学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「ふしぎな知性の饗宴」(by 清岡卓行)

2014-10-31 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月31日(金)09時54分17秒

>筆綾丸さん
戦前の共産党について調べていた頃、旧制五高の出身者には各方面に優秀な人が多いなあと漠然と思っていたのですが、考えてみれば卒業生の人数が多いという一番単純な事実を見逃していました。
ま、優秀な人が多ければ変てこな人も多い訳で、筆頭はやはり蓑田胸喜でしょうね。
渋沢栄一の子で廃嫡された篤二も五高時代に遊里に入り浸っていたそうで、不良学生の代表格ですね。

>旅順高等学校
こちらは卒業生が極めて少ないので、有名人に乏しいのも仕方ないですね。


ウィキペディアの同校の項目には『アカシヤの大連』の清岡卓行が「昭和17年度卒。一高に再入学」とありますが、さすがにそんな経歴はありえないだろうと思って検索したら、「清岡卓行の世界」というサイトの詳細な年譜には「1940年(昭15) 4月、旅順高校入学。しかし軍国調に馴染めず3ヶ月で自主退学」とありますね。


清岡卓行は『渡辺一夫著作集』別冊「追悼文集」で、次のように書いています。(「哀悼 渡辺一夫先生」)

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(前略)
 思い出はいろいろあるが、その一つを述べさせてもらうなら、昭和十九年の秋、東大仏文の小さな研究室で聞くことができた、先生のラブレーの講義がある。すでに戦争は末期に近く、それは空襲のあいまに行われる、ふしぎな知性の饗宴のようであった。学徒動員の後であったから、学生の数は五、六名に過ぎなかったが、先生は情熱的に、そして、グロテスクでエロチックであったりする個所には、かすかに顔を紅らめる羞恥を示したりしながら『ガルガンチュワとパンダグリュエル』物語のいわゆる<哄笑>を、高らかにひびかせてくれた。(中略)
 その頃、日本の現役の文学者に、つぎつぎ失望しなければならなかった一人の青年の心に、渡辺一夫先生が思いがけない救いとして映ったのは当然のことであっただろう。そうした状況における深い感動は、生涯忘れられるものではない。
 私の見るところでは、先生は魂の奥底に深い虚無をかくしていた。しかし、それに少しでも溺れることを、自分に許さなかった。その虚無を克服するかのように、フランスのルネッサンスの文芸思潮などに、飽くことを知らぬ精緻さで取り組んだのである。その自由な精神はもちろん、フランスの文明をも批判する自立のきびしさを失わなかった。(後略)
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同じ時期の国史学科あたりの荒涼とした知的環境に比べれば、仏文はずっと恵まれていたようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

人生いろいろ校歌いろいろ 2014/10/29(水) 19:24:35
小太郎さん
秦郁彦氏の『旧制高校物語』を繙いてみました。
http://blog.goo.ne.jp/momotyann_1937/e/7678191c34e4dfec6521c571a0a208a8
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/bufugentouni.html
旧制五高の校歌「武夫原頭に草萌えて」(124頁)の「武夫原(ぶふげん)」の故事来歴は如何と調べてみると、たんに「もののふのはら」という意味にすぎないようで、漱石先生なら馬鹿にしたろうな、と思われました。巻頭言末尾「一(あいん) 二(つばい) 三(どらい)」のドイツ語は、ラテン語にしておけばもっと格調高くなったのに、今となっては悪い冗談のようですね。
松本高等学校の「春寂寥の洛陽に」(136頁)は、僭称というか、なぜ松本が洛陽なのか、よくわかりません。姫路高等学校の「ああ白陵の春の宵」(138頁)の「陵」は、日本ではふつう天皇等の墓の意味なので、白陵は白鷺城のことだと言われても、これでは、春の夜に徘徊するオバケの歌ですね。広島高等学校の「銀燭揺らぐ花の宴」(140頁)は、まるで華燭の典のようで、勉学はさておき、在学中に妻帯しろ、と催促しているような前衛的(進歩的?)な感じがしますね。成蹊高等学校の「膚を濡らす時の風」は、なんだか花街の遊蕩児のようです。

旅順高等学校(146頁)の存在は、はじめて知りました。
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昭和十五年、戦前期でもっともおそく創立された旅順高校は、官立ではあるが文部省の管轄ではなく、拓務省所管の関東州立であった。また存続期間が五年と短いが、内容的には他高校と変るところはない。(146頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。秩父宮は翌日の27日に上京した。平泉澄が群馬県水上駅まで迎えに行き車中で会談している。
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雪と所要時間を考えれば、平泉澄は卒業論文の審査を終えたあと、その日の内に上野駅から汽車に飛び乗って水上へ行き、とりあえず温泉で一風呂浴びるなどしたものの、いよいよ目が覚めて眠れず、翌日、今か今かと宮を待ちわびた、というようなことになるのでしょうね。
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