投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月10日(水)11時33分0秒
ここでちょっと脱線しますが、『弁内侍日記』は女房としての公的な職務を誇りと責任感を持って勤めていた宮廷女性の明るくユーモラスな日記です。
『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』で『弁内侍日記』を担当されている岩佐美代子氏の訳は実に生き生きとしていて、読んでいて本当に楽しいですね。
岩佐氏の解説から作者の部分を引用すると、
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後深草院の女房、弁内侍。歌人、画家として知られる藤原信実の女〔むすめ〕。祖父隆信は藤原定家の異母兄に当り、新古今歌人であると同時に、高雄神護寺像平重盛像等の筆者と伝えられる似絵の大家である。母は未詳であるが、同腹と思われる姉妹に藻璧門院少将・後深草院少将内侍があり、「みなよき歌よみ」と『井蛙抄』にたたえられている。生没年未詳。安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生か。寛元元年(一二四三)後深草天皇立太子の時「弁」の名で出仕し、同四年践祚により内侍となり、正元元年(一二五九)退位まで十七年間奉仕した。以後は宮仕えを退いたと思われ、文永二年(一二六五)妹少将内侍の死去により出家、続いて父信実、姉藻璧門院少将とも死別した。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言)を生んでいるが、その時期は明らかでない。晩年は比叡山横川の北麓、仰木の山里にこもった。『実材母集』に建治三年(一二七七)の贈答歌が見えるので、その頃(五十歳ぐらい)までの生存は確認される。
宝治二年(一二四八)百首を詠進、『続後撰集』以下の勅撰集に四十五首入集、本日記・諸歌合・私撰集類等の所載歌を合せ、約四百首が知られるほか、連歌の名手で『菟玖波集』に十三句入っている。
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ということで(p144)、「安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生」とすると、寛元元年に初出仕したときは十五から十七歳、前回投稿で紹介した「内野の雪」関連の歌を詠んだのは十八からニ十歳ということになります。
『弁内侍日記』はどこを読んでも面白いのですが、私が特に好きなのは前回投稿で引用した部分の直後、「吉田の使(つかひ)」の場面ですね。(p154)
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十七日、雪なほいと深う積りしに、吉田の使に立ちて、帰さに、主基方の女工所の事がらゆかしくて、「そなたざまへやれ」と申し侍りしかば、公役<ためもち・かねとも>、六位の車の供の者なども、夜更けて遥かに廻らん事、かなふまじき由申し侍りしかども、せめて尋ねまほしさに、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち入る式にてあるぞ」と申し侍りしかば、「まことにさる先例ならば」とて、はるばると尋ね行きたりしに、衛士が門をおそく開け侍りしに、「今に初めたる事か。吉田使の帰さに内侍の入らせ給ふに、事新しく開けもまうけぬか」と、荒らかに諌め申し侍りしも、かやうの事や先例にもなり侍らんとをかしくて、弁内侍、
とはましや積れる雪のふかき夜にこれも昔の跡と言はずは
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岩佐氏の訳は、
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十七日、雪はまだ大変深く積もっていたのに、吉田神社の使に参って、帰りに主基方の女工所の様子が気になるので、「そちらへ行って下さい」と言ったら、公役ためもち・かねとも、車の供をする六位どもなども、夜更けに遠い回り道はできないと反対した。しかし、どうしても行きたかったので、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち寄るきまりになっているのよ」と言ったものだから、「本当にそういう先例なら」と言って、はるばる訪ねて行ったのに、女工所の衛士が門を開けるのに手間取ったので、「今に始まったことか。吉田使の帰りには内侍がここに来られるに決っているのに、今更らしくまごついて。なぜちゃんと開けて待っていないのか」と荒々しく叱り飛ばしたのも、こんなことが先例になっていくのだろうとおかしくて、弁内侍、
とはましや……(こんなに雪の積った真夜中に、勝手に
女工所を訪ねるなんて、できるかしら。これも昔からの
先例であると偉そうに言わなかったら)
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というもので、なるほど、確かにこうして出来た先例が結構あるのかも、と笑ってしまいますね。
岩佐美代子氏は父方の祖父が法学者・穂積陳重、父方の祖母が渋沢栄一の娘、母方の祖父が陸軍大将・児玉源太郎という近代日本有数の名門家庭、というか法律・経済・軍事の異質な知性が交わった知的環境に生まれた人で、御自身も昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王に「宮仕え」したという非常に珍しい経験の持ち主ですね。
幼いときの「宮仕え」で、時代は異なるとはいえ、宮中という特別な世界で人間観察をした経験が中世女流日記研究にも相当役立っておられるようです。
岩佐美代子(1926-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
ここでちょっと脱線しますが、『弁内侍日記』は女房としての公的な職務を誇りと責任感を持って勤めていた宮廷女性の明るくユーモラスな日記です。
『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』で『弁内侍日記』を担当されている岩佐美代子氏の訳は実に生き生きとしていて、読んでいて本当に楽しいですね。
岩佐氏の解説から作者の部分を引用すると、
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後深草院の女房、弁内侍。歌人、画家として知られる藤原信実の女〔むすめ〕。祖父隆信は藤原定家の異母兄に当り、新古今歌人であると同時に、高雄神護寺像平重盛像等の筆者と伝えられる似絵の大家である。母は未詳であるが、同腹と思われる姉妹に藻璧門院少将・後深草院少将内侍があり、「みなよき歌よみ」と『井蛙抄』にたたえられている。生没年未詳。安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生か。寛元元年(一二四三)後深草天皇立太子の時「弁」の名で出仕し、同四年践祚により内侍となり、正元元年(一二五九)退位まで十七年間奉仕した。以後は宮仕えを退いたと思われ、文永二年(一二六五)妹少将内侍の死去により出家、続いて父信実、姉藻璧門院少将とも死別した。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言)を生んでいるが、その時期は明らかでない。晩年は比叡山横川の北麓、仰木の山里にこもった。『実材母集』に建治三年(一二七七)の贈答歌が見えるので、その頃(五十歳ぐらい)までの生存は確認される。
宝治二年(一二四八)百首を詠進、『続後撰集』以下の勅撰集に四十五首入集、本日記・諸歌合・私撰集類等の所載歌を合せ、約四百首が知られるほか、連歌の名手で『菟玖波集』に十三句入っている。
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ということで(p144)、「安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生」とすると、寛元元年に初出仕したときは十五から十七歳、前回投稿で紹介した「内野の雪」関連の歌を詠んだのは十八からニ十歳ということになります。
『弁内侍日記』はどこを読んでも面白いのですが、私が特に好きなのは前回投稿で引用した部分の直後、「吉田の使(つかひ)」の場面ですね。(p154)
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十七日、雪なほいと深う積りしに、吉田の使に立ちて、帰さに、主基方の女工所の事がらゆかしくて、「そなたざまへやれ」と申し侍りしかば、公役<ためもち・かねとも>、六位の車の供の者なども、夜更けて遥かに廻らん事、かなふまじき由申し侍りしかども、せめて尋ねまほしさに、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち入る式にてあるぞ」と申し侍りしかば、「まことにさる先例ならば」とて、はるばると尋ね行きたりしに、衛士が門をおそく開け侍りしに、「今に初めたる事か。吉田使の帰さに内侍の入らせ給ふに、事新しく開けもまうけぬか」と、荒らかに諌め申し侍りしも、かやうの事や先例にもなり侍らんとをかしくて、弁内侍、
とはましや積れる雪のふかき夜にこれも昔の跡と言はずは
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岩佐氏の訳は、
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十七日、雪はまだ大変深く積もっていたのに、吉田神社の使に参って、帰りに主基方の女工所の様子が気になるので、「そちらへ行って下さい」と言ったら、公役ためもち・かねとも、車の供をする六位どもなども、夜更けに遠い回り道はできないと反対した。しかし、どうしても行きたかったので、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち寄るきまりになっているのよ」と言ったものだから、「本当にそういう先例なら」と言って、はるばる訪ねて行ったのに、女工所の衛士が門を開けるのに手間取ったので、「今に始まったことか。吉田使の帰りには内侍がここに来られるに決っているのに、今更らしくまごついて。なぜちゃんと開けて待っていないのか」と荒々しく叱り飛ばしたのも、こんなことが先例になっていくのだろうとおかしくて、弁内侍、
とはましや……(こんなに雪の積った真夜中に、勝手に
女工所を訪ねるなんて、できるかしら。これも昔からの
先例であると偉そうに言わなかったら)
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というもので、なるほど、確かにこうして出来た先例が結構あるのかも、と笑ってしまいますね。
岩佐美代子氏は父方の祖父が法学者・穂積陳重、父方の祖母が渋沢栄一の娘、母方の祖父が陸軍大将・児玉源太郎という近代日本有数の名門家庭、というか法律・経済・軍事の異質な知性が交わった知的環境に生まれた人で、御自身も昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王に「宮仕え」したという非常に珍しい経験の持ち主ですね。
幼いときの「宮仕え」で、時代は異なるとはいえ、宮中という特別な世界で人間観察をした経験が中世女流日記研究にも相当役立っておられるようです。
岩佐美代子(1926-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90