学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻六 おりゐる雲」(その2)─鷹司兼平

2018-01-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月16日(火)11時32分3秒

西園寺公子の女御入内の場面の続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p27以下)

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 二十三日、又御消息参る。御使ひ、頭中将通世、こたみも殿、書かせ給ふめり。このころ殿と聞ゆるは太政大臣兼平の大臣、岡屋殿の御弟ぞかし。後には照念院殿と申しけり。御手すぐれてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家のはじめなるべし。

  朝日影今日よりしるき雲の上の空にぞ千代の色もみえける

御返し、太政大臣聞え給ふ。

  朝日影あらはれそむる雲の上に行末遠き契りをぞしる

女の装束、細長そへてかづけ給ふ。
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再び天皇から女御へ手紙が贈られて、その使いは頭中将・中院通世(村上源氏、中院通方の子)です。
天皇に代って手紙を書いたのは関白・鷹司兼平(1228-94)で、建長四年(1252)に十八歳年上の異母兄、岡屋関白・近衛兼経(1210-59)の譲りを受けて後深草天皇の摂政となり、建長六年(1254)に関白に転じています。
「鷹司殿の御家のはじめ」、即ち五摂家のひとつ、鷹司家の家祖ですね。
また、国文学者によって『とはずがたり』の「近衛の大殿」に比定されている人物でもあります。

鷹司兼平(1228-94)

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 今日はじめて、内の上、女御の御方に渡らせ給ふ。御供に、関白殿、右大臣<公相>、内大臣<公基>、四条大納言隆親、権大納言実雄、良教、通成、左大将基平など、おしなべたらぬ人々参り給ふ。餅の使ひ、頭中将隆顕つかうまつる。太政大臣、夜の御殿よりとり入れ給ふ。御心の中のいはひ、いかばかりかはとおしはからる。人々の禄、紅梅の匂ひ、萌黄の表着、葡萄染めの唐衣、袿、細長、こしざしなど、しなじなにしたがひてけぢめあるべし。
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手紙を二度贈り、その後やっと後深草天皇が女御の御方へ行きます。
その供の筆頭は関白・鷹司兼平で、続く右大臣の西園寺公相(1223-67)、内大臣の西園寺公基(1220-75)はともに太政大臣・西園寺実氏(1194-1269)の子息です。
そして大納言・四条隆親(1203-79)は実氏室・四条貞子(北山准后、1196-1302)の弟で、権大納言・洞院実雄(1217-73)は西園寺公経男、実氏の二十三歳下の異母弟ですね。
権大納言・粟田口良教(1224-87)は近衛家庶流、権大納言・中院通成(1222-86)は源通親の孫で、天皇からの手紙の使いとなった頭中将・中院通世の兄です。
右大将・近衛基平(1246-68)は近衛兼経男で、康元元年(1256)にはまだ十一歳ですね。
「餅の使ひ」役の頭中将・四条隆顕(1243-?)は隆親男で、隆親とともに『とはずがたり』に頻出する人物でもありますが、四条隆親・隆顕父子が『増鏡』に登場するのはこの場面が最初ですね。
四条家は院政期以来富裕で有名で、隆親は後堀河院の近臣であり、幼帝・四条天皇の「乳父」でもあった人です。
仁治三年(1242)、四条天皇が頓死して後嵯峨天皇に変ると、隆親は自分の邸宅・冷泉万里小路殿を天皇の御所(里内裏)に提供し、妻の能子(足利義氏女、隆顕母)は天皇の「乳母」となるという機敏な対応を見せ、後嵯峨院の宮廷でもそれなりの存在感を示したはずの人ですが、『増鏡』には康元元年(1256)、隆親五十四歳のこの場面まで登場してはいません。

>筆綾丸さん
>『源氏物語』など、全部、頭の中に入っている感じがします。
そうですね。
若い頃に『源氏物語』を何度も読み耽って、その語彙・文体が頭脳に染みわたり、自然に溢れ出てくるような境地かもしれないですね。
漢学の素養も相当ありそうで、たいしたものですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

作者 2018/01/15(月) 13:07:57
小太郎さん
『増鏡』の作者は、所々読み返してみると、該博な知識があって、達意の文章をスラスラ書ける人で、しかも非常に理知的な人だ、とあためて感じますね。
『源氏物語』など、全部、頭の中に入っている感じがします。
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