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網野銀行

2009-03-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月22日(日)00時09分23秒

昨日・今日と山梨に行ってきました。
少し書いてみたいことがあるのですが、その前に基本的な事実関係を押えておくため、いくつか資料を紹介しておきます。
まず、『創業百年史』(山梨中央銀行、1981年)p625以下から引用します。

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無限責任網野銀行

設立の経緯
 東八代郡(現御坂町)は甲府盆地の東南部に位置し、金川と浅川が形成した御坂扇状地のほぼ中央に位置する純農村であった。同村の産業は、米・麦・綿・大豆などの生産が中心であったが、明治10年以降は、養蚕業も盛んとなった。その後、養蚕業の発展によって製糸工場が設立され、30年末の同村所在の製糸工場は9社を数えた。同村には、15年1月に銀行類似会社「済通社」が設立され、近郊農家や製糸業者の金融の利便を図ってきたが、同社が25年12月に業務を終えて以後、同村の金融は地主・質屋などに委ねられていた。
 明治31年、網野善右衛門によって無限責任会社網野銀行の設立が計画された。そして同年12月に設立認可を得て、資本金5万円をもって東八代郡錦町320番戸の自宅に設立され、32年1月2日に開業した。初代行主網野善右衛門は東八代郡でも有数の地主で"網野酒造店"を営むかたわら、30年には貴族院多額納税議員互選人となり、34年には貴族院議員となった有力者であった。

実業の推移
 同行は地元製糸業者や周辺農家などを主な経営基盤とし、これらへの貸出しを積極的に行なった。32年6月末の資金運用をみると、その構成割合は、貸出金63.2%、有価証券36.8%となっている。
 しかし、明治末から大正初期にかけては有価証券が増大し、資金運用面に大きな変化がみられるようになった。有価証券は開業当初30%前後の構成比であったが徐々に増加し、大正5年末には残高25万6,405円、構成比61.3%にも及んだ。その後、10年ごろには20%程度に低下したが、この要因は貸出金の著しい拡大によるものであった。10年6月末の状況をみると、資本金15万円、預金55万6,000円に対し、貸出金60万4,000円(構成比81.4%)、有価証券13万8,000円(18.6%)であった。
 一方、預金は開業時は少なく、その後、徐々に増加していったが、貸出金・有価証券の伸びには追いつかず、このため、明治42年には資本金を15万円に増額して資金の充実を図った。大正期に入って、預金は著しい伸びをみせ、2年末には資本金、貸出金を上回った。
 大正9年、網野善右衛門の子善一の養子であった勝丸(七里銀行取締役広瀬久政の次男)が家督を相続して善右衛門を襲名し、2代行主となった。2代行主網野善右衛門は、14年6月の貴族院多額納税者議員互選人の名簿によると、直接国税5,650円を納める多額納税者で、多くの会社役員をつとめるなど名望家として知られた。
 昭和2年の金融恐慌以後、同行は経営不振を余儀なくされ、預貸金とも急激に減少した。貸出については、個人銀行という性格から放漫に流れることもあって、4年上期には不良債権が32万円にものぼった。当時、行主が東京に在住していたことから、このなかには東京方面の大口貸出が相当含まれていたといわれる。(1)

甲州銀行の新立
 同行は銀行法の施行によって無資格銀行となり、また時を同じくして、大蔵省から経営不振を理由に業務停止の勧告を受けた。しかし、行主網野善右衛門は同行が東八代郡唯一の銀行であるため、廃業した際の地域金融を憂えて、他行との合同を望んだ。
 こうしたなかで、県当局によって七里、盛産および同行の3行合同が慫慂された。そして、前述のように紆余曲折を経て、ようやく6年12月に甲州銀行が新立された。これによって、行主網野善右衛門および支配人穴山春夫は、新銀行取締役に就任した。

注:(1)昭和4年6月製『網野銀行答申書』
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山梨中銀金融資料館 山梨中央銀行史
http://www.yamanashibank.co.jp/shiryo/history.html
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