学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

藤林益三による矢内原忠雄の「写経」

2016-05-09 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 5月 9日(月)12時04分9秒

石川健治氏が朝日新聞に寄稿した「(憲法を考える)9条、立憲主義のピース」は、宗教的観点から一部に興味深い内容が含まれていたので、少し検討してみます。


石川氏は、

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 改憲を唱える人たちは、憲法を軽視するスタイルが身についている。加えて、本来まともだったはずの論者からも、いかにも「軽い」改憲発言が繰り出される傾向も目立つ。実際には全く論点にもなっていない、9条削除論を提唱してかきまわしてみたりするのは、その一例である。日本で憲法論の空間を生きるのは、もっと容易ならぬことだったはずである。
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と法哲学者の井上達夫氏にイヤミを言った後、逆に<「重さ」を感じさせる一例>として1977年に出された津地鎮祭訴訟での最高裁長官・藤林益三の反対意見について薀蓄を傾けます。

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 しかし、この事件を「法律家人生をかけてとりくんだ」とのちに振り返る藤林は、裁判長ながら「違憲」の反対意見に回る。しかも、「違憲」派5人の共通の反対意見に加えて、さらに1人で追加反対意見を書いた。藤林が明記して断っているように、追加反対意見の前半は、内村鑑三が創始した無教会主義のキリスト者・矢内原忠雄の文章を、ほぼ一字一句「写経」することで成立している。
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石川氏も後半で書いていますが、藤林益三(えきぞう、1907-2007)も無教会主義のプロテスタントですね。
その著書『法律家の知恵』(東京布井出版、1982)をパラパラめくってみたところ、藤林の夫人(巌谷小波の娘)が内村鑑三の高弟・塚本虎二の聖書研究会に参加していて、藤林も一緒に出るようになり、塚本の死後はその集会を藤林が承継するような形になったのだそうです。
ま、それはともかく、プロテスタントなのに「写経」はないだろうと思って「裁判官藤林益三の追加反対意見」を見てみると、

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六 以上が、反対意見に追加する私の意見であるが、その一及び二項において、私は矢内原忠雄全集18巻357頁以下「近代日本における宗教と民主主義」の文章から多くの引用をしたことを、本判決の有する意義にかんがみ、付記するものである。


ということで、「多くの引用をした」というのが藤林自身の表現ですね。
私自身の関心は石川氏とは違うので、例えば「過去一千年以上にわたつて実行せられて来た仏教と神社との二重生活」といった表現に興味を惹かれますが、その点はひとまず置いて、石川氏の文章の最後の方を少し引用してみます。

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ただし、ここには、一つの問題がある。新しい結界のもとで再編された「公共」は、立憲主義が想定する「無色透明」なそれであるが、そうした「公共」に対して、国民の情熱や献身を調達することは難しい。ありていにいえば、そうした無色透明なものに対して命は懸けられないのである。この点は立憲主義の、それ自体としてのアピール力の弱さを示している。
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まあ、個人的には「公共」が「無色透明」であって何が悪いのだ、それ以上の「公共」など誰が欲しがっているのだ、そのどこに「立憲主義」の弱さがあるのだ、と思う訳ですが、それもひとまず置いて続きを読むと、

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この点、矢内原は、政教分離原則は「国家の宗教に対する冷淡の標識」ではなく、「宗教尊重の結果」であることを強調し、むしろ「国家は宗教による精神的、観念的な基礎を持たなければ維持できない」ことを強調した。当然ながら、最もふさわしいのはキリスト教、というのが矢内原の立場だ。近代立憲主義国家は、実はキリスト教による精神的基礎なしには成り立たないという。実は藤林も無教会主義の敬虔な信者であった。
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ということで、ここで石川氏はやっと藤林が無教会主義のプロテスタントであることを明らかにします。
そして、石川氏は「欧米の憲法史にそっていえば、矢内原らの見方は、かなりあたっている」と言うのですが、これは本当ですかね。
フランス革命を主導した思想家、そして革命派の民衆はカトリックの王党派と闘っていたことの一事をとっても「近代立憲主義国家は、実はキリスト教による精神的基礎なしには成り立たない」は歴史的事実に反しており、むしろそれは矢内原忠雄・藤林益三らの願望にすぎないのではないですかね。
また、石川氏の「欧米の憲法史にそっていえば、矢内原らの見方は、かなりあたっている」との評価は、キリスト教徒の「欧米の憲法史」研究者の見方であって、一般的な評価とは異なるのではないですかね。
石川氏の文章は相変わらず荘重ですが、私には賛同できかねる点が多い、というか大半に賛同できないですね。

>筆綾丸さん
>どういう了見か不明ですが、アクサン記号が一切なく、

ちょっとびっくりしましたが、本当にありませんね。


アクサン記号がない「仏文」というのは随分のっぺりしていて気持ちの悪いものですね。
おそらく翻訳業者に依頼したのでしょうが、ここまでひどい手抜き仕事を注意しない日本法律家協会側の担当者も雑な仕事をしていますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

法曹界の高踏派 2016/05/08(日) 13:14:28
小太郎さん
http://jpnba.or.jp/
ご紹介の「一般財団法人 日本法律家協会」には、なぜか英語と仏語の説明文もあるので(法継受的には重恩のはずの独文はない)、試しに仏文を眺めてみると、どういう了見か不明ですが、アクサン記号が一切なく、誠に奇妙な表現であることがわかります。
たとえば、 la cour supreme(la cour surême=最高裁、アクサンシルコンフレクスの欠落)、 l'Universite de Tokyo(l'Université de Tokyo=東大、アクサンテギュの欠落)、a la Haye(à la Haye=ハーグ所在の、アクサングラーヴの欠落)・・・といった具合で、枚挙に遑がありません。つまり、こんな不完全なものは仏文とはいえない。日本の法曹界はこの程度か、とフランス人に舐められるのは必定で、もう一方の英文は大丈夫なんだろうか、と心配になります。
そして、肝心の日本文には、「・・・しかし、60年余年の時を経て、社会は文明化し・・・」という一文があるのですが、「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」という表現があるごとく、日本社会はもっと早くから法的に「文明化」していたのではないか、と思いました。
法曹界の高踏派のエリートたちには、当然のことながら、こんなホームページ、何の関心もないのだろうな、ということがよくわかって面白いですね。この関心のなさの程度は日本国民への関心のなさの程度に、もしかすると、似ているのかもしれません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B8%8F%E6%B4%BE
日本の Mont Parnasse は、愛宕山(標高25.7m)ではなく、三宅坂上一帯を指しますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E4%BA%95%E8%A3%95%E4%B8%80
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO02023830X00C16A5MY5000/
本日の日経朝刊で、田中素香氏『ユーロ危機とギリシャ反乱』(岩波新書)と三好範英氏『ドイツリスク』(光文社新書)を中心に、森井裕一氏が現代ドイツを論じていますが、トッドへの言及はないですね。前段における森井氏の言説は、トッド説によく似ているのですが。
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