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「巻九 草枕」(その12)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(後半)

2018-03-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月31日(土)14時44分20秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

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 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
 残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
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【私訳】西園寺大納言は前斎宮の所を目指してこのように参られたのだが、いつもと違って男が車から降りる様子が見えたので、何か事情があるのだろうと思われて、「御随人一人、その辺で何気ない様子で見張っていよ」といって、御随人を置いて帰られた。師忠公は本当に意外な、気の進まない御旅寝ではあるが、前斎宮の御様子をお見受けするにつけても、また先程の大将の車のことなどを思い合わせてみて、「どうも(実兼は)この宮とわけがあるようだ」と合点されると、「(それと知ってこんなことをするのは)本当に好色なしわざだ。つまらないことだ」と思われたので、夜が更けないうちに退出された。
 西園寺大納言が残して置かれた随人は、この様子をよく見て「かくかくしかじかでございます」と言上したので、西園寺大納言は大変情けなく思われて、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。あの大臣の心の中もどうであろう」と様々に思い乱れられて、その後は長い間全く訪れがないのをも、この宮の方では、あんなにまですっかり見られてしまったともご存じないので、不思議に思いながら過ぎて行くうちに、宮が懐妊の御様子で悩んでおられるのをも、西園寺大納言は、宮の相手が自分一人とも思われないので、このことを極めて不快なことにお思い申し上げるのも、いたしかたのないことであった。
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ということで、何と感想を言っていいのか分からないシュールな展開です。
二条師忠の役割はこれでお終いで、この後に西園寺実兼のみが登場する若干の後日談があります。

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 さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
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【私訳】しかしやはり(自分の子と)思い当たられることがあったのであろうか、お産のときのことなども、たいそう心をこめてお世話申し上げたのであった。別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた。財産の御分配もあったということだ。前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(一二八四)二月十五日に亡くなられたのを、西園寺大納言はたいそう嘆かれたということである。

ということで、これで前半は『とはずがたり』を圧縮し、後半は『増鏡』独自の全く新しいエピソードを追加した前斎宮をめぐる三角・四角関係の物語は終わりです。
西園寺実兼(1249-1322)はまだしも、二条師忠(1254-1341)は何とも奇妙で滑稽な役回りですが、『増鏡』の作者を師忠の子孫・二条良基(1320-88)とする通説、また丹波忠守作・二条良基監修説の人々は、『増鏡』作者が二条師忠にこのような役回りをさせていることをどのように考えているのか、私はかねてから疑問に思っています。
ただ、『増鏡』と『とはずがたり』の作者が同一人物と考える私の立場からも、「巻九 草枕」では、何故に前斎宮をめぐるこのような長大な、そして全く歴史的意義がないエピソードが延々と綴られるのか、という疑問は残ります。

二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0
二条良基(1320-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E8%89%AF%E5%9F%BA

なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d25d5d082f4bcb4b7482904bece4143

また、井上宗雄氏は「この実兼らとの関係は何によったのかわからない。小説的な話のようでもあるが、照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あったのであろう」と述べられていますが(『増鏡(中)全訳注』、p233)、問題の本質は照明の有無ではなかろうと私は思います。

「照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あった」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91c005892d36c602ab1c0805bceb914

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「巻九 草枕」(その11)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(前半)

2018-03-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月31日(土)12時17分29秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p226以下)

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 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
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【私訳】その後も時々はお手紙などをさし上げて、前斎宮のお心を動かされがが、わざわざお会いになるなどは、なかなかできない事なので、たいそう疎遠になっていったのであった。「激しい恋の思いには、人目を忍ぼうとする心も負けるものなのだ、と言われているが、それほどまでの御執心ではなかったのだろう。

ということで、「負くるならひ」は『伊勢物語』(六十五段)の歌、「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」に拠ります。
『とはずがたり』では、後深草院は異母妹の前斎宮を、美人ではあるけど予想に反してつまらない女だったとして、一夜限りの関係で終わらせてしまいますが、その後、二条の助言に従って、年内にもう一度だけ逢う場面が設定されています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c06bf622f776f24eba7e35847774a8da

しかし、『増鏡』では後深草院が二夜続けて関係を持った上で、その後は時々手紙を送っただけで終わったものとしています。
そして、後深草院に代って西園寺実兼が新しい愛人として登場します。

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 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
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【私訳】前斎宮は後深草院と疎遠になったことを何とも情けないとに思い続けておられたところ、西園寺大納言(実兼)が忍んで通って来られるようになった。西園寺大納言は人柄もこのうえなく誠実で、前斎宮をとても大切に思い申されるので、母代りとなっている方も、仕方があるまいということで、次第に深く頼りにしておられた。そして、ある夕方、西園寺大納言が「宮中から退出するついでに、また、必ず伺いましょう」とお約束申し上げて、あてにおさせ申してあったので、前斎宮の方でもそのつもりで誰もがお待ちしていると、たまたま大臣二条師忠公が、全くのお忍びでお歩きになっておられる途中、あの西園寺大納言が御前駆などを多く整えて、とても花やかな様子で来られるのに出会われたので、面倒だと思われて、ちょうどこの前斎宮の邸の御門が開いていたので、女宮のお住まいだから、ちょっと立寄ったところで、そうたいしたことはあるまいとお思いになって、しばらく身を隠して、あの大将(実兼)の車をやり過ごした後で、ここから出ようと思われて、ご自分の車を門の下に引き寄せて、師忠公は烏帽子直衣の柔かい服装でお降りになった。
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ということで、後深草院があっさり離れてしまった後、前斎宮には西園寺実兼という新しい愛人が出来て、それなりにうまく行っていたところに二条師忠が登場します。

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 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
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【私訳】前斎宮の方では西園寺大納言が来られたのだと思われて、いつもは忍んでお出でになることとて、門の内に車を引き入れて対の屋の端のほうから車を降りていらっしゃるのに、今日は門の所でお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見分けもつかなかった。(師忠公は)妻戸のかけがねを外して自分の来訪を待ち受けている人の気配がするので、何となく不思議なお気持ちになられ、中門の廊へ上られると、いつもの慣れたことなので、可愛らしい童や女房が現われ、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、その後について奥にお入りになった。前斎宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、何やかやとこうした場合にふさわしく、これまでずっとお慕い申し上げていたなどとうまく申し上げなさって、(そこで前斎宮も間違いに気づき)本当に驚いて、一方ならぬお悩みが加わりなさったのであった。

ということで、何とも奇妙な展開となります。
この話も『とはずがたり』には全く存在せず、『増鏡』が独自に創作した部分です。

なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63e01f197758952dbbce5da971f4a727
『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6984d0e5c497123d2681603d4982983

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