投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月14日(水)21時43分52秒
続きです。(p160以下)
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そうした思想的・信条的孤立の表現としての藤林追加反対意見は、ほぼ半年前に着手されていたものの、仕上げは判決直前の大型連休を利用して行われた。その経緯からもわかるように、これは、現在の法廷を説得することをもはや目的としない、未来向けの文書である。その際、彼は、論文「近代日本における宗教と民主主義」における矢内原忠雄の文章を、「本判決の有する意義にかんがみ」ほぼ原文のまま書き写す、という異例の方法を採用した。著作者藤林は、「気楽に書いたようで第三者にはわからないが、信仰を持っている人間にはわかるような表現」があり得るということを、知悉している人である。出来の悪い学生が文献丸写しのレポートを書くのとは違って、そこに特別の意図が込められているのは間違いない。それを読み解いてみようというのが、本稿全体を通じての筆者の問題意識になっている。
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藤林が追加反対意見を書いた時期については、私も少し気になって調べたことがあります。
前回投稿でも紹介した毎日新聞の司法記者・山本祐司氏の『最高裁物語・下』(日本評論社、1994)に関連する記述がありますが、確かに「ほぼ半年前に着手されていたものの、仕上げは判決直前の大型連休を利用して行われた」といった状況だったようです。
「結論が先で論理は後」(by 藤林益三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/609e5e14290bde3ad9fbe30d3c5325fd
「裁判官藤林益三の追加反対意見」の執筆時期
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/217b0691c34f1bc7f8d2d56958ef8f2e
なお、「気楽に書いたようで第三者にはわからないが、信仰を持っている人間にはわかるような表現」に付された注11を見ると、
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11)参照、藤林益三「キリスト教弾圧事件」『藤林益三著作集8 私の履歴書』(東京布井出版、1989年)49頁以下、52頁。
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とありますが、追加反対意見の関係で引用するのが適当な箇所なのかについては若干の疑問もあるので、後で確認したいと思います。
さて、続きです。
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矢内原忠雄といえば、東京帝国大学経済学部教授を務めていた1937年に、当時の「ファッショ的」な日本をいったん葬って、本当の日本を再生すべきだ、と講演したことを理由に大学を追われた言論抑圧事件(矢内原事件)で知られる。その彼が、戦後まもない時期に、自身の受難の体験を踏まえて、日本社会を診断したのが当該論文である。これを藤林が再録することによって、<矢内原忠雄・対・帝国日本>という1937年の問題機制が、40年後の最高裁大法廷のただなかに再現されたことになる。
矢内原論文(あるいは矢内原という屹立する個人)を光軸に据えて、反対意見をも含む判決文の総体を、将来に向けて逆照射すること。大法廷の裁判長としての立場を利して、藤林が投じた最後の一手がこれであった。反転したテクスト構造のなかで、ひとり包囲されていた藤林の姿は消え、逆に、藤林を除く裁判官全員が矢内原の精神に対峙させられることになった。
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ふーむ。
「矢内原論文(あるいは矢内原という屹立する個人)を光軸に据えて」以下のダイナミックな映像的表現は本当に見事なレトリックだとは思いますが、石川氏と同様に矢内原論文と藤林追加反対意見を細かく照らし合わせてみた私には、結局のところ、藤林の行為は「出来の悪い学生が文献丸写しのレポートを書く」のと一緒と思われるので、藤林を賛美する石川氏には賛成できるところは一つもありません。
ま、結論は急がず、そのあたりの事情を少しずつ検討して行きたいと思います。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月14日(水)11時47分32秒
石川健治氏は「藤林というインテリ」という言い方をしますが、藤林益三の著書・論文はずいぶん少なくて、しかも実際に藤林の文章を読んでみると、キリスト教関係のものを含め、それほどインテリっぽさを感じさせません。
同じクリスチャンの最高裁長官であった田中耕太郎あたりと比較すると、「藤林というインテリ」なる表現は些かびみょーですね。
ま、あくまで個人の感想ですが。
同じ最高裁判所長官とはいっても・・・。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/015b5a1f980d3a906490076c7fcd1c28
さて、「そうした努力が、後に大法廷の視野を太平洋の彼方へと開くのに、大きく寄与したのは間違いない」という雄大なレトリックの続きです。(p159以下)
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その後、首相就任を自ら「青天の霹靂」と表現した三木武夫の内閣により、弁護士出身者としてははじめての長官に指名されるという想定外の経緯により、藤林は、裁判長として、この事件に取り組むことになった。敬虔な信仰をもつ彼ならずとも、見えざる何者かの導きを感じずにはいられない展開である。難航する気配を見せていた本件についての審理が、藤林コートのもとで動き出した。しかし、合議では、意見が激しく対立して、なかなか結論を得ることができない。1977年の春先に判決を下す目算は大きく狂った。それでも、決して長くはなかったその任期中に、どうにか判決まで漕ぎ着けることができたのは、疑いなく藤林長官の並々ならぬ熱意の所産である。
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藤林の長官としての任期は「決して長くはなかった」どころか、僅か1年3か月という超短期です。
最高裁判事の定年は70歳と定められているので(憲法79条5項、裁判所法50条)、藤林の任期が極めて短いことは藤林が長官に指名された時点で分っていたことです。
このように任期の点だけを考えても藤林が何故長官に指名されたのか、ちょっと不思議な感じがしますが、毎日新聞の司法記者だった山本祐司は「保守の基盤が揺るぎもしないほど固まって、石田、村上色に染め上げられた最高裁に新風を吹きこんで組織を活性化しようとする意図」(『最高裁物語・下』、日本評論社、1994)があったとしています。
藤林は津地鎮祭訴訟判決のおかげで「リベラル」な裁判官との印象を残していますが、長官指名の時点では、石田コートでの「壮烈なリベラル派対保守派の戦いを体験して、その時は石田、村上の保守派に属しその後も一貫して変わることがない」人物だと思われており、思想的に安心な上に、世間に揉まれた明るい性格なので、石田コート以来の殺伐とした雰囲気を和らげてくれる存在として期待されたようですね。
「陽気でおしゃべりで気さくな長官」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59623e6975889e4bc6c5b4ab42de9383
ま、それはともかくとして、続きです。(p160以下)
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けれども、判決の結論は、彼の集大成として、ふさわしいものにはならなかった。リベラル派で鳴らした団藤重光(通説刑法学者)と環昌一(弁護士出身)に加え、元最高裁事務総長の吉田豊や後の最高裁長官・服部高顕といった裁判官エリート組を自陣に引き入れるところまでは成功したが、法廷の多数派を形成するには至らず、不本意な合憲の結論を裁判長として言い渡すことが確実な情勢になった。最高裁に入って以来、常に勝ち馬に乗ってきた彼が、少数派に回るのはこれが最初で、かつ最後のことであった。
そこで藤林は、はじめて迎える敗北に一矢報いるべく、5裁判官による反対意見とは別に、独自の反対意見を追加することを決意した。ほかの4人には信仰がなく、彼らの古典的リベラリズムの立場と、敬虔なクリスチャンとして著名な藤林のキリスト教的リベラリズムとの間には、やはり根本的な部分で乖離があったからである。これにより、結局、他のすべての裁判官と袂を分かつことになった。法曹生活総決算のはずの事件において、彼は完全に孤立したのである。
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「常に勝ち馬に乗ってきた」という表現、何だか藤林への悪意が満ちているようにも思えますが、石川氏には特にそのような意図はないようですね。
なお、団藤重光は最晩年にクリスチャン(但し、カトリック)となり、その洗礼名はトマス・アクィナスだそうです。
団藤重光(1913-2012)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89