学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「実定法学や実証主義政治学の彼方の領域」

2014-09-10 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月10日(水)22時20分39秒

>筆綾丸さん
『聞き書 南原繁回顧録』に掲載されている三谷太一郎氏の「解説─南原繁百歳」には、筧克彦が南原繁に与えた影響について、次のように書かれていますね。(p500以下)

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 南原にとって「国民共同体」は究極的には「神の国」によって根拠づけられるとしても、直接的にまた合理的にそれを根拠づけるものは、「価値哲学」(とくに「政治哲学」)である。南原自身、「たとえ政治も究極において宗教に導かれざるを得ず、『地の国』(civitas terrana)は『神の国』(civitas Dei)に連なるものではあるとしても、政治の価値原理は別に考えられなければならない」と書いている。そこで南原の精神的生涯における最も重要な契機の一つである「哲学」について、その意味を考えたい。
 まず南原が「世界観の学」としての「哲学」への関心を喚起させられたのは、明治末年から大正初頭にかけて、南原が大学在学中四年間にわたって聴講した筧克彦の講義であった。筧の講義は」「国法学」に始まり、「行政法」第一部・第二部、さらに「法理学」に及んだが、それらの中心的内容は、筧の著書『仏教哲理』(一九一一年)および『西洋哲理』上(一九一四年)に盛り込まれたものであった。後に筧の学問は特異な神道運動のイデオロギーに転化したが、南原が学生として聴講した当時の筧の学問は、南原によれば「全盛時代」にあり、南原はその独特な講義に魅了されるとともに、とくにプラトンへの関心を触発された。学問的立場や世界観のちがいにもかかわらず、南原は終生、筧の人となりを敬愛し、筧に対し師としての礼を忘れなかった。
 南原が筧の講義を通して覚知したものは、当時の法科大学の主流であった実定法学や、国家学の旧套を脱しつつあった実証主義政治学の限界であった。七年間の内務省勤務を経て、政治学者として立った南原は、実定法学や実証主義政治学の彼方の領域、そなわちそれらの学問が不可知の領域とした非合理的価値の領域についての学問の確立を志向した。(後略)
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私も筧克彦(1872-1961)の著書は読んだことがないのですが、「特異な神道運動」へ移行した後も、別にファナティックな性格に変わった訳ではなく、むしろ数えで90歳という長命な生涯を終えるまで、一種独特の人格者だったようですね。
険悪な雰囲気で対立するグループの間に筧克彦が入って来てにこやかに笑うと、何となくその場にいる人全員が争う気力をなくした、といった逸話があるそうです。(うろ覚え)
中島健蔵の『昭和時代』(岩波新書、1957)は未読ですが、「札付きの」は少し言い過ぎのような感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

札つきの神がかりの学者 2014/09/10(水) 17:53:30
小太郎さん
日経新聞の本文には、
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氷川神社は1日が例大祭にあたっていた。宇佐、香椎は10年に1度の勅使祭だったが、通常は10月に行われるため、時期としては異例だ。
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とあり、原武史氏の説を補強しているようにも読めますね。

原氏の『松本清張の「遺言」―『神々の乱心』を読み解く 』(文春新書)に、貞明皇后の思想に強い影響を与えたのは、東京帝国大学教授筧克彦が唱えた「神ながらの道」であり、一九二四(大正十三)年の歌御会始(歌会始)で、皇后は、
   あら玉の年のはじめにちかふかな神ながらなる道をふまむと
と詠まれた、とあります。そして、「神ながらの道」はアマテラスが中心で、自分は天皇に成ことができないにしても、「神ながらの道」を極めれば、女神である皇祖アマテラスと一体化できる、と考えていたのではないか、としています。(67頁~)
また、皇后は大正天皇が死去する直前の一九二六(大正十五)年十月に遺書を書き、その中には「筧博士ノ書物ヲ秩父宮ニアヅケルコト」という一文があり、反りが合わない昭和天皇ではなく、溺愛した秩父宮に「神ながらの道」を継承してほしかったのだろうが、親の心子知らずで、そんなものは要らないと秩父宮は思われたようだ、とあります(250頁)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6
「神ながらの道」がどのようなものなのか、全く興味はありませんが、中島健蔵は筧克彦を、「「近代政治学から見れば、はしにも棒にもかからない」「神道に基づく祭政一致論」を唱える、「札つきの神がかりの学者」と評しているとのことです。
ウィキにはまた、「南原繁 は筧教授の講義によって「政治哲学」に目覚めた」とありますが、変人でも講義は明快だったのでしょうか。大正天皇の晩年を考えると、皇后が神懸りの人に惹かれてゆくのも止むを得んのかなあ、とも思われますね。おたあさまを見て、ああはなるまい、と東宮は思われた、というのは有り得るような気がします。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=258545
井上智勝氏の『吉田神道の四百年ー神と葵の近世史』をパラパラ眺めて、筧克彦の「神ながらの道」は吉田神道と何か関係はあるのかな、などと考えています。
毎日新聞の「「蛙(かえる)」の神様として「正一位蛙大明神」の称号を与えた」という記事ですが、これでは「かえる」大明神と読めてしまい、ここは「かわず(かはづ)」大明神と読むべきで、その方が「神位」に相応しいような気がしました。

http://hotonoha.blogspot.jp/2011/08/blog-post_1719.html
ほとんど全てが a frog なのに、ラフカディオ・ハーンのみ、なぜか frogs としているのですね。

ふるいけや かわずとびこむ みずのおと
http://sikaban.web.fc2.com/rakusin.htm
正一位の蛙が古池に飛び込む情景は、さながら、曹植の『洛神賦』のようですね。
黄初三年、余朝京師、還濟洛川。古人有言、斯水之神、名曰宓妃。感宋玉對楚王説神女事、遂作斯賦。其辭曰・・・
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