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善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その2)

2017-12-09 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月 9日(土)13時44分27秒

四条家と足利家の関係は後で論じますが、両家の接点となる女性、即ち足利義氏(1189-1254)の娘で四条隆親(1203-79)の正室となり、「善勝寺大納言」四条隆顕(1243-?)を生み、『新編鎌倉志』の浄妙寺開山塔の記事によれば「光明院」と号したとされる人物について、黒田智氏の論文を若干補足しておきます。
まず、『新編鎌倉志』の記事ですが、蘆田伊人編『大日本地誌体系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』(雄山閣、1929)を見ると、

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〇浄妙寺<附稲荷明神社>
浄妙寺は、稲荷山〔タウカサン〕と号す。五山の第五也。開山退耕行勇和尚、諱は行勇、千光の法嗣也。【鶴岡八幡宮供僧次第】云、慈月坊の行勇、荘厳坊法印、元は玄信、周防国人、実は四条殿の息子。当社の供僧職は譲于有俊、入寿福寺葉上僧正室。後補彼寺長老第二世也。又浄妙寺開山なり云々。按ずるに、源尊氏の父、讃岐守貞氏を、浄妙寺殿貞山道観と号す。元弘元年九月五日逝去、当寺の檀那にて、当寺を修復の後浄妙寺と改めたると見へたり。昔は当寺を極楽寺と号すと【元亨釈書】に見へたり。寺領四貫三百文の御朱印あり。至徳三年七月、源義満、五山の座次を定め、建長寺を第一として、京師天龍寺の次也。円覚寺を第二、寿福寺を第三。浄智寺を第四、浄妙寺を第五とす。是より先、座位の沙汰あらず。此時帰依の僧を贔屓して、私に定けるとなん。

仏殿 本尊阿弥陀、作者不知。

開山塔 光明院と云、開山の像あり。又源直義木像あり。又光明院殿本覚大師と書たる位牌あり。裏に法楽寺殿嫡女、八月廿日逝去とあり。足利義氏を法楽寺殿正義と号す。其女を光明院と号す。権大納言隆親の室、隆顕の母と、足利の系図にみへたり。また日光山にて光明院講あり。日光の中興に昌宣と云僧あり。義氏の子なりと云ふ。光明院は昌宣の俗姉なる故に、其法事あるか。
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となっています。(p42)
この後に稲荷社についての記事が置かれ、浄妙寺の山号が「稲荷山」であるだけに非常に興味深い伝承が記されていますが、省略します。
知りたい方は黒田論文を読んで下さい。
さて、次に『吉続記』ですが、著者の吉田経長(1239-1309)は吉田定房(1274-1338)の父親ですね。
吉田経長と四条隆顕の関係を考える上で、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)巻末の「廷臣小伝」は大変参考になります。(p264)

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吉田経長 延応元(一二三九)~延慶二(一三〇九)・六・八
 父は吉田為経、母は二条定高の娘。葉室定嗣の娘と異母弟の権中納言冷泉経頼の娘を妻とする。彼が二十四歳の時、同母兄の経藤と異母兄経任が争い、敗れた経藤が出家する。母を同じくする経藤に同情的だったためか、経長は終生経任に対し、強烈な対抗意識をもっていたようだ。蔵人・弁官を経て建治三(一二七七)年に参議。亀山上皇に仕えて伝奏・評定衆を務め、弘安六(一二八三)年に権中納言。後深草上皇も経長を評価したらしく、正応元(一二八八)には中納言に進む。わずか一ヵ月でこれを辞しているが、失意の亀山上皇に遠慮したのだろうか。ただし朝政から退いたわけでは決してなく、後深草・伏見上皇のもとでさかんに実務官として活動している。正安三(一三〇一)年、後宇多院政が開始されると中納言に復帰し、再び伝奏を務め、院の執権となった。翌年、亀山上皇に不敬があったとして二十日間蟄居。亀山上皇に対しさかんに不平を鳴らし、後宇多上皇になぐさめられている。嘉元元(一三〇三)年、ついに念願の権大納言になる。同年十月、執権をやめて官を辞し、出家して一線を退いた。
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吉田経長の異母兄、中御門経任(1233-97)は、その母親が「大宮院半物(はしたもの)」という身分の低い人であるにもかかわらず、後嵯峨院の厚い信頼を得て実務官僚としての立身出世を極めた人ですが、何故か『とはずがたり』にも『増鏡』にも登場しています。
ただし、『とはずがたり』では四条隆親・隆顕父子の対立の直接の原因を作った悪役としてであり、『増鏡』では、後嵯峨院から多大な恩顧を蒙り、その崩御後は当然に出家するものと思われていたのに出家しなかった極めてずうずうしい人物として批判されています。
さて、『とはずがたり』の記述が事実だとすると、四条隆顕は中御門経任に良い感情をもっていたはずはありませんが、その点では吉田経長と同じであり、二人には共通の敵を持つ仲間意識があったかもしれないですね。
参考までに『吉続記』の正安三年(1301)十一月四日条も載せておきます。(『増補史料大成』第三十巻(吉記二・吉続記)』、臨川書店、1965、p399)

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【前略】
顕空上人此両三日自関東上洛、条々申事等、密々参院申入、行藤入道上洛一定云々、立坊事関東物忩沙汰有後悔気、然之〔而カ〕御治定可為長久[   ]由、以行藤入道可申入云々、事実者、予向[関東之カ]時、今度立坊御理運之次第、委細申披[  ]使者令申者、愚臣之高名、公私不可不悦、
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正安三年の正月に持明院統の後伏見天皇が大覚寺統の後二条天皇に譲位し、八月に富仁親王(後の花園天皇)が皇太子になっていることが背景で、二階堂行藤(1246-1302)との関係はよく分かりませんが、顕空上人もなかなか微妙な案件に後宇多院を支援する側で関わっているようですね。
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