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「結論が先で論理は後」(by 藤林益三)

2016-05-14 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 5月14日(土)10時28分19秒

裁判官の「良心」は古典的な論点ですが、最近の憲法の教科書を見ても、それほど議論が深まっているわけではないようですね。
少し前の部分で、藤林は「要するに、裁判というものは、人間というフィルターを通過するのです。濾過したり、漉したりするフィルターというとわかりましょう。人間というフィルターで濾過せられるのです。裁判をする裁判官を通過し、濾過されていって結論がでるのです」(p96)とした上で、裁判官の判断過程を迷路に譬えます。
そして、「論理をたどっていくと、東の方へ行ってしまう」場合でも、「裁判官の勘からいうと、つまり全人格的判断からいうと、東へ出ては困る。どうしても南に出たいのです。理屈だけを延長させていくと東へ出そうになる。けれども、南が正しいという結論になると、そこに山があっても道を造るのです。のこぎりを持ってきて竹藪を切り、シャベルで地下茎を掘りおこして、ここに道を造る作業をするわけです。そういうことをして南へ行く結論を出す。裁判官にはそういう作業があるのです」と述べます。
この部分、全体の小見出しが「結論が先で論理は後」となっていて、これが藤林の主張の要約になっていますね。
ま、あまり理論的な説明ではありませんが、ひとつの考え方としては理解できます。
ただ、これは「裁判官藤林益三の追加反対意見」があまり論理的ではないことの説明にもなっていそうですね。

さて、前の投稿で紹介した部分の続きです。(p111以下)

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 「神道式の地鎮祭は習俗行事か宗教活動かと争われた津地鎮祭訴訟で、他の四判事とともに反対意見を述べただけでなく、一七ページにわたる追加反対意見を書き込んだ。多数意見は『憲法二〇条三項の"宗教活動"とは、その目的が宗教的意義をもち、効果が宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉になる場合である』と、政教分離原則について不完全分離説をとり、神式地鎮祭を"世俗的なもの"と津市長側に軍配を上げた。これに対し、藤林氏は『国家と宗教が結べば、宗教の自由は侵害される』『少数者の宗教や良心は多数決をもって侵犯できない』『(地鎮祭を)宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか』などと、怒りの調子で、追加反対意見を開陳している」。「この追加反対意見は、五月の憲法記念日の前後、他の判事が恒例の地方視察旅行に出かけている留守に書いたらしい。"原案"はもっと激しい調子でいまの神道を批判している、と伝わっている」。
 そんなことはありません。あまり長くなったから削っただけです。そういうことまで、新聞記者はどうして知っているのでしょう。私一人が長々と書いておったのでは困りますから、少し縮めたことはあります。多数意見のページ数と五人の少数意見のページ数と私一人のページ数とが均衡しているつもりです。三分の一くらいになっております。憲法記念日の後に、最高裁判所の裁判官が出張する、というのはいまもやっていることです。長官だけは留守番をします。既にこのことは申しました。そういうことだから、その間に書いただろうというのです。確かに時間があるから書いたことは書きましたが、私は前から書いて準備していたのです。半年ほど前から書いて準備をしていたのですが、それをまとめたり、削ったりすることは留守番中にやりました。
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この説明で、「裁判官藤林益三の追加反対意見」に矢内原忠雄の文章が「写経」されているのは決して時間がなかったからではないことが分かりましたが、そうすると「半年ほど前から書いて準備をしていた」にもかかわらず、なぜ「写経」で済ませたのか、なぜ自分の言葉で語らなかったのか、という疑問はむしろ深まってきます。
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