結論を裁判長として言い渡すことが確実な情勢になった。最高裁に入って以来、常に勝ち馬に乗ってきた彼が、少数派に回るのはこれが最初で、かつ最後のことであった。
 そこで藤林は、はじめて迎える敗北に一矢報いるべく、5裁判官による反対意見とは別に、独自の反対意見を追加することを決意した。ほかの4人には信仰がなく、彼らの古典的リベラリズムの立場と、敬虔なクリスチャンとして著名な藤林のキリスト教的リベラリズムとの間には、やはり根本的な部分で乖離があったからである。これにより、結局、他のすべての裁判官と袂を分かつことになった。法曹生活総決算のはずの事件において、彼は完全に孤立したのである。
-------

「常に勝ち馬に乗ってきた」という表現、何だか藤林への悪意が満ちているようにも思えますが、石川氏には特にそのような意図はないようですね。
なお、団藤重光は最晩年にクリスチャン(但し、カトリック)となり、その洗礼名はトマス・アクィナスだそうです。

団藤重光(1913-2012)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89

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「藤林というインテリ」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その2)

2019-08-13 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月13日(火)12時36分16秒

矢内原忠雄『帝国主義研究』への脱線から復帰して、続きです。(p158以下)

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 これはちょうど、4月4日の尊属殺重罰規定違憲判決と、4月25日の全農林警職法事件判決が出された時期とも重なっている。石田和外長官の退官は、5月19日に迫っていた。「司法反動」と批判された石田コートの締めくくりとして、日本の最高裁としては史上はじめての違憲判断と、悪名高き「反動的」な判例変更とが、同時に行われようとしていた。
 前者において、判事藤林は、尊属への尊重報恩という立法目的自体は合憲とする多数意見の理由付けに与して、田中二郎らリベラル派の目的違憲論と対抗した。後者については、もともとリベラル派の入江俊郎が主任をつとめる第一小法廷に係属していたのであったが、大法廷に回付するか否かの判断においてキャスティング・ボートを握ったのは、新任の藤林であった。第1小法廷は、3対2でリベラル派が優勢だったが、松田二郎が退任して2対2となっていたのである。藤林が公務員のストライキに対して否定的な考えをもっていたばかりに、全逓東京中郵事件判決以来の判例に反する結論となり(裁判所法10条3号)、全農林警職法事件は、大法廷に回付されることになって(なお入江はまもなく退官)、10数回の合議の末、8対7のスプリット・デシジョンによる歴史的な判例変更へとつながった。いずれにせよ「4年前」は、彼の、彼の最高裁でのキャリアにおいて、節目となる時期であった。
-------

いったんここで切ります。
最高裁判所長官は初代三渕忠彦から田中耕太郎・横田喜三郎・横田正俊と続いて、第五代が石田和外ですね。
自由法曹団などの共産党系の団体からは未だに蛇蝎の如く嫌われている保守的な人物です。
石田和外が1973年に退官すると、その後任は裁判官出身の村上朝一となり、1976年、藤林は村上を継いで第七代長官となります。

石田和外(1903-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%A4%96_(%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%AE%98)
村上朝一(1906-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%9C%9D%E4%B8%80

-------
 そして同年8月4日の日記には、「清水望氏からいただいた同氏と滝沢信彦氏の共訳にかかるM・R・コンヴィッツ著『信教の自由と良心』という書物を読んだ。さすがアメリカの憲法学者である。聖書についての知識が博く、法律的にも聖書的にも教えられるところが多い。こういう書物は残念ながらわが国では得られない」という記述が現れる。これは津地鎮祭事件判決の真の出生時を告げる日付である可能性がある。
 藤林というインテリは、後述する通り、若い頃から原典主義を叩き込まれた人物である。コンヴィッツを読み上げたその頃は、例年通り信濃追分の別荘で過ごしていたものと推測されるが、それが「自分の関心のある信教の自由の原則にかかわる問題であった」だけに、帰京後は早速に、最高裁図書館所蔵のコンヴィッツの原本やアメリカの政教分離判例にアクセスしたはずである。職務の合間をみて、個人的に「米国の判例や文献などにあたり」始めた。彼は、終生愛読したカール・ヒルティー─このスイス人は憲法学者でもある─の仕事術(Die Kunst des Arbeitens)に倣い、多忙な裁判官業務の傍ら、スキマ時間を有効活用してコツコツと勉強を進めていた。そうした努力が、後に大法廷の視野を太平洋の彼方へと開くのに、大きく寄与したのは間違いない。
-------

M・R・コンヴィッツ著『信教の自由と良心』は原書が1968年に出て、五年後の1973年に邦訳が出版され、藤林は訳者の一人・清水望氏からすぐに献呈を受けた、ということですね。

M.R.コンヴィッツ著『信教の自由と良心』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70ba50ac0a8e56d528d8f9aa422ef1ac

「津地鎮祭事件判決の真の出生時を告げる日付である可能性がある」「そうした努力が、後に大法廷の視野を太平洋の彼方へと開くのに、大きく寄与したのは間違いない」といった表現は、いかにも石川氏らしいレトリックですね。
ただ、後者あたりになるとあまりに雄大すぎて、いささかコミカルな響きを感じないでもありません。

「憲法学界のルー大柴]
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b8047456bdec08a50af68355f9a745db

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矢内原忠雄『帝国主義研究』

2019-08-13 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月13日(火)10時56分6秒

さっそく脱線しますが、石川論文のエピグラフに付された注1の内容に若干の疑問を抱いた私は、念のためと思って矢内原忠雄『帝国主義研究』(白日書院、1948)の「はしがき」を確認してみました。
1948年当時、矢内原が置かれていた状況を知ることができる記録なので、少し引用してみます。

-------
はしがき

 私は昭和十二年すなはち日華事変の勃発した年の十二月、東京帝国大学教授の職を辞するまで十七年間、植民政策の講義を担当した。その間に私の書いたもので、単行本にまとまつたものは別として、論文集としては昭和二年弘文堂刊『植民政策の新基調』があるだけであつた。然るに終戦後全く私自身の期待と意思とに反して、私は大学の講壇に復帰し、国際経済論を受持つこととなつたが、学生の参考に資すべき私の著書はすべて絶版同様の状態にあつて、講義上甚しく不便を感ずるため、取敢ず旧作の中から選んでこの論文集を編むことにした。
 本書に収めた論文は昭和二年から十二年に至る十年間に執筆したもので、一昔も二昔も前の旧作であることは頗る気のひける次第である。昭和十二年末の辞職以来すでに十年、この間における日本の国際的地位の変化は、天にまで挙げられたカペナウムが陰府にまで落ちた如くであつた。東亜共栄圏の盟主と誇つた国が、連合軍の占領・管理を受けるものとなり、植民地を領有した国が、植民地はもちろん本国周辺の島嶼までも失ひ、海外に発展してゐた国民は無一文になつて引揚げて来た。東京帝国大学の名称は東京大学に変り、植民政策講座はすでに国際経済論の講座に改まつた。すべての国内的及び国際的情勢が全く一変し、急激に変貌しつつある。この中にあつて、十年乃至二十年前の論稿を集めて世に送ることは時代錯誤の感を免れないやうではあるが、それに拘らずこの事を私に実行させるには、また若干の理由がある。
 第一に、最近十年間の日本は、いはば旅路半にして正しき道を失ひ、暗き林の中を彷徨したのであつた。その中を無暗に突き進まうとしたが、己の中から出た一疋の牝狼に圧せられて高きにいたる望みを失ひ、太陽の黙するところへ押しかへされた。すべて道を失うた者は、分岐点まで引き返し、そこにて正しき道を見出さねばならない。日本が正しき道によりて高きにいたるためには、日華事変以前、満州事変以前、否、二・二六事件以前に目をかへして、そこに正道と邪路の分岐点を見出さねばならない。然るとき本書に収められた諸論文が、その分岐点に立てられた小さき路標であることを発見し、再び日本が邪路に陥らず、正道を踏みて国民復興の緒につくための一助ともして頂ければ、私の幸福これに如くものはないのである。【後略】
-------

ということで、エピグラフの「すべて道を失うた者は、分岐点まで引き返し、そこにて正しき道を見出さねばならない」の後に注1の「日本が正しき道によりて高きにいたるためには、日華事変以前、満州事変以前、否、二・二六事件以前に目をかへして、そこに正道と邪路の分岐点を見出さねばならない」が続く訳ですね。
ま、当然の結果であり、何もそんなことまで疑わなくてもよいのでは、と思われた方もいらっしゃるでしょうが、私にとって石川氏は「熊谷三郎直実」な人なので、警戒を怠ることはできないのであります。

「熊谷三郎直実を憚って」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3c7f6b273f209c017f8f2e9c3ee7c1f5
洋学紳士・淑女の伝言ゲーム
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/307b4efc0106f1e86dbc93aec33a36a4
意外な改変者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc7b788d8cc835f0fff35b9087bbdc0d
意外な改変者(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65b7d43f347c7c9f27381acb5a70dd06
もう一つの『父・尾高朝雄を語る』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5410cd055a72078cfc76d10146bcd005

ところで、石川氏が論文のエピグラフとされた文章の直前、「己の中から出た一疋の牝狼に圧せられて高きにいたる望みを失ひ、太陽の黙するところへ押しかへされた」は、聖書その他のキリスト教の古典に典拠があるような感じがしますが、私もキリスト教関係は無教養なのでよく分かりません。
ご存じの方は教えてください。
まあ、「天にまで挙げられたカペナウムが陰府にまで落ちた如くであつた」くらいは一応理解できるのですが。

カペナウム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9A%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%A0

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「序 埋もれたテクスト構造」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その1)

2019-08-12 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月12日(月)11時00分21秒

それでは石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」を少しずつ読んで行きたいと思います。
73頁に及ぶこの論文全体の構成は、

-------
序 埋もれたテクスト構造
Ⅰ 津地鎮祭判決の形成
 1 渦巻く想念
 2 名古屋高裁判決
Ⅱ 最高裁へ
 1 比較憲法論の位相
 2 法廷意見と越山安久
Ⅲ 藤林益三という要因
 1 藤林益三と無教会主義
 2 塚本虎二と無教会二代目
 3 塚本批判と藤林益三
Ⅳ 矢内原論文の産出と受容
 1 植民政策と満洲事変
 2 平和の海をはさんだ往還
 3 戦後レジームと藤林益三
Ⅴ 藤林追加反対意見の構造
 1 宗教の民主主義化
 2 行間に埋め込まれた内容
 3 藤林が付け加えたもの
Ⅵ 国家の精神的観念的基礎と政教分離原則
 1 藤林追加反対意見「一」
 2 政教分離と無教会主義
 3 反対意見との衝突
-------

となっています。
さて、論文の冒頭には、

-------
すべて道を失うた者は、分岐点まで引き返し、そこにて正しき道を見出さねばならない。(矢内原忠雄)
-------

というエピグラフがあるのですが、これに付された脚注1は、

-------
1)矢内原忠雄『帝国主義研究』(白日書院、1948年)「はしがき」2頁。「日本が正しき道によりて高きにいたるためには、日華事変以前、満州事変以前、否、二・二六事件以前に目をかえして、そこに正道と邪路の分岐点を見出さねばならない」。
-------

となっていて、両者の関係が明確ではありません。
おそらくエピグラフの文章の後に脚注1の文章が続くのだろうと思いますが、脚注1の文章を石川氏が要約してエピグラフの文章にした、との可能性も考えられます。
後で確認してみるつもりですが、石川氏がこんな紛らわしい引用の仕方をしなければ手間が省けるのに、と思わないでもありません。
ま、それはともかく、本文に入ります。(p157以下)

-------
序 埋もれたテクスト構造

 いわゆる津地鎮祭事件の判決言渡しが行われた1977年7月13日。当時の最高裁長官藤林益三は、日記にこう記している─「この事件は、信教の自由と政教分離原則に関して重要な意義を有するものであって、4年前からわたしの念頭を去らなかった。世の批判はいかにもあれ、わたしの45年間の法曹生活は結局この判決に向けられていたものであり、裁判官となりまた長官となったのも、この日のために備えられたものと思えてならない」。
 ここに「4年前」とあるのには、若干の註釈を要する。彼が佐藤栄作内閣によって最高裁判所裁判官に任命されたのは(第一小法廷所属)、本件上告に先立つ1970年、すなわち「7年前」のことである。また、控訴審において名古屋高裁が違憲判決を下したのは1971年。藤林は同判決を、「大変な勉強をして、内外の文献などをよく調べて」書き上げた「学問的に相当価値のある」「画期的な判決」だったと、のちに絶賛している。それが上告されて、ほかでもない藤林の第一小法廷に係属することになったのであるが、それは「6年前」の出来事であって、やはり平仄が合わない。
 「4年前」の出来事とは何か。まずは、1973年の「紀元節(2月11日)」を期して、「上告理由書に対する答弁書(総論)」が提出されたことを、念頭におくべきだろう。名古屋高裁で違憲判決をかちとった弁護団が、再び大勉強をして提出した答弁書の第一弾。その文献リストには、M・R・コンヴィッツ『信教の自由と良心』の原書も含まれており、清水望らによる翻訳が近刊予定(実際には4月刊)であることが、そこには記されていた。このコンヴィッツの見解と彼が引用するジェファソンの名句とに魅せられ、自らの追加反対意見において直接言及するまでに至るのであるから、判決当日を迎えた藤林の脳裡に思わず立ち現れたのが「4年前」の記憶であったのは、当然といえるだろう。
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長くなったので、いったん、ここで切ります。

「ジエフアソン」の出典
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/40f81950e830ecf7648f25b903e4861a
M.R.コンヴィッツ著『信教の自由と良心』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70ba50ac0a8e56d528d8f9aa422ef1ac

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石川健治「(憲法を考える)9条、立憲主義のピース」との関係

2019-08-12 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月12日(月)09時25分12秒

藤林益三の「追加反対意見」と矢内原忠雄の「近代日本における宗教と民主主義」の関係については、石川健治氏が2016年5月3日に朝日新聞に寄稿した「(憲法を考える)9条、立憲主義のピース」という文章をきっかけにある程度検討済みです。
石川氏の「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」が収められた駒村圭吾編『テクストとしての判決』は2016年12月刊行なので、おそらく石川氏は同年5月3日の寄稿の時点で論文を完成しているか、少なくとも構想は完全に出来ていて、この論文のエッセンスが「9条、立憲主義のピース」ということなのだろうと思います。
重複を避けるため、今回は「国家神道」に関する歴史学と憲法学の認識の齟齬を中心に検討しますが、長大な石川論文には興味深い雑学的知識も多々含まれるので、それらに導かれた脱線もけっこうありそうです。


藤林益三による矢内原忠雄の「写経」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/755acfb10b1559da51762a2a208af18b
神職の「特権的地位」の実情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/265d8509821dca23abf4bb9668499f56
「近代日本における宗教と民主主義」を読んでみた。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/694f6e7502e0b374f82911403026d6f6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9bcda003dc11d4c74bec49acaeaa65c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc001974d9321e8d8b33e51a9e88047e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/246074bca419890b43256369bb09ed8f
同一性保持権の問題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcd58d829f7ba18a8abc1dde4121f97a
同じ最高裁判所長官とはいっても・・・。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/015b5a1f980d3a906490076c7fcd1c28
「藤林裁判官は、"法律"のほかに"神"にも拘束されているのだろうか」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7b3cb36ca408d744e5bb92a98d9eb3e
「結論が先で論理は後」(by 藤林益三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/609e5e14290bde3ad9fbe30d3c5325fd
「陽気でおしゃべりで気さくな長官」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59623e6975889e4bc6c5b4ab42de9383
「裁判官藤林益三の追加反対意見」の執筆時期
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/217b0691c34f1bc7f8d2d56958ef8f2e
「ジエフアソン」の出典
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/40f81950e830ecf7648f25b903e4861a
M.R.コンヴィッツ著『信教の自由と良心』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70ba50ac0a8e56d528d8f9aa422ef1ac
合衆国対スィーガー事件
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78bca0ed7095be780a1d5612a3dc55d9
ジェファーソン引用の趣旨(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9a746ea139512f15505de8df3d4a45e6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f7dbb4a18fd8482cd6e19f7a910503c
藤林益三の弁明(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20acfbd6dc3353989316d646ce2fb6ec
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7229fb2278bfdc4a2f067053b7a69896
演出家・石川健治の仏壇マクベス
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/852b970230f849e82baf52d96a785893
「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1f7c3ef2111429c49d9d85d38eb1ddc

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テクストとしての石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」

2019-08-10 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月10日(土)11時07分47秒

ちょっと休んでしまいましたが、またボチボチと投稿して行きます。
前回投稿で須賀博志氏の「戦後憲法学における「国家神道」像の形成」(『史学会シンポジウム叢書 戦後史のなかの「国家神道」』)に触れましたが、この論文の注で石川健治氏の「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」(駒村圭吾編『テクストとしての判決』、有斐閣、2016)という論文の存在を知りました。

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テクストとしての判決 -- 「近代」と「憲法」を読み解く
近代立憲主義と判決の結節点を読む

判決に残された「近代的なるもの」の痕跡を読み解く,9人の研究者による挑戦的な論文集。判例を法テクストのみならず思想テクストとして扱い,時代と事案を振り返って日本法思想に肉薄する。今後の判例研究・判例学習に資する,新たな判例読解の手法を示す力作。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641131910

【編集担当者から】テクストって何,とお思いでしょう。本書は,最高裁の判決を素材として,一人一人の執筆者が,そこに隠されている「近代」と「憲法」の思想を探り出してみせるという試みに挑戦した,新しい判例研究の手法への取組みの成果です。憲法研究者を中心として,民法・法哲学分野からもご執筆をいただきました。
「判決を読む」ということ,それ自体は,本誌の読者が日頃向き合っているような,学習方法や実務の道具立てとしての「判決の読み方」よりも,もっと知的で深みのある作業となりうることを示したい。そう考えた執筆者たちは「近代」の手がかりとなる,思想・宗教・文学・歴史といった光を判決文に当てて,反射光に目を凝らしました。果たして判決文という一見硬直的なテクストの中に「近代」と「憲法」は見つかるのか。
学習や実務に少しお疲れのあなたと,もう一度,知的探求心に溢れる冒険に出たい。そんな思いの詰まった,珠玉の論文集です。(清田)

http://www.yuhikaku.co.jp/static_files/BookInfo201702-13191.pdf

須賀氏は「藤林追加反対意見とそのキリスト教的リベラリズムについて」、石川論文が「詳細な検討と緻密で刺激的な分析を展開している」(p133)と好意的に紹介されていたのですが、私は若干の戸惑いを覚えました。
というのは、津地鎮祭判決での藤林追加意見は矢内原忠雄の「近代日本における宗教と民主主義」という論文の丸パクリであって、それ自体がそれほど知的な価値のある見解ではなく、従ってそんなものを素材にして「詳細な検討と緻密で刺激的な分析を展開」したところでロクな成果は出ないのではないか、と思ったからです。
ただ、石川氏の論文はレトリックが極めて華麗で、読み物として楽しいので、まあ、暇つぶしにはなるかなと思って『テクストとしての判決』を入手してみました。
全部で73頁分もある長大な石川論文は、正直、予想通りのびみょーな内容だったのですが、しかし、これ自体が学問的にそれほど価値がないとしても、「国家神道」に関する歴史学と法律学の認識の食い違いを検討するための「素材」・「テクスト」としては手頃なのではないか、とも思われました。
そこで、暫くこの論文を検討してみたいと思います。
なお、清宮四郎に関する石川氏の研究については、以前、少し検討したことがあります。

石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf4f5a44c409b736631232d49b35e0f1
石川憲法学の「土着ボケ黒ミサ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bf547fcd41f62a1df77cc76e0277f3b

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