学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

嘉念坊善俊と二つの照蓮寺

2016-11-27 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月27日(日)22時08分44秒

>筆綾丸さん
>中部を除いて、なぜ北部と南部に大家族制が発生したのか
小山隆は中切地域と山家地域では養蚕が盛んに行われていたことが一番重要な要因だと言っていて、私にはかなり説得的に思えるのですが、児玉幸多からの批判があるそうです。
そこで、一応、児玉幸多の見解を確認してから小山説を紹介したいと思います。

>江戸時代における白川郷の仏教各派の分布
これは圧倒的に浄土真宗ですね。
嘉念坊善俊(後鳥羽院の皇子?)という人物が鎌倉時代前期に白川郷に入り、白川郷は真宗の教線が飛騨に広がる一大拠点だったようですね。
小山は宗教と大家族との関係も検討していて、結論は否定的(特に関係はない)ということなのですが、これも後で紹介します。

「荘川桜を語り継ぐ者たち」
真宗大谷派高山別院照蓮寺

>生徒数がほぼ半減
一瞬、あれっと思いましたけど、これは単純に小学校が六学年、中学校が三学年だからじゃないでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

不思議な村 2016/11/26(土) 14:12:00
小太郎さん
中部を除いて、なぜ北部と南部に大家族制が発生したのか、という問題が残りますね。
合掌造りで有名な萩町地区は、意外に平地が広くて驚いた記憶があります。大家族制の背景には耕作地の狭さが要因の一つかもしれませんが、ただ、そんな場所は日本全国、至る所にあったわけですから、理由にはならないですね。
江戸時代における白川郷の仏教各派の分布も知りたいところですが、やはり浄土真宗が強いのか。大家族の宗門改め帳などは、一体、どうなっていたのか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E6%9D%91
ウィキに、1875年(明治8年)の町村制施行の記述がありますが、異質な村々の合併はさぞ難儀だったろうな、と思われますね。
「庄川沿いのわずかな平坦地に集落が散らばっている。」という記述は、せめて「・・・散在している」くらいにしてほしい。

http://shirakawa-go.org/mura/toukei/754/
平瀬小学校は廃校になったようですが、生徒数は大家族と同じくらいだったのですね。
白川小学校から白川中学校に進むと、生徒数がほぼ半減してしまうというのは、事情がわからないながら、域外に就学するという意味なんでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする