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善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか? (その1)

2017-12-08 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月 8日(金)11時54分16秒

『とはずがたり』が事実の記録なのか、それとも自伝風小説なのかを考える材料として、国文学の研究者があまり読んでいないであろう論文をひとつ紹介しておきます。
それは黒田智氏の『中世肖像の文化史』(ぺりかん社、2007)所収の「『鎌倉』と鎌足」という奇妙なタイトルの論文で、初出は鎌倉遺文研究会編『鎌倉遺文研究Ⅲ 鎌倉期社会と史料論』(東京堂出版、2002)です。
この論文の「三、勝軍地蔵信仰と足利氏」において、黒田氏は足利氏の菩提寺である鎌倉の稲荷山浄妙寺に所蔵される『鎌埋稲荷明神縁起』という史料の全文を紹介された後、この史料を書写したという「正二位権中納言藤原隆顕」について、次のように書かれています。(p404以下)

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 本書を書写した四条隆顕は、足利義氏女を母とし、正嘉元年(一二五七)に一五歳で正四位参議となり、建治二年(一二七六)一二月二〇日に父隆親との不和を理由に突然大納言を辞し、三三歳で出家して顕空と名乗った。
 『公卿補任』によれば、隆顕が「正二位権中納言」であった時期は、文永三年(一二六六)正月五日から文永六年(一二六九)一一月二八日までに限られ、本書の作成がこの時期にさかのぼる可能性がある。
 『鶴岡八幡宮寺諸職次第』退耕行勇伝によると、「この人実は四条殿の御息なり」と記されており、浄妙寺開山行勇と四条家の関係が示唆されている。また貞享二年(一六八五)成立の『新編鎌倉志』によれば、開山塔は「光明院」と称し、「法楽寺殿<足利義氏>嫡女、八月廿日逝去」と書かれた位牌があったとされ、これは隆顕の母に相当する。
 これらは、四条家が光明院を媒介として足利氏の菩提寺である浄妙寺の創建あるいは中興に深く関与していたことを示している。
 四条家は、隆顕の祖母が三代将軍源実朝と姉妹にあたる坊門信清女であり、隆顕の父隆親が足利義氏女、その兄隆綱が大内惟義女を室とし、従弟隆茂は五代将軍頼嗣の近習であるなど、鎌倉幕府との関係が深い。また隆顕の祖父の弟にあたる四条大納言阿闍梨隆弁は、鎌倉幕府中枢にあって隠然たる権力を握った政僧であるとともに、京都の朝廷・摂関家との橋渡し役をも担っていた。『鎌埋稲荷明神縁起』の成立はこうした四条家の動向と無縁ではあるまい。
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そして、「父隆親との不和を理由に突然大納言を辞し、三三歳で出家して顕空と名乗った」に付された注42を見ると、

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42 隆顕・隆親父子不和の事情は『とはずがたり』巻二に詳しく、隆顕母が没した後、隆親が別腹の末子・隆良の参議任官を望んだためとされている。なお隆顕は、『吾妻鏡』建長三年(一二五一)七月四日条に閑院内裏造営の賞として藤原隆顕に従四位上が与えられ、また文永三年(一二六五)から四年(一二六七)にかけて権中納言として太政官符・官宣旨を奉じている(『鎌倉遺文』(13)九三二六・九六〇三・九六〇四・九六四三号)。さらに建長五年(一二五三)より建治二年(一二七六)まで『経俊卿記』『吉続記』に検非違使別当・中宮権大夫・「善勝寺大納言」としてたびたび散見する。『とはずがたり』は、隆親をして隆顕の死を嘆かせているが、『吉続記』正安三年(一三〇一)一一月四日条に「顕空上人此両三日自関東上洛、条々申事、密々参院申入」とあって、弘安二年(一二七九)の隆親死後も、隆顕が鎌倉にあって健在だった可能性がある。ちなみに、四条家と足利氏の親密な関係は、隆顕の孫で後醍醐天皇側近の四条隆資が、足利尊氏とともに雅楽の大曲「荒序」を伝授されていることからもうかがえる(『体源抄』三五)。
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ということで(p414)、もちろん正安三年の「顕空上人」が隆顕とは別人の可能性がない訳ではありませんが、京と鎌倉を往来して政治的に重要な活動を行なえる僧侶がそれほど沢山いるとは思えず、私はこれは出家後の四条隆顕その人だろうと思います。
「善勝寺大納言」四条隆顕といえば、『とはずがたり』において後深草院二条の活躍を支える親切な親戚の叔父さんであり、粥杖事件や「雪の曙」「有明の月」との交流でも仲介役として頻繁に登場します。
『とはずがたり』を素直に読む限り、四条隆親は後深草院二条に隆顕が死んだとはっきり語っているのですが、この点と「顕空上人」の正安三年の健在ぶりをどう考えるのか。
まあ、私は『とはずがたり』を自伝風小説と考えるので、全く何の問題もないのですが、『とはずがたり』を真面目に信じている多数の国文学者にとっては、けっこう深刻な悩みの種になりそうですね。
なお、「隆顕の孫で後醍醐天皇側近の四条隆資」は『増鏡』の最終場面に登場する人で、なぜこの人への言及で『増鏡』が終わっているのかは『増鏡』研究史上の難問の一つです。
『南朝の研究』で有名な中村直勝博士は四条隆資が『増鏡』の作者ではないか、という説を唱えたのですが、南朝の闘将として戦乱の渦中にいた四条隆資に『増鏡』を書くような暇があったはずがないという当然の反論がなされており、中村説の支持者は皆無です。
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