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コミカルな味わいが出てきた桜井英治氏

2015-01-26 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月26日(月)10時13分35秒

私は経済が苦手なので、以前は桜井英治氏の著書や論文を読んで、殆ど仰ぎ見るような存在に思っていた時期があったのですが、桜井氏が小川剛生・高岸輝・松岡心平氏と一緒になって、足利義満は光源氏だあ~、みたいなことを言っているのを眺めていて一抹の不安を感じるようになり(『ZEAMI―中世の芸術と文化〈04〉特集 足利義満の時代六百年忌記念』「足利義満の文化戦略」)、『現代思想』網野善彦特集号では一歩進んでコミカルな味わいも感じるようになりました。
少し引用してみます。(p77以下)

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成田 桜井さんは、著作集の『無縁・公界・楽』の巻で「解説」を書かれていますね。
桜井 たしかに『無縁・公界・楽』は、網野さんらしくないと言えば網野さんらしくないところのある本で、実証的な部分はじつは半分ぐらいなのですね。あとは辻褄合わせというと表現は悪いのですが、論理でカバーされている。網野さんの仕事のなかでは形式論理で攻めていった部分が極端に多い本なのです。
 じつは、網野さんが注目した意味での「無縁」「公界」「楽」という言葉は、戦国時代ごろにしか出てきません。原理としては人類史を貫いているのに、言葉としてはこの時代にしか出てこない。その理由をまず説明しなければならない。そこで「有縁」の勢力がある程度強まらないと「無縁」も自覚されないのだと説明された。私的所有によって追い込められたところでようやく「無縁」も自覚される、「無縁」「公界」「楽」という言葉の出現が遅れたのはそのためであると。しかし、もっと遡ると「有縁」も「無縁」もなくなって、「原無縁」の世界になる。「有縁」があっての「無縁」であって、「有縁」がなければ「無縁」も、そしてそれ以前の「原無縁」も想定できなくなる。ひじょうに宇宙論的な話になってきますが、そのあたりはとても実証的とは言えません。
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これを受けて、保立道久氏も『無縁・公界・楽』は実証的な分析ではないと言うと、綾小路きみまろが「『無縁・公界・楽』は、お二人とちがって、私などからするとかなり実証的な仕事のようにみえます」云々とトンチンカンな感想を述べ、ついで山本幸司氏が「そういう意味では実証的ですよ。それは天才だから(笑)」というコバンザメ的な相槌を打つのですが、その後の桜井氏の釈明はすごいですね。

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桜井 ただ人類史を語っているのですが、じっさいに取り扱っている史料は中世後期から近世のものがほとんどで、それ以外は論理的に組み立てている。だからページの配分にも偏りがあって、中世後期についての叙述がほとんどです。
 先ほど「辻褄合わせ」と言ったのはちょっと表現が良くなかったかもしれません。網野さんはご自分のおっしゃっていることのなかに辻褄の合わないことを残さないという律儀なところがあります。そんなことまで気にされていたのかというところまでちゃんと読み込んでおられた。網野さんはひじょうに大きなこともおっしゃるので、あっちでああ言い、こっちでこう言いと場当たり的な発言をしていると誤解している人もいるかもしれませんが、そうではありません。網野さんはご自身の発言を全部おぼえておられて、全部に説明をつけておられた。だから結果的に、きわめて体系的なお仕事になっているのです。実証ももちろんですが、理論についてもご自分の発言にひじょうに責任をもっておられたと思います。
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『無縁・公界・楽』を徹底的に読み込んだ桜井氏は、最終的な結論として、同書は「形式論理」であり「辻褄合わせ」だとポロっと本音を言ってしまった訳ですが、さすがにちょっとまずかったなと反省し、必死になって弁解した結果、網野善彦氏は一切の矛盾を持たない、完全無欠の存在になってしまっていますね。
殆ど全盛期のスターリンや毛沢東への賛美の如く、最近では某国の将軍様への賛美の如く、ここに網野善彦無謬神話が誕生した訳ですね。

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