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八嶌正治氏「頽廃の魅力」(その1)

2018-03-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 7日(水)12時32分36秒

『とはずがたり』の登場人物の変態度が高まれば高まるほど、アブノーマルの程度が上がれば上がるほど「リアル」に感じる人たちの代表として、八嶌正治氏(早稲田大学講師、元宮内庁書陵部図書調査官)がいます。
八嶌氏の「頽廃の魅力」(新日本古典文学体系月報52、1994)は大変興味深い『とはずがたり』論なので、少し紹介しておきます。

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頽廃の魅力

  さても、広く尋ね、深く学するにつきては、男女〔をとこをんな〕の事こそ罪
  なき事に侍れ。逃れざらん契りぞ、力なき事なり。されば昔もためし多く侍。(中略)
  この思ひに堪えずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。
  もしは畜類、獣〔けだもの〕に契るも、みな前業の果たす所なり。人ばしすべきに
  あらず。

後深草院の哲学である。男女のことは罪悪とは関係のない事で、獣姦でさえ辞すに能わない。何故なら、性に関する事は、総て宿命の致す所で人間の意志によっては如何ともし難いからである。「力なき事なり」「人ばしすべきにあらず」と人力の及ばない事が繰り返され、この文脈の中でとらえられると、異類婚姻譚も新たな光を帯びる事になる。
 この日記も巻三に至ると、作者の筆はかなりの振幅をみせ物語性が拡がる。フィクション側で真実を求めはじめているのである。この巻冒頭からこの日記独自の世界へ突入する。院は二条と有明の会話を聞いてしまい二条が二人の関係を告白するに至るのである。「例の人よりは早き御心なれば」とあり、この種の事に関して院は勘が鋭いのである。拒否されると思いきや院は二人の関係を慫慂する。遊義門院の為の如法愛染王法最後の日の院の夢もフロイトを地で行くかのように、有明が五鈷を二条に与えると、二条はそれを院に隠して懐に入れたとする。よく知り合った仲なのにどうして隠すのか聞く院に、涙ながらに見せたのが後嵯峨院の遺品の銀製の品であったので院が貰い受けたという。有明の子を身籠ったことを意味し、『源氏物語』の薫のように、生まれる子を院が引き取ることを引歌にて隠喩するのである。
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「この日記も巻三に至ると、作者の筆はかなりの振幅をみせ物語性が拡がる」とあるので、八嶌氏は『とはずがたり』が「物語」であり虚構だという立場なのかと思いきや、「フィクション側で真実を求めはじめている」のだそうで、ちょっと意味が分からないですね。

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 院は二条と有明の密会の手引をする一方、逢引きの床から抜け出して来た二条に向い、嫉妬や皮肉をちらつかせる。窃視性にしてサディズムなのである。二条は院にも有明にも引かれており、自分の心の矛盾に苦しんでいる。人間の本性から言って、確かに二つに引き裂かれる心の矛盾は苦悩なのであるが、やがては人は慣いによって苦悩を欲するようになるのであろう。巻三が最も高揚を見せるのも、二条の肉体がこの時最も張りつめているからであって、デカダンス期の宿命観や快楽至上主義から言えば、この苦悩は容易に倒錯した快楽に転ずるものなのである。有明を写す中でも最後の逢瀬の描写は美しい。二晩の愛の状況が告げられる訳であるが、長い愛に耐えて前の晩は一睡もせず、翌日仮眠した時には有明は鴛鴦になって二条の胎内に入った夢を見る。巻四・巻五には有明の追憶がないのも、あの有明の恐ろしい程の肉欲が後深草院に転化したからであり、その苦悩の度に於いて院にまさるものはなかったのである。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「有明の月」は巻二に初めて登場し、巻三では大変な分量で熱く語られているのに、巻四・巻五ではその名前すら一切出て来ません。
あまりにその落差が極端なので、これも『とはずがたり』における大きな謎の一つなのですが、八嶌氏の「巻四・巻五には有明の追憶がないのも、あの有明の恐ろしい程の肉欲が後深草院に転化したからであり、その苦悩の度に於いて院にまさるものはなかったのである」という理由づけは、「有明の恐ろしい程の肉欲が後深草院に転化」するメカニズムの説明がなく、あまり説得力があるようには思えません。

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巻四、二条三十四歳の二月頃、八幡で院に邂逅、一夜語り明かす。この時私は僧体の男女の交情を想定するが、この説には実証面からの岩佐美代子氏の支援がある(『女流日記文学講座』第五巻・勉誠社)。二年程後の九月伏見殿を訪ね、同じく一夜語り明かし、この後、院から生活上の慰問がある。元気な院と会うのもこれが日記の上では最後である。巻五でも夢を除けば二度院との出会いがある。二条四十七歳、実兼の取りなしで「夢のやうに」危篤の院を見る。二度目はその二日後、今度は実像ではなく、葬送の車を裸足で追い、火葬の煙を見るのである。
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「実証面からの岩佐美代子氏の支援」というのは、後深草院が「御肌に召されたる御小袖」を二条に渡したことが「交情」を暗示、というか明示していることについての類例の紹介ですね。

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 『とはずがたり』を読む時、事実が、事実以外の何者でもなく、岩膚のような姿を現す。その意味では宮廷篇も修行篇も同一である。後深草院との出会い、父の死、扇に油壺の夢、出産……これらを情緒的に見ては居るのだが、筆は飽くまで乾いた微細なリアリズムであり、鎌倉期の絵画・仏像のリアリズムと通ずるものである。

  (父は)ちと眠りて、左の方へ傾くやうに見ゆるを、猶よくお
  どろかして、念仏申させたてまつらんと(私は)思て、膝をは
  たらかしたるに、(父は)きとおどろきて、目を見開くるに、
  (互いに)あやまたず見合わせたれば、(父)「何とならんずらむ
  は」と言ひも果てず、(中略)年五十にて隠れ給ぬ。

父の死に際であるが、極めて即物的に微細に描かれ、それが印象的な効果を出している。この表現方法は全巻を通していると見てよい。
 父の死の描写と似たものとして、二条の那智での院の夢がある。父の霊は、院の姿が右に傾いて居るのを次のように説明する。

  あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫れ物あり。
  この腫れ物といふは、我らがやうなる無智の衆生を、多く尻
  へ持たせ給て、これをあはれみ、はぐくみおぼしめすゆゑな
  り。またくわが御誤りなし。

父の場合は左の方であったが、院の場合は右である。この片向く姿は仏の端正な姿と比べると如何にもいびつで『とはずがたり』のイメージに相応しいが、院と父は重なり合う性質のものだったのである。
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唐突な連想かもしれませんが、私はこの父・雅忠の死の場面が『増鏡』巻十三「秋のみ山」に描かれた近衛家平(1282-1324)の他界の場面と似ているような感じを受けます。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p114以下)
家平の場合、その体を支えたのは男色の相手(隠岐守頼基)ですが、「すでに限りになり給へる時、この入道も御後ろにさぶらふに、よりかかりながら、きと御覧じ返して、『あはれ、もろともにいで行く道ならば嬉しかりなん』とのたまひも果てぬに、御息とまりぬ」となっていて、「きと」見交わし、最後のひと事を言い果てないうちに死んで行くというパターンは全く同一ですね。

近衛家平の他界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2240db7a9c314fc232730a9e5fffc723

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『とはずがたり』巻五の「光源氏」と「撰要目録・序」の「光源氏」

2018-03-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 7日(水)08時32分16秒

筆綾丸さんが紹介された「光源氏」が出てくる場面は巻五の冒頭ですが、原文を見ると、

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 さても、安芸国厳島の社は、高倉の先帝も御ゆきし給ひけるあとの白波もゆかしくて、思ひ立ち侍りしに、例の鳥羽より船に乗りつつ、河尻より海のに乗り移れば、波の上のすまひも心細きに、ここは須磨の浦と聞けば、行平の中納言、もしほたれつつわびけるすまひも、いづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。
 九月の初めのことなれば、霜枯れの草むらに鳴きつくしたる虫の声、絶え絶え聞えて、岸に船着けてとまりぬるに、千声万声のきぬたの音は、夜寒の里にやとおとづれて、波の枕をそばだてて聞くも悲しきころなり。明石の浦の朝霧に島隠れ行く船どもも、いかなる方へとあはれなり。光源氏の、月毛の駒にかこちけん心のうちまで、残る方なくおしはかられて、とかく漕ぎ行くほどに、備後国鞆といふ所に至りぬ。
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ということで(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p340)、「もしほたれつつ……」は「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」(『古今集』雑下、在原行平)を借りたものですね。
その後も「吹き越す風」は「旅人のたもと涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」(『古今集』羈旅、行平)を、「千声万声の……」は「八月九月正に長き夜、千声万声了(や)む時無し」(『和漢朗詠集』、擣衣、白居易)を、「波の枕をそばだてて……」は「枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波ただここもとに……浮くばかりになりにけり」(『源氏物語』須磨)を、「明石の浦の……」は「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」(『古今集』羈旅、詠み人知らず)を、「月毛の駒に……」は「秋の夜の月毛の駒よわが恋ふる雲ゐにかけれ時の間もみむ」(『源氏物語』明石)を借りていて、和歌・朗詠・源氏の引用が夥しく続きますが、これは文章をもう少し整えたら、そのまま早歌になりそうです。
「白拍子三条」の現存する早歌は「源氏」「源氏恋」の二曲だけですが、「白拍子三条」が後深草院二条の「隠れ名」だとしたら、実際には二条はもっと沢山の曲を作っていたかもしれないですね。
音楽の才能もある二条なら明空レベルの作品はいくらでも作詞作曲できたはずです。
明空が書いた「撰要目録」の「序」に出てくる、

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藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨てがたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。

という「白拍子三条」に言及した部分は、「なまじひに光源氏の名を汚し」に明空の微妙な屈折を感じるのですが、あるいはこれは明空が自己の存在を脅かしかねない「白拍子三条」こと二条に感じた嫉妬心の現われなのかな、などと想像(妄想?)してしまいます。
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