学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻六 おりゐる雲」(その3)─西園寺公相・公基

2018-01-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月16日(火)19時12分28秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p30以下)

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 かくて今年は暮れぬ。正月いつしか后にたち給ふ。ただ人の御むすめの、かく后・国母にてたち続きさぶらひ給へる、ためしまれにやあらん。大臣の御栄えなめり。御子ふたり大臣にておはす。公相・公基とて大将にも左右に並びておはせしぞかし。これもためしいとあまたは聞えぬ事なるべし。
 我が御身、太政大臣にて二人の大将を引き具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし勢ひのめでたさは、珍らかなる程にぞ侍りし。后・国母の御親、御門の御祖父にて、まことにその器物に足りぬと見え給へり。昔、後鳥羽院にさぶらひし下野の君は、さる世の古き人にて、大臣に聞えける。

  藤波の影かげさしならぶ三笠山人にこえたる木ずゑとぞ見る

返し、大臣、

  思ひやれ三笠の山の藤の花咲き並べつつ見つる心は

かかる御家の栄えを、みづからも、やんごとなしと思し続けて詠み給ひける。

  春雨は四方の草木をわかねどもしげき恵みは我が身なりけり
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こうして今年(康元元年、1256)は暮れた。正月、早くも公子は中宮になられた。「ただ人」、即ち摂関家ではない人の娘で、このように后(中宮公子)・国母(大宮院)として続いて立たれる例は少ないだろう。これも実氏公の御好運であろう。公相・公基のご子息二人はともに大臣で、左大将・右大将としても並び立っておられる。これも例をあまり聞かない。御自身は太政大臣として、二人の大将を連れて後嵯峨院の最勝講に参内されたときの御威勢は世に珍しいほどであった。后・国母の親、後深草天皇の祖父として、本当に器量十分とお見受けした。

ということで、西園寺実氏への絶賛が続きます。
「昔、後鳥羽院にさぶらひし下野の君」の歌にある「藤波」は藤原氏、「三笠山」は「藤原氏の氏神春日神社の神域にある山で、かつ近衛府の大・中・少将の異名」(井上氏、p33)とのことで、兄弟で左右の大将として並び立っていることを讃えている訳ですね。
下野の君の歌と実氏の返歌は『続古今集』巻二十に出ているそうですが、その後の「春雨の……」の歌は、これだけ見ると藤原道長の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠かけたる事もなしと思へば」を連想させる、栄耀栄華を極めた自分を讃える傲岸不遜な歌のような感じがしないでもありませんが、実際には実氏が二十三歳のときに詠んだ後鳥羽院百首中の歌で、『続千載集』巻十六に「建保四年百首の歌奉りける時 西園寺入道前太政大臣」との詞書とともに載っているそうです。(井上氏、同)
建保四年(1216)というと康元元年の四十年前、西園寺実氏はまだ正三位、参議・左中将程度の時期ですから、この歌を三番目に持ってくるのは、まあ、編集の妙と言うか、一種のトリックのような感じがしないでもありません。
さて、ここまで「ただ人」西園寺実氏への絶賛が続くと、果たしてこんな文章を摂関家の関係者が書くものだろうかという疑問が改めて浮かび上がってきます。
なお、『五代帝王物語』にも公相・公基兄弟に関するかなり長い記事があるので、次の投稿で紹介します。

西園寺公相(1223-67)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%9B%B8
西園寺公基(1220-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%9F%BA
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